下落合にも戦時中、大日本国防婦人会Click!の下落合分会が存在している。国防婦人会の中央幹部たちの顔ぶれをみると、たとえば総本部の役員のうち女性が5名なのに対し、男性は6名(陸軍軍人×5名・海軍軍人×1名)と半数以上が男で、しかも全員が軍人だった。女性幹部は軍人の妻が多いのだが、「婦人会」という名はついていても実質は男の軍人たちが運営を牛耳る、陸海軍の外郭団体のようなものだ。
これは、地域の国防婦人会でも同様で、たとえば下落合東部分会の例では、会長ひとりが女性で、残りの幹部である参与3名が全員男だったのをみれば、その内実は明らかだろう。1941年(昭和16)11月現在、国防婦人会の下落合東部分会の会長には兒島盛子という女性が就いている。太平洋戦争へ突入する直前だが、その少し前までは七曲坂の大島邸Click!に住んでいた、子爵で陸軍大佐だった大島久忠の夫人・大島千代子が就任していた。
さて、日米開戦直前に、国防婦人会下落合東部分会の兒島盛子会長は、どのような思いを文章に書いていたのだろう。おそらく、1941年(昭和16)の暮れも押しつまった時期に出版されたとみられる、下落合東部分会編の写真帖『記念』から引用してみよう。
▼
満州事変を動機として結成されたる大日本国防婦人会は、津々浦々まで行渡り飛躍的大発展を見つゝありましたが、支那事変の勃発にあたり、各地の組織を拡大強化するの必要上、当分会は昭和十二年九月二十六日八百六十八名の会員を以て発会式を挙げ、陸軍大佐大島子爵夫人千代子殿を分会長に擁し、積極的に活動を開始しました。(中略) 斯くして事変処理の完遂と東亜共栄圏の確立に邁進する、大国策に順応する有力婦人団体の一翼として、蓮績不断の活動を継続し皇軍の戦力を増進し皇国を不動の態勢に置かんとする秋、世界大動乱激化の情勢に突き進み、各婦人団体一致結束して大日本婦人会に統合にらるゝにあたり当分会記念のため此の写真帖を領つことゝ致しました。
▲
はからずも、「大国策に順応する有力婦人」と表現しているが、戦争に反対しつづけた女性たちは、とうに特高Click!や憲兵隊Click!から弾圧されてはいたか、あるいは参政権を持たない戦争に消極的な多くの女性たち、つまり「大国策に順応」しない婦人たちClick!もゴマンと存在していたわけだが、戦後、国防婦人会の幹部だった「大国策に順応する有力婦人」たちは、大日本帝国の破産・滅亡という「亡国」状況の招来と、混乱をきわめた社会をどのように眺め、認識し、総括していたものだろう?
さて、大日本国防婦人会は、具体的にどのような活動を地域で行なっていたのだろうか? おもな活動内容としては、次の5つのテーマに分類できるだろう。すなわち、①出征兵士への奉仕、②出征兵士の家族および遺族への奉仕、③「国防思想」の学校などへの普及、④軍事教育・演習への協力、⑤兵器工廠や陸軍病院への奉仕……の5つだ。
①の活動では、出征兵士の歓送激励や戦地への慰問品づくりなどが行われた。よく、記録フィルムやドラマなどで、出征兵士を近くの駅まで小旗をふりながら「♪勝って~くるぞと勇ましく~」と、白い割烹着にタスキ姿の女性たちが見送る、あの光景だ。だが、下落合の自治組織・同志会Click!による出征兵士の激励会と同様、町内から同時に徴兵される人たちの数が激増すると、すべての歓送会をていねいにこなす余裕がなくなり、国防婦人会の会長や幹部の代理出席というかたちで行われた行事も、少なからずあったのではなかろうか。
戦地への慰問は、慰問袋の中にお菓子や薬、石鹸、お守り、手ぬぐい、下着、内地の写真などを、「武運長久」の手紙を添えて送る活動だが、これも日米戦が激化するとともに戦地へ送ることさえ、そもそも不可能になっていく。また、負傷や病気で帰還した兵士への慰問は、入院している傷病兵のもとを直接訪ね、嗜好品などを手わたしたり見舞いの言葉をかける仕事だった。
②の奉仕は、戦死した家族のもとを訪問して、弔慰や「名誉の英霊への感謝と喜び」を表したり、男手がなくなった出征兵士の家庭を援助したりする活動だ。③は、町内の学校などで講演会や映画会を開催し、「国防思想」を広めるための活動だった。また、町内の家庭から戦費を効率よく調達するための貯蓄組合を組織し、国民貯蓄奨励運動なども展開している。④は、学生や生徒などが行う軍事演習(教育演習)などに協力し、演習に必要な物品を購入しては学校へ寄付する活動だ。⑤は、近くの兵器工場や陸軍病院へ出かけ、工員や職員の補助的な作業を手伝う奉仕活動だった。
下落合東部分会の写真帖『記録』には、氷川明神社の拝殿前で撮影された、「聖業完遂祈願式」の記念写真とともに、中国の戦地で負傷した帰還傷病兵への慰問活動が撮影されている。慰問活動は、1940年(昭和15)5月28日に行われた、傷病将士慰安会の余興である「和田邸いちご摘み」と、おそらく1941年(昭和16)に落合第四国民学校(現・落合第四小学校)で開かれた、傷病将士慰安会の模擬店の様子がとらえられている。
和田邸とは、おそらく元・同志会Click!の副会長をつとめていた和田義睦のことだと思われ、写真には下落合585番地に建っていた和田邸と思われる西洋館が写っている。1944年(昭和19)12月13日に、米軍によって撮影された空中写真を見ると、和田邸の南側には広い庭園があるので、そこでイチゴを栽培していたものだろう。庭にテントを張り、帰還した傷病兵たちを招いて、摘んできたイチゴをその場で食べる……というようなイベントだったのだろう。ひょっとすると、音楽の演奏や動員された小学生たちの合唱などもあったかもしれない。
落合第四小学校での行事は、国防婦人会が用意した甘味類を、校庭に設営された模擬店で傷病兵たちにふるまうというイベントで、当時の同校の校舎や校庭Click!がとらえられている。模擬店を見ると、紅白の幕が張られた下に机やイスが設置され、そこで出されていた甘味はみつ豆だったようだ。生徒たちの絵画が貼られた教室で撮られた、模擬店を企画・準備したとみられる国防婦人会の記念写真がめずらしい。どこかまだ余裕のある、ほのぼのとした雰囲気が漂っているが、このわずか3年後に落四小学校の校庭では、不安な顔つきをした学童疎開Click!の生徒たちが、空襲を予感するひきつった親たちの顔とともに並ぶことになる。
このアルバムが発行されてから、今年で74年めを迎えるわけだが、国防婦人会の役員をつとめた家庭には、いまだ写真帳『記念』が残されているだろうか? それとも、1945年(昭和20)の敗戦を境に、押しいれの奥深くにしまわれたままか、あるいは『記念』というタイトルとは裏腹に、1日でも早く忘れ去りたい記憶のため、早々に焚き火へくべられてしまっただろうか。
◆写真上:1941年(昭和16)11月1日に氷川明神社の拝殿前で撮影された、「聖業完遂祈願式」記念写真に写る大日本国防婦人会下落合東部分会の役員たち。
◆写真中上:同下落合東部分会の役員で、会長を除きあとは男の「婦人会」だ。
◆写真中下:上は、冒頭の写真と同時期に氷川明神社の拝殿前で撮影された「聖業完遂祈願式」記念写真。中は、1940年(昭和15) 5月28日に下落合585番地の和田邸で行われた傷病将士慰安会余興「いちご摘み」。下左は、1944年(昭和19)12月13日に米軍の偵察機が撮影した和田邸。下右は、落合第四国民学校で開かれた傷病将士慰安会模擬店。
◆写真下:同じく、落合第四国民学校で開かれた傷病将士慰安会模擬店の記念写真。