久しぶりに、日本橋界隈のことについて書きたくなった。東日本橋に、いまだ江戸期と同様の日本橋米沢町や薬研堀町、若松町というような町名が残り、薬研堀不動Click!を中心に界隈が通称「薬研堀」Click!あるいは両国橋の西詰めだから「西両国」などと呼ばれていたころ、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)は神田川に架かる浅草御門(見附)跡(現・浅草橋)の南詰めに建っていた。明治の中ごろの、いまだ日本橋女学館が創立される以前の様子を記録した、めずらしい資料を見つけたのでご紹介したい。
資料は、日本橋区側(現・中央区の一部)の記録ではなく浅草区側(現・台東区の一部)のもので、台東区芸術・歴史協会が地付きの古老たちに取材してまとめたものだ。明治・大正・昭和と、およそ三代にわたる記録を集めている。その中に、浅草区須賀町(現・蔵前1丁目)にあった袋物(男性向けオシャレ道具の専門店)を扱う、丸嘉商店に勤務していた人物の証言が載っている。袋物屋は、江戸期には大名や大旗本、札差などのおカネ持ちを相手にする高級品商売で、明治維新後の西洋化政策で一時はすたれていたが、明治末から大正期にかけてリバイバルブームが起こり江戸期以来、再び隆盛をみている。
明治期の袋物屋は、男性向けの高級品ばかりでなく、女性向けの商品も扱っていたので、江戸期に比べて顧客層が大きく拡がっていた。丸嘉商店は、須賀町で商売の地盤を固めると、さっそく両国橋の西詰め=薬研堀界隈へ進出している。その様子を、1999年(平成11)に出版された『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』(台東区芸術・歴史協会)から引用してみよう。ちなみに、タイトルの下谷・浅草とは下谷区と浅草区、つまり今日の台東区のエリアをさしている。
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最初、店を浅草区須賀町に構えましたが、大層の儲けを出しました。繁昌の原因は、袋物ばかりでなく、貴金属や時計、もう、男性専門なんてかたいことは捨てて、丸利の方針の、何でも飛び抜けて上等物を揃えたのが受けたのです。明治三十二年、日本橋区若松町通称薬研堀に、土蔵造りの店舗を設け移転しました。豪華な建物でしたよ。/内部は三階、屋根裏に上棟明治三十二年棟領清水喜兵衛と書いた木札が上っていました。清水喜兵衛は、のちに清水組、現在の清水建設を造った人ですわ。大正六年、私が小僧に住みこんだ頃は、第一次世界大戦の影響で、大小の成金が輩出し、店の方も好景気でした。袋物までもリバイバルブームで、財界人たちに腰差煙草入れが流行し、一二,五〇〇円もする煙草入れが売れるという有様でした。現代なら一千万円以上でしょう。
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ここで面白いは、蔵前で成功した商家が、いまだ銀座ではなく江戸期と同様に柳橋や神田川の南側、つまり両国広小路Click!沿いの薬研堀界隈に拠点を移して進出していることだ。江戸期最大の繁華街だった両国橋の西詰めが、いまだ関東震災Click!以前の大正期にも、かなりな賑わいを見せていた様子がうかがえる。そして、祖父母から聞いていたのだろう、うちの親父も口にしていたことだが、「銀座は地震がおっかなくて、多くの大手商家が進出をためらっていた」という伝承につながってくる。
当時の銀座に建っていた多くの商業ビルは、いまだ明治期の東京市肝煎りによる、対外的な体裁を重視したレンガ街のままだった。江戸期から、数多くの地震を経験していた地付きの商家や商人たちは、レンガを積み上げただけの四角いビルが震動に耐えられそうもないことを、肌で理解していたにちがいない。つづけて、同資料から引用してみよう。
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関東大震災以降、この店は、銀座七丁目に進出しました。それ以前は、薬研堀です。薬研堀を選んだのは、銀座が東京市でレンガ造りの商店街として発足したが、地震でもあったら命がないというんで、入り手がなかったらしいんです。一方、薬研堀の方は、両国広小路に位置し、柳橋の三業地を控えた江戸の銀座といったところでした。その繁華は、大正十二年九月の大震災まで名残りをとどめていました。広場の名残りも、私が幼年時代まで両国広小路としてあったり、小学校二、三年では、広小路に両国公園ができたり、柳橋が鉄橋になったり、だいぶ様相が変ったのですが、柳橋が鉄橋になった時、おやじが「何て無粋な橋にしたんだろ」と憤慨していました。
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関東大震災では事実、銀座に残っていたレンガ造りの建物は倒壊し、多くの人々が生き埋めClick!になった。だが、より被害を大きくしたのは、昼食時だったためにあちこちから出火した火災だった。もうひとつ、浅草の凌雲閣(十二階)Click!が大正期に入ると人々の関心を惹かなくなり、地震への心配もあったのだろう、「早晩何とか始末しなければ」というような話も地元で出ていたらしい。明治の後半になって、人々が地震への心配を意識しはじめていたのは、1894年(明治27)に起きた明治東京大地震Click!によるものだろう。
当時の薬研堀不動は、現在地とは異なった場所にあるが、その前の通りは「薬研堀センター」と呼ばれていた。そして、通り沿いには証言者が勤める丸嘉商店をはじめ、同業の高級品ばかりを扱う壺屋、汁粉の梅園、象牙の扇屋、高級レストランの芳梅亭、寄席の立花亭、活動写真の第七福宝館、大川(隅田川)に面しては料亭の福井楼、生稲、大常盤などが並んでいた。この街並みの様子は、同じエリアにあった“いろは牛肉店”第八支店(牛鍋屋)の息子、木村荘八Click!が手描きマップClick!で記録している。そして、神田川に架かる柳橋Click!をわたるとすぐに、江戸東京を代表する花柳界Click!があるという点でも、両国橋西詰めの広小路一帯は繁華街として有利な条件を備えていた。
余談だけれど、最近の街歩きの本や雑誌で、「江戸の名残りをとどめた新橋の花柳界」とか「江戸情緒が香る神楽坂」とか、史的事実をあまりに無視したひどいキャッチフレーズが目につくので、ちょっと書いておきたい。新橋や赤坂に花柳界が形成されたのは、明治中期以降だし(大名屋敷街や旗本屋敷街になんで花街があるのだ?)、神楽坂の賑わいは、大震災の混乱が収まりはじめ(城)下町Click!にあった芸者屋や料亭、待合の一部が山手へ避難してきた、大正末から昭和期に入ってからだ。以前にも、時代表現Click!について書いたけれど、誤解を招くような表現はできればやめてほしい。
同書から、上記の花柳界について触れている箇所を引用しておこう。
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柳橋花柳界の繁盛したのは、江戸の後半だったでしょうか。明治になっては、新橋花柳界が次第に優勢になった。柳橋芸者は伝統的に江戸芸能にきたえられた、文字通りの芸者。しかるに明治の政財界の紳士たちは、ほとんどがよそもの。だからといって、柳橋がお高くとまっていたのでもあるまいが、客の方が位負けして面白くない。自然、新橋が繁盛しちゃったわけだと、花柳界筋から私はききました。
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また、別の方の証言で、柳橋のある浅草御門(見附)の内側から、越境入学で日本橋側の千代田小学校へ登校していた人物の証言も掲載されている。
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明治三十四年七月、馬喰町で生まれて、柳橋へは明治三十七、八年頃移りました。小学校は千代田小学校で、現在の日本橋女学館のところ。今でいう越境で、柳橋から橋を一つ越えて通ったもんです。今の浅草橋のところの消防署は当時の場所と変らず、その頃は馬力の消防車でした。柳橋界隈の家並みは、一戸建ての妾宅や待合、芸者屋、まれに商売をしている家がありました。待合は二十軒位あったろうか。隅田川には、うちのすぐそばから今の両国駅の前にかけて、富士見の渡しというのがあったんです。
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ちなみに、現在の千代田区立千代田小学校は1993年(平成5)にできた新しい学校で、それまで千代田小学校といえば、古老たちが通った浅草御門(浅草橋)南詰めの学校か、移転後に現在の日本橋中学校の敷地に建っていた同校のことだ。だから、千代田区の新しくできた小学校は、正確には2代目・千代田小学校ということになる。また、親父が通っていたころの千代田小学校は、とうに現在の日本橋中学校の位置に移転したあとのことで、関東大震災の教訓から、独特な耐火仕様の校舎に建て替えられていた。
『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』で証言をする方々は、かなり勉強ができて裕福な商家の出身であっても、親が上級の学校へ進学するのを許さなかったようだ。「藤村操をみなさい!」という親たちが多かったらしく、学問をさせるとロクなことがないというのが、当時の親たちに共通した認識だったらしい。藤村操Click!は1903年(明治36)に、「人生不可解」と書き残して華厳滝へ飛びこんでいる。時代がやや下るとはいえ、大学への進学を許す祖父母がいた親父は、かなり恵まれた家庭だったかもしれない。
◆写真上:江戸期とは位置が異なる、現在の両国広小路から大橋(両国橋)。
◆写真中上:上は、夕闇に包まれた現在の柳橋。下左は、1907年(明治40)ごろに撮影された柳橋で右手に見えているのが料亭「亀清楼」Click!。下右は、大正初期の柳橋で北詰めから南の日本橋側を向いて撮影していると思われる。
◆写真中下:上は、柳橋で営業をつづける小松屋。子どものころから屋形遊びといえば、小松屋の舟が多かった。中は、柳橋から神田川のひとつ上手に架かる浅草橋の眺めで左側にあるビルが日本橋女学館。下は、1890年(明治23)ごろに撮影された浅草橋。いまだ橋のたもとに広場が残り、浅草御門(浅草見附)の跡を色濃く残しているのがわかる。
◆写真下:上は、いまやビルにはさまれてしまった薬研堀不動。関東大震災で焼け、東京大空襲でも焼けて現在地に落ち着いた。下左は、1918年(大正7)ごろ撮影の凌雲閣(十二階)から眺めた大池。下右は、1981年(昭和56)に行われた凌雲閣跡の発掘調査。