1922年(大正11)5月7日から販売がスタートした、下落合東部の「近衛町」Click!に関する東京土地住宅(株)Click!による新聞出稿の媒体広告を、販売開始日の前後を含め、まとめて入手したのでご紹介していきたい。箱根土地(株)Click!が開発した目白文化村Click!は、同年6月20日に第一文化村の分譲を開始しているので、それよりも1ヶ月半ほど早い売り出しだった。
だが、以前の「未契約地」記事でも書いたけれど、目白文化村は今日の宅地開発のように、すべての区画を整地(縁石や擁壁なども設置)し生活インフラを整えたうえで、敷地を購入した顧客が翌日からでも住宅建設の工事が開始できるような販売手法をとったのに対し、近衛町は道路を整備しただけで整地作業は行わず、土地が売れて住宅建設の計画が具体化してから、初めて樹木の伐採や整地作業、生活インフラの整備を行っていたようだ。だから、東京土地住宅による初期の「分譲地割図」は、具体的な整地作業を終えたのちに作成されたものではなく、旧・近衛篤麿邸Click!の敷地に繁った森林の状態のまま、測量をもとに机上で区画割りされ作図された図面にすぎず、図面に見るような各敷地ができあがっていたわけではない。
目白文化村の開発は、早くから行われていたにもかかわらず近衛町の売り出しよりも遅れているのは、整地作業と宅地化や生活インフラの整備に時間がかかったからだと思われる。つまり、同じ「開発」でも目白文化村と近衛町とでは、売り出しまでに要する中身の整備負荷や作業のリードタイムが、まったく異なっていたからだろう。目白文化村は、目白駅からどう急ぎ足で歩いても20分ほど(スピードの遅い未舗装の目白通りを走るダット乗合自動車Click!で10分弱)はかかるのに対し、近衛町は目白駅から徒歩3分でたどり着ける好条件だった。目白文化村は、モデルハウスや倶楽部、庭園などを設置して、魅力あふれる住宅地としての視覚的なプレゼンテーションが必要だったが、近衛町は駅からすぐの至近距離にあり、「黙ってても売れる」ような環境だった。
販売された当初、目白文化村と近衛町の現地を同時に見学したら、おそらく双方の住宅地は対照的な景観をしていただろう。前者は、目白崖線の斜面近くまで整地され、見わたす限り赤土がむき出しで、ところどころに大谷石の築垣などが見えるような、今日的な新興分譲住宅地然とした様子だったのに対し、後者は杉卯七邸Click!の窓から見えるようにいまだ森林だらけであり、見学しようとしている敷地の形状や境界も、測量されてうがたれた杭などの目印を細かく確認しなければ判然とせず、ちょっと訪れただけでは分譲地のイメージがつかみにくい状況だったにちがいない。それでも、近衛町は1923年(大正12)の夏ぐらいになると、整地され住宅を建てられるばかりになった敷地Click!が、部分的に見られるようになっていた。そして、大正末に向けて小林盈一邸Click!の窓から見えているように、あちこちで建築工事をする大工たちの作業音が響いていただろう。
さて、東京土地住宅は近衛町の販売をはじめる前年、市街地にあった大規模な邸宅地の分譲販売をあちこちで手がけている。1921年(大正10)11月には、牛込区馬場下町(現・新宿区早稲田町)にあった善隣園の庭園の分譲を手がけているが、もうひとつ同年5月に赤坂の2,500坪弱の土地を150~160円/坪で販売している。1921年(大正10)5月2日の東京朝日新聞から、東京土地住宅の広告を引用してみよう。
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大邸宅地の分割開放/特別廉価/場所 赤坂一等地
大木巨石多く、周囲よく閑静、高燥、道路の便よく自動車自在/総坪数二千五百坪弱/分割坪数大小自由/一坪百五六十円(三種)/危険なる株より安全なる土地へ/斯くの如き好適廉価の土地は再び得難く申込順に契約す/申込 自五月二日至五月十二日▲〆切以後は受付不申候/▲御来談は午後御本人に限る
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さすがに赤坂区は市街地なので、坪単価が100円をゆうに超える価格がついているが、この「赤坂一等地」がどこなのかは、所在地が記載されていないので不明だ。東京土地住宅のビジネスとしては、細々とした土地の分譲は手がけず、華族屋敷などの大規模な土地処分ばかりを扱っているので、この2,500坪弱の売り出しもそのような筋の土地だろう。
また、同年の春は、東京土地住宅が主催した懸賞金つき(1等200円)の「新住宅図案」コンペが行われ、5月にはその当選者が新聞紙上に発表されている。このとき、1等に当選した建築家は山中節治だった。2等には河野伝Click!や首藤重吉の名前が見え、コンペの審査員にはあめりか屋Click!の山本拙郎Click!や西村伊作、今和次郎Click!などが名を連ねている。
翌1922年(大正11)の春になると、同社の常務取締役だった三宅勘一Click!と近衛文麿Click!との打ち合わせがまとまり、4月15日には早くも近衛町販売のアドバルーン広告を出稿している。キャッチフレーズは、ずばり『処女地―土地を買ふのは嫁を取ると同じです―』と、今日なら企業の品位を下げ、現代女性たちからは「気持ちワルッ、バッカじゃないの」とでもいわれて、失笑をかいそうな表現を採用している。
ちなみに、このキャッチ&コピーは、その後もたびたび署名入りで広告に登場する、三宅勘一自身が考案した可能性が高い。1922年(大正11)4月15日の東京朝日新聞に掲載された、東京土地住宅の広告から引用してみよう。
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処女地/土地を買ふのは嫁を取ると同じです
◆嫁を娶る第一の注文は処女である事 次は品のよい美しいそして健康で家筋の正しい事であります ◆此度本社の提供する土地は由緒正しい自然美に富んだ処女地で品位ある健康地であります/二萬坪の理想郷/ ◆価格は頗る低廉で、樹木多き高台で省電目白駅に三分、市電は近く此処迄延長の筈で大道路に接してゐます ◆その処女地とは住宅地として凡ての条件に適合し満点の資格ある目白近衛町の事であります ◎五月七日より分譲開始
算盤本位の土地購入は危険です
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1921年(大正10)まで、故・近衛篤麿とその家族たちの大きな屋敷が建っていたので、厳密には「処女地」とはいいがたいはずなのだが、近衛旧邸母家は「近衛町地割図」によれば、近衛町4・5・6・7・8・14号敷地あたりに建っていたわけだから、残りのほとんどの土地は販売時でさえ手つかずで、確かに目白崖線沿いに拡がる森林のままだった。
また、当初の「近衛町」と名付けられた範囲を考慮すれば、コピーの「二萬坪」はあまりにも広大すぎる。のちに学習院昭和寮Click!が建設される近衛町42・43号、その東側に広がる南斜面をすべて含めても4,000坪ほどだろう。この「二萬坪」という表現は、近衛新邸Click!の建つエリアや目白中学校Click!、林泉園Click!がある下落合の近衛家敷地のほとんどすべてを含めた数字ではないかとみられる。
なぜなら、東京土地住宅は近衛町の販売をスタートしてからわずか2ヶ月後の6月17日に、今度は林泉園を含む相馬孟胤邸Click!の北側に拡がる一帯を、「近衛新町」名づけて販売しはじめているからだ。当然、「二萬坪」広告を打った時点では、「近衛新町」の販売プロジェクトもまちがいなく射程に入っていたはずであり、さらには1926年(大正15)までには移転してもらう予定の目白中学校Click!の跡地Click!や、近衛新邸の周辺域まで、汎「近衛町」の開発構想がすでに進んでいたのかもしれない。
さて、1922年(大正11)4月22日の東京朝日新聞には、近衛町の売り出し直前のキャッチフレーズ「大邸宅の持ち主に」ではじまる、一種の煽りコピーとでもいうべき表現のプレ広告を出稿している。つづけて、東京土地住宅の媒体広告から引用してみよう。
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大邸宅の持主に/近衛町をして更に十倍の大土地開放の苗床たらしめよ
◇土地の民衆化は時代の緊切な要求となりました、思想上経済上都会地に大邸宅を所有する事は非常に困難になつて来ました ◇各位は此際決断と勇気とを以つて予め住宅移転地の候補地を決定し徐ろに御所有の旧邸宅地の開放分割を本社と共に考慮されん事を希望致します ◇本社は移転候補地として目白の近衛町をおすゝめ致します、此地は交通衛生環境等に於て所謂「満点の住宅地」でこれに本社独特の科学的経営法を施し近く理想的な住宅地を出現いたします ◇かくして今度提供される近衛町が大邸宅地分割の基準となり今後続々市内外の大邸宅地が開放さるゝならば本社の計画は更に意義を生じ開放された近衛公の精神も生き市民多衆の福祉も増進せられる訳であります ●目白近衛町概要は御通知次第御送付致します/品の佳い床しい街へ
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東京土地住宅の「本社独特の科学的経営法」が、具体的にどのようなものなのかは不明だが、市街地や郊外に大規模な敷地を所有する華族に対し、近衛家も「開放」しているのだから、それにつづかなければ時代の「精神」や趨勢に遅れるよ……とでもいわんばかりのコピー表現だ。内情を知る華族がこれを読んだら、思わず「近衛公が自宅の敷地を“開放”したのは、借金返済がタイヘンだからでしょ」とつぶやいただろう。
こうして、新聞記者を集めた記者会見も含め、“鳴物入り”でスタートした下落合の近衛町開発だったが、1922年(大正11)10月27日に新聞紙上へ「完売」したと発表しているにもかかわらず、おもに傾斜地が「未契約地」として同年以降も残り、特に近衛町44号は改めて宅地の地割り作業が行われ、「S」字型急坂を追加開発で設置しているのは以前の記事に書いたとおりだ。
<つづく>
◆写真上:車廻しの右手に、近衛旧邸の玄関があった下落合近衛町の現状。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)5月2日の東京朝日新聞に掲載された「赤坂一等地」の開放広告。下は、近衛町43号界隈の三間道路から北を向いた街角。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)4月15日に東京朝日新聞に掲載された近衛町分譲のプレ広告。下は、近衛町33号へ1923年(大正12)に建設された杉卯七邸の2階書斎から眺めた近衛町の様子。周囲は森ばかりで、建築当初は樹間の別荘のような風情だった。
◆写真下:上は、1922年(大正11)4月22日の東京朝日新聞に掲載の近衛町分譲プレ広告。下は、小林盈一邸の2階から建設中の家々がとらえられた近衛町の様子。