目白駅の橋上駅化の錯誤Click!は、おそらく尾崎翠Click!の旧居跡の誤規定Click!のケースとよく似ているのではないかと思われる。最初に、目白駅の橋上駅完成は「1919年(大正8)」と規定した人物は、鉄道史の分野ではそれなりに大きな影響力のある研究者あるいは執筆者で、書かれた書籍は東京市街地の鉄道史を知るうえでは、一種の“バイブル”のような存在だったのではないだろうか。
尾崎翠のケースでいえば、彼女の今日的な研究基盤とでもいうべき『定本尾崎翠全集』(筑摩書房/1997年)に掲載された、旧居跡の誤規定からすべてがはじまっていた。それ以来、唯一の例外として新宿区の出版物(新宿歴史博物館の刊行物1点)を除き、誰からも“ウラ取り”の検証がなされず、さまざまな書籍へそのまま書き写され、引用されつづけてきた。その経緯は、わたしが以前に『尾崎翠フォーラム』第8号(尾崎翠フォーラム実行委員会/2008年)に書かせていただいたとおりだ。
目白駅の橋上駅化のテーマもまた、誰からも疑問を抱かれず検証されることなく、今日まで延々と書き写されてきた結果だと思われる。これも、拙記事では何度か書かせていただいたフレーズなのだが、さまざまな出来事や事象は図書室や資料室の机上で起きているのではなく、その“現場”で起きているのだということを、改めて確認しておきたい。
鉄道史ファンの誰かひとりでも、当の“現場”である目白駅を訪ねて取材し、駅職員が代々記載しつづけてきた『目白駅史』(写し)の存在を示唆され、同時に目白駅が出版した写真集『開業八十周年記念』(1965年)の年譜などの記録や記述を早々に参照していたなら、目白駅の橋上駅化は「1919年(大正8)」という誤謬はもっと早くに訂正され、これほど誤りが広く拡がることもなかっただろう。
繰り返すが、ぜひその研究対象としている地域の“現場”へ足を向けて、「地に足がついた」主体的な研究・検証をしてほしいと、つくづく感じるのだ。
では、前回に引きつづき豊島区教育委員会の「研究紀要」第24号に掲載された、できる限りの緻密な調査や取材を展開している平岡厚子氏の労作、『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』研究論文から引用してみよう。
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これらの鉄道省の刊行物以外の資料として、目白駅に伝わる手書きの『目白駅史』の写しがあり、その中には「大正十一年 八年起工中ノ本屋及線路模様替竣工ス」という記録がある。『目白駅史』は、大正四年五月から纏め始められた対外的な発表を念頭に置いていない目白駅の忘備録で、複数の筆者によって書き継がれている。この部分は、それだけでは意味がはっきりしないが、前記の鉄道省の文書と合わせて考えると、一旦起工した工事の中断と再開があった事を述べているとみられる。また、目白駅が一九六五年に出した『開業八十周年記念』という写真集に添えられた簡単な年表にも(原文は横書き)、
大正11 本屋改良工事竣工(現在位置)
昭和37、8、16、 〃 (現在の姿)
〃 38、4、10、 新跨線橋完成
とある。
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上記にもあるとおり、3代目となる目白駅(金久保沢の地上駅舎の場所移転と駅舎リニューアルを無視してしまえば2代目)の橋上駅化、すなわち初代の目白橋上駅は、先の『国有鉄道現況』など鉄道省の資料と合わせ、1922年(大正11)に竣工していることは明らかだろう。
また、鉄道省関連の工事記録や上記の『目白駅史』の記述を前提とすれば、下落合に居住していた人々が1921(大正10)前後に、いまだ金久保沢にあった地上駅の目白停車場を利用していたと思われる記録や記憶とも、なんら矛盾することなくスムーズに整合性がとれることになる。それは、「記憶ちがい」や「事実誤認」などではなく、正確な記述であり記憶だったことがわかるのだ。
もうひとつ、論文著者は傍証として、東京興信所Click!が1921年(大正10)に実施した地価調査、すなわち『北豊島郡高田町土地概評価』の存在も挙げている。そこには、目白駅が「西側」の「概ね一段の窪地なり」と、同駅がいまだ金久保沢に建つ地上駅であったことが明記されている。同論文から、引きつづき引用してみよう。
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また、東京興信所による「大正十年三月調」の『北豊島郡高田町土地概評価』には、目白駅のある高田町字金久保沢のことが、以下のように記されている(一部略)。
(目白駅附近の鉄道の両側にて東側は全部学習院 西側は駅前の通筋及び其裏にて概ね一段の窪地なり 駅附近は商業地、裏地は殆ど住宅地にて稀に工場あり)
評価 最高 五〇円 最低 三〇円/内訳/(一)一一一三-一一二〇、一一三〇-一一三五番地(目白駅附近の通筋) 四〇-五〇円
一一一三から一一二〇番地は、目白通りの「下の道」沿いの一帯。一一三〇から一一三五番地は、<金久保沢地上駅の>駅前広場附近となる。つまり、一九二一年三月には、まだ地上駅があったことがわかる。(< >内引用者註)
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さて、著者が1922年(大正11)夏ごろに竣工したと想定している初代・橋上駅だが、わずか6年後に再び全面リニューアル工事が施され、1928年(昭和3)8月には新たな2代目・目白橋上駅の新駅舎が誕生している。初代橋上駅の図面や、当時撮影された外観写真を見比べれば明らかだが、初代と2代目の駅舎とはまったく異なる意匠であり建築だ。この建て替えは、関東大震災Click!以降に激増した、東京郊外への人口移動による乗降客の爆発的な増加と無関係ではないだろう。
改札出口も、初代・橋上駅が目白橋の西詰めにあった“駅前広場”へ出るのに対し、2代目・橋上駅は目白橋の真上に出られるよう大幅な設計変更と、目白橋を含む大がかりな改造工事が実施されている。初代・橋上駅舎は、目白橋との間にいくらかの“距離”が存在しており、たとえば学習院へ向かうには改札を出て、いったんは目白橋の西のたもとにある駅前広場に出ると、改めて橋を西詰めから東へわたらなければならなかった。その駅舎の様子は、1925年(大正14)の1/3,000地形図、あるいは翌1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」で正確に採取・描写されている。橋上駅とはいえ、いまだ改札を抜けると目白橋の“上”ではなく、厳密にいえば目白橋の西のたもとに設置された、狭い駅前広場へ出られる構造になっていた。
1928年(昭和3)竣工の2代目・目白橋上駅は、金久保沢にあった初期地上駅(初代・2代)から数えて、4代目にあたる目白駅舎だ。詳細は、「研究紀要」第24号の同論文自体を読んでいただきたいのだが、4代目の駅舎は戦争をはさみ、多くの改修工事、ときに戦災による被害から大幅な改築工事をつづけながら、戦後もそのまま使われつづけてきた。
わたしが学生時代から、もっとも親しみのある目白駅舎は、竣工当時からずいぶん手が加えられ、その意匠も大きく変貌しているとはいえ、改札からすぐに目白橋へと出られる、この4代目・目白駅の位置に建っていた。しかし、1962年(昭和37)に実施された、『目白駅史』にもみえる駅舎の大規模な「改良工事」では、「本屋」の意匠がかなり変化しているとみられるので、同年から2000年(平成12)までつづく橋上駅舎を、5代目(3代目・橋上駅)と呼んでもいいのかもしれない。そして、2000年(平成12)に現在の4代目・橋上駅(上記の見方をとらなければ3代目・橋上駅舎)、すなわち金久保沢の地上駅(初代・2代)から数え、6代目(1962年の大規模な「本屋改良工事」による駅舎の改築を加えなければ5代目)の目白駅が竣工していることになる。
同論文では、目白駅の西側に残るコンクリートの階段についても、興味深い考察がなされている。同階段は、1922年(大正11)に竣工した初代・橋上駅、つまり3代目・目白駅に設置されていた、旧・地上駅前の金久保沢にある「目白駅荷物引渡所」などとの連絡用のものだったとする解釈だ。同荷物引渡所は、初代・橋上駅が完成したのちに金久保沢へ設置されているようだ。コンクリート階段は、1928年(昭和3)に2代目・橋上駅が竣工すると、駅舎内へのエレベーター設置などで早々に使われなくなり、駅舎内にあった階段の降り口も閉じられた可能性があるという。建築力学的にみても、わたしは目白橋の西端を支えているコンクリート階段は、撤去したくても撤去できない、橋梁を支える構造の一部になっているのではないかと想像しているのだけれど、それはまた、別の物語……。
◆写真上:金久保沢の谷間に残る、3代目・目白駅(初代・橋上駅)のものとみられるコンクリート階段。論文では乗降客用の階段ではなく、旧駅前の「目白駅荷物引渡所」などと駅職員の連絡用に設置された駅舎内の業務用階段と想定されている。
◆写真中上:上左は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」にみる3代目・目白駅(初代・橋上駅)。上右は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる同駅。下は、1929年(昭和4)に目白橋上から撮影された4代目・目白駅(2代目・橋上駅)。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)に竣工した3代目・目白駅(初代・橋上駅)と平面図。下は、1928年(昭和3)に竣工した4代目・目白駅(2代目・橋上駅)と平面図。いちばん上の3代目・目白駅(初代・橋上駅)の写真を除き、平岡氏の研究論文付属の写真より。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる4代目・目白駅(2代目・橋上駅)。下は、1962年(昭和37)の大改修が行われた翌年の5代目・目白駅(3代目・橋上駅)。この大改修をカウントすると、現在の駅舎は6代目・目白駅(4代目・橋上駅)となる。