台所へ全自動新式ポンプの普及。
以前、大正期に普及した、井戸の揚水ポンプClick!について書いたことがある。清廉な地下水が豊富な落合地域では、荒玉水道Click!が近くに引かれていても、家庭での生活水は井戸水が主流だった。生活への地下水利用は、下落合では1960年代までつづいている。...
View Article牧歌的でやがては必死の近衛町の記憶。
近衛町に住む藤田孝様Click!は、物心がつくころから自邸のある閑静な周辺エリアを遊び場にしていた。その中には、隣家だった安井曾太郎邸(アトリエ)Click!の敷地へ遊びに行ったエピソードなど、忘れられない想い出がたくさんあるそうで、戦前・戦後の近衛町の風情をうかがいがてら、お話しいただいた。...
View Article下落合東部のの国防婦人会アルバム。
下落合にも戦時中、大日本国防婦人会Click!の下落合分会が存在している。国防婦人会の中央幹部たちの顔ぶれをみると、たとえば総本部の役員のうち女性が5名なのに対し、男性は6名(陸軍軍人×5名・海軍軍人×1名)と半数以上が男で、しかも全員が軍人だった。女性幹部は軍人の妻が多いのだが、「婦人会」という名はついていても実質は男の軍人たちが運営を牛耳る、陸海軍の外郭団体のようなものだ。...
View Article1945年(昭和20)8月29日の下落合上空。
1945年(昭和20)8月15日に、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした直後から、下落合上空には米軍機が低空飛行で姿を見せるようになった。米軍は、下落合670番地の国際聖母病院Click!に「敵性外国人」Click!として抑留された人々がいることを把握しており、食糧や医薬品などの救援物資を投下Click!しはじめている。...
View Article下落合を描いた画家たち・誰か。
江﨑晴城様Click!より、またまた作品画像をお送りいただいた。板に描かれた4号サイズの作品で、裏面には『落合風景』というタイトルがふられているが、作者は不明だ。この作品は、静岡の曾宮一念Click!邸から出てきたものだが、デッサンの技術といい描画タッチといい、曾宮一念の作品ではないように思われる。そもそも、基本的にデッサンを学んだ画家の作品とは思えないような、よくいえばプリミティーフな表現だ。...
View Article下落合の近衛文麿邸を拝見する。
1924年(大正13)9月、近衛文麿Click!は麹町の敷地に建て坪のべ250坪の新たな邸を建設している。1922年(大正11)より、東京土地住宅(株)Click!による「近衛町」開発Click!がスタートする以前、近衛旧邸が解体された直後から計画されていたものだろう。しかし、麹町のこの邸はわずか数年でイヤになり、近衛文麿は再び下落合へもどってくる。...
View Article美術講演会と『新洋画研究』の連続性。
昭和初期の洋画家に関する資料を読んでいると、代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所Click!がときどき顔をのぞかせる。同洋画研究所は、小島善太郎Click!によれば1930年協会の木下孝則Click!が発案して設立されたということだが、当初は円鳥会Click!の会員だった工藤信太郎を救済する目的でスタートしたらしい。...
View Article矢田津世子と船山馨・春子夫妻の接点。
上落合八幡耕地206番地に住んだ芹沢光治良Click!は、1939年(昭和14)に実業之日本社から出版された矢田津世子Click!『花蔭』に、わざわざ手紙を書いて好意的な批評を寄せている。芹沢光治良が批評を寄せたのは、上落合からではなく、階段に佐伯祐三Click!のセーヌ河畔の街並みを描いた50号のタブローが架かる、戦災で焼失した上落合に隣接する東中野の家からだった。...
View Article夏は潮風と火薬までが匂った。
父親の仕事の関係で相模湾の中央、いわゆる「湘南」Click!の平塚に住んでいた子どものころ、庭が広かったのを憶えている。ただ、子どもの記憶なので、大人になってから改めて眺めたら決して広くはなく、きっと箱庭のようにかなり狭く感じるのだろう。確か、住所は虹ヶ浜というところだった。...
View Article大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(中)
では、創建時期のわからないほど古い「幸神社」Click!について、江戸期に判明している由来を収録した、寛政年間(1789~1801年)に書かれている金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、海老沢了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。...
View Article大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(下)
江戸期までつづいた「神田久保」Click!の谷名は、東は現在の護国寺に出る手前、清土鬼子母神の境内あたりから、西は日本女子大学の学生寮Click!あたりにかけての名称だった。谷底には、金川(弦巻川)が流れていたのだが、1932年(昭和7)以来すでに暗渠化され、現在はその上に道路が造成されていて存在しない。 さて、神田久保について海老澤了之介の『新編若葉の梢』から引用しよう。 ▼...
View Article山口邸(李香蘭邸)から100mに浅利慶太邸。
いつも、拙記事をお読みいただきありがとうございます。気づかないうちに、のべ1,100万人の訪問者数を超えていました。ほどなく、東京都の人口を超えそうなのにビックリしています。 ★...
View Article鉄道を敷設しないなら免許取り消し。
大正の末から昭和初期にかけて、鉄道省は鉄道免許の濫発を行なっている。東京を中心に首都圏はもちろん、地方のあちこちで鉄道敷設の話が持ちあがり、そのたびに地元の建設業者や土木会社、その他の企業などへ工事免許を下ろしていた。...
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