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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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児童文学の宝庫としての三岸アトリエ。

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目白台ハウス(目白台アパート).JPG
 先日、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!より、また未整理の資料が出てきたとのご連絡をいただいた。以前、アトリエ2階に山積みのまま残され、整理させていただいた三岸好太郎Click!および三岸節子Click!の資料類とは別に、2階の書斎兼書庫のクローゼットに収納された段ボールの中から、児童文学関連の資料が大量に見つかったのだ。
 その多くは、戦後間もないころの早稲田大学童話会の資料や、坪田譲治Click!が主催した「びわの実学校」の刊行物「びわの実」(1960~80年代)をはじめ、いまだ戦災から復興していない1945~55年(昭和20~30)ごろに出版された、さまざまな童話本の数々だった。よほど大切にされていたのだろう、1冊1冊がビニール袋でていねいにくるまれ、特に戦後すぐのころの紙質が悪い書籍は、用紙の劣化が進まないように配慮されていた。
 わたしは、児童文学や青春文学と呼ばれるジャンルが好きで、書棚の丸ごとひとつが国内外のそれらの作品で埋まっているのだけれど、まったく体系的な読み方をしていないので、いわゆる児童文学史というような分野にはまったく暗い。しかし、これらの資料が山本愛子様のお父様である、児童文学者をめざし「藝術新潮」の創刊メンバー(編集次長)でもあった、向坂隆一郎様の遺品であることは資料類を一瞥してすぐにわかった。向坂隆一郎様は、三岸夫妻の長女・陽子様Click!の夫であり、編集者としても、また劇団「雲」や三百人劇場のプロデューサーとしても広く有名な方だ。
 まず、日米戦争で敗色が漂いはじめた、1943年(昭和18)当時の早大童話会の様子を、劇作家・内木文英の証言から聞いてみよう。1984年(昭和59)に出版された『回想の向坂隆一郎』(向坂隆一郎追悼集編集会)所収の、内木文英「向坂隆一郎を思う」から。
  
 (早大を)ぼんやり歩いているところを、勢いのいい若者に腕をつかまれた。見ると桃の印のついたポスターが張りつけられ、早大童話会と記されている。顧問、坪田譲治先生の名も見える。入会したら坪田譲治に会えるのかとたずねると、言うまでもないと返事が返ってくる。この高名な作家と会えて話ができるならと考えて入会を決めた。そこに向坂隆一郎がいたのだ。前川康男、永井萌二、鈴木隆、今西祐行、竹崎有斐、そしてもう童話作家として活躍していた岡本良雄や、水藤春夫とも会うことができた。翌年入って来た者の中に大石真がいたし、戦後の入会者の中に寺村輝夫、高橋健、古田足日、鳥越信もいるのである。(カッコ内引用者註)
  
 戦争末期から敗戦にかけ、早大童話会には戦後の児童文学界をになう、錚々たるメンバーが集っていたのがわかる。また、内木文英は彼から落合地域でも馴染みのある、古谷綱武Click!を紹介されている。古谷綱武は、向坂隆一郎様の義理の叔父にあたる人物で、当時は上落合から杉並区天沼へと転居していた。
 敗戦後の一時期、向坂様は北海道へと出かけ、牧場で働きながら童話の同人誌「コロポックル」を創刊したり、人形劇団を結成して各地を公演してまわっている。やがて、東京にもどった向坂様は、新潮社に入社し少年少女雑誌「銀河」編集部に入り、1950年(昭和25)になると「藝術新潮」発刊のために同誌編集準備室へと引き抜かれている。
児童文学資料1.JPG 児童文学資料2.JPG
回想の向坂隆一郎1984.jpg 三岸アトリエ2014.jpg
 「藝術新潮」編集中は、多くの芸術家や作家たちと接する同誌のフロント役で顔なじみとなり、三岸アトリエを訪ねたのがきっかけで三岸陽子様Click!と知り合った……という経緯だ。そのときの様子を、1999年(平成11)に文藝春秋から出版された吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用してみよう。
  
 五三年に陽子を、節子の担当編集者であった『芸術新潮』の向坂隆一郎と結婚させている。積極的に橋渡しをしたのは菅野だった。「自分の子どもを引き取ってもらうために、取りあえず娘たちを結婚させねばと、躍起になっていたのだろう」と陽子は言う。ウエディングドレスが見たいという菅野の母親に、伊豆まで見せに行ったと陽子は記憶している。
  
 ここに登場する菅野とは当時、三岸節子と「別居結婚」をしていた独立美術協会の洋画家・菅野圭介Click!のことだ。
 当時の「藝術新潮」は、美術界だけでなく演劇や映画の紹介にも力を入れていたため、向坂様は同領域の人々とも親しくなり、やがては新潮社を辞めて、文学座Click!の分裂にからみ芥川比呂志Click!たちと劇団「雲」を結成し、「現代演劇協会」の事務局長に就任している。その後の向坂様の事績については、長くなるので割愛するけれど、演劇にかかわっていた期間を通じて、ずっと児童文学の世界に関心を寄せつづけていたことが、今回見せていただいた資料類から判然としている。おそらく、1983年(昭和58)8月に心筋梗塞で倒れるまで、気になる児童文学書や資料には目を通していたのではないだろうか。
 児童文学界とはまったく異なる、馴れない演劇界と深くかかわったせいか、先の『回想の向坂隆一郎』には、芥川比呂志の瑠璃子夫人や田中澄江、松村達雄、木下恵介、羽仁進、飯沢匡、別役実、内田朝雄、浅利慶太など、多彩な演劇人が追悼文を寄せている。
 おそらく、事務局長というストレスがたまりそうなマネジメント業務がつらかったのだろう、向坂様はときどき目白へグチをこぼしにやってきている。息抜きに訪問していたのは、目白坂(旧坂)の途中に建っている目白台ハウス(通称:目白台アパート)に住む、作家・瀬戸内寂聴の家だった。『回想の向坂隆一郎』から、瀬戸内寂聴「かぎりなくやさしい人」の証言を聞いてみよう。
童苑1936.jpg 童苑1938.jpg
童苑1942.jpg 小川のをみなへし1942.jpg
古谷綱武「児童文学の手帖」1948.jpg ポプラ1949.jpg
  
 私たちはとりとめもないことを話しながら、向坂さんの憂鬱がいくらか慰るのを待って別れていたように思う。/まるで身上相談のような形だが、答えを期待しているわけではなく、向坂さんは、私に話せば気がすむというふうであった。/そのうち、私たちは、よく電話でも話すようになり、向坂さんはそんな時、必ず、近いうちに伺いますと大きな声で自分にいい聞かすようにいった。私は向坂さんの話を聞くうち、向坂さんが私に逢いたがったり、電話をしたくなる時は、心身のどこかに翳りが出来た時だと判断するようになった。私は逢うなり、/「今、何を悩んでいらっしゃるの」/と、占い師のように訊き、向坂さんの気の弱い表情の笑顔を見るのが恒例になった。電話でも、声を訊くなり、/「また、何かおこって?」/と訊く癖がついてしまった。ぷっつりと連絡のとだえる日がつづくと、私は、今、向坂さんは充実して元気なんだなあと思う。そしてそれがぴたりと当っているのを知るようになった。
  
 さて、今回クローゼットから出てきて、お見せいただいた資料の中には、戦前の早大童話会が発行していた季刊「童苑」(1936年~)をはじめ、戦時中の「童苑」(1942年~)、古谷綱武『児童文学の手帖』(育生社/1948年)の初版、坪田譲治『春の夢 秋の夢』(新潮社/1949年)の初版、赤松俊子(丸木俊)Click!が装丁を担当する児童文学誌「ポプラ」(1949年)、松谷みよ子『貝になった子供』(あかね書房/1951年)の初版、小学生文庫に収められた内木文英『劇をしましょう』(小峰書店/1951年)の初版、安倍能成Click!らが監修する小学生全集所収の坪田譲治『山の湖』(筑摩書房/1954年)の初版、そして戦後の児童文学誌「びわの実」各巻など、おそらく児童文学の研究者が見たら垂涎ものの資料ばかりなのではないかと思われる。
 1942年(昭和17)7月に発刊された早大童話会「童苑」には、向坂隆一郎・作の『小川のをみなへし』が掲載されているのだが、また機会があったらご紹介したい。戦時中にもかかわらず、児童文学の世界は作品から戦争のキナ臭い匂いや、特高からの圧力による軍国調の表現などがほとんど見られず、かえって新鮮な印象を受けるのだ。
 段ボールに入れられた資料を、あらかた拝見し終えたとき、目の隅になにか大きな白いものが映った。そちらに目を向けると、30cmはありそうなシャコガイの貝殻だった。当然、わたしは色めきたち、山本愛子様へ晩年の三岸好太郎作品Click!に多く登場する、「貝殻のモチーフのひとつじゃないですか?」とせきこんで訊ねた。だが、ハッキリしたことはわからないようで、いつ誰が入手したものなのかも不明だとのこと。手にすると、ズッシリと重たいシャコガイについては、またなにか判明したら、別の物語で……。
坪田譲治「春の夢秋の夢」1949.jpg 松谷みよ子「貝になった子供」1951.jpg
内木文英「劇をしましょう」1951.jpg 坪田譲治「山の湖」1954.jpg
シャコガイ貝殻.jpg
 なお、向坂隆一郎様が「藝術新潮」時代に、音楽芸術家協会へ三岸節子を紹介しているとみられ、原智惠子(pf)や巌本眞理(vn)など1950年代の演奏会プログラムが出てきた。当時としては斬新で美しいデザインのプログラムなのだが、ご紹介できないのが残念。

◆写真上:目白坂に面した旧・目白不動境内跡に隣接して建つ、向坂隆一郎様がときどき訪れている瀬戸内寂聴が住んでいた目白台ハウス(通称:目白台アパート)。
◆写真中上は、アトリエ2階のクローゼットから出てきた資料段ボールの一部。下左は、『回想の向坂隆一郎』(1984年)。下右は、三岸アトリエが国の登録有形文化財に指定されたのを機に刊行された山本愛子様・編集のフォトブック『三岸アトリエ』(2014年)。
◆写真中下上左は、1936年(昭和11)刊行の「童苑」(早大童話会)。上右は、1938年(昭和13)刊行の同誌。中左は、1942年(昭和17)の「童苑」。中右は、同号に掲載された向坂隆一郎『小川のをみなへし』。下左は、古谷綱武『児童文学の手帖』(育生社/1948年)。下右は、1949年(昭和24)発行の童話誌「ポプラ」。
◆写真下上左は、坪田譲治『春の夢 秋の夢』(新潮社/1949年)。上右は、松谷みよ子『貝になった子供』(あかね書房/1951年)。中左は、内木文英『劇をしましょう』(小峰書店/1951年)。中右は、坪田譲治『山の湖』(筑摩書房/1954年)。は、三岸アトリエの2階にあったシャコガイの貝殻。


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