Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

美術講演会と『新洋画研究』の連続性。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
1930年協会洋画研究所192808.jpg

 昭和初期の洋画家に関する資料を読んでいると、代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所Click!がときどき顔をのぞかせる。同洋画研究所は、小島善太郎Click!によれば1930年協会の木下孝則Click!が発案して設立されたということだが、当初は円鳥会Click!の会員だった工藤信太郎を救済する目的でスタートしたらしい。
 研究所がオープンした際、学生募集などの広告は出稿しなかったようだが、美術界にウワサが拡がり数ヶ月で定員いっぱいになってしまったらしい。特に小島善太郎Click!によれば、女子美術学校の学生たちに人気が高かったようだ。1928年(昭和3)に発行された『美之国』8月号には、オープンして間もない研究所内部の写真が掲載されている。モデルClick!を雇っての、人体デッサンの最中をとらえたものだが、手前にいる女性は女子美の学生だろうか。(冒頭写真)
 1930年協会洋画研究所は、実技の指導や研究がおもな目的だったが、開設から2ヶ月がすぎた5月には芸術論や洋画論を紹介する美術講演会も開催されるようになった。近くの山谷小学校の教室を借りて、第1回美術講演会は1928年(昭和3)5月19日(土)に開催されている。そのときに撮影された、1930年協会の会員や親しい仲間を集めた記念写真が残っているのは、外山卯三郎Click!『前田寛治研究』Click!に関連して以前にご紹介したとおりだ。
 1927年(昭和2)に開業した、小田原急行鉄道の小田原線(現・小田急線)へ新宿から乗り2つめの「山谷駅」で下車し、駅前の坂道を上って100m前後、徒歩1~2分ほどのところに同研究所のアトリエは建っていた。小田急線の山谷駅は、1946年(昭和21)に廃止されているので、現在は南新宿駅の次が参宮橋となっており、山谷160番地へ向かうには両駅のどちらかで下車して歩かなければならない。
 さて、1930年協会洋画研究所が設立されたころの事情について、2005年(平成17)に中央公論美術出版から刊行された東京文化財研究所『大正期美術展覧会の研究』所収の、大谷省吾「一九三〇年協会のメディア戦略と外山卯三郎」から引用してみよう。
  
 外山は京都帝大を卒業した昭和三年(一九二八)春から、協会との関係を深めていくが、この年から協会のメディア戦略も複合化を強めていく。具体的には、研究所(三月から)。講演会(五月から)、そして『一九三〇年美術年鑑』と『佐伯祐三画集』(年末編集、翌昭和四年一月発行)である。研究所で実技を教え、講演会で理論や、画学生憧れのパリの様子を語り、そしてその講演を年鑑において活字化する。また佐伯画集は、第四回展における遺作陳列と連動していた。この一貫したメディアミックス戦略は巧みというほかない。/研究所(略)は代々木の小さなアトリエにすぎなかった。講演会も、当初はここで小規模に開かれるささやかなものだったが、次第に規模を拡大して第四回(昭和三年十月)から京橋の国民新聞社講堂に会場を移し、また第五回(同年十二月)は翌月の第四回展覧会の宣伝を兼ねるなど、活動の有機的な連関と拡大が目立つ。/これらの個々の事業の立案は、必ずしも外山によるものではない。例えば研究所は木下孝則の、年鑑と佐伯画集は里見勝蔵の立案だという。だが外山は、講演会には(判明している限り)毎回演壇に立ち、出版活動でも実務を取り仕切った。(註釈番号除く)
  
Image may be NSFW.
Clik here to view.
小田急線新宿駅1927.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
小田急線代々木付近1932.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
代々木山谷1932.jpg

 さて、1930年協会が1930年(昭和5)に解散するまで開かれた美術講演会だが、その講演内容とはどのようなものだったのだろうか? たとえば、いくつかの講演から画家と講演タイトルを挙げてみると、里見勝蔵「構図の研究」「画家の精神生活」「佐伯の芸術と中山の芸術」「絵画の革命」、前田寛治「写実美について」「佐伯祐三の芸術」「写実技法の要訣」「色彩について」、外山卯三郎「西洋美術史講座」「芸術の価値論」「美術に於ける創作と鑑照」「近代絵画の変遷」、林武「つり合いの話」「フォーヴの考察」、野口彌太郎「或る感想」、小島善太郎「巴里画家生活」「19世紀仏国画家の思想」「佐伯祐三に就いて」「絵画と実生活」、中山巍「伊太利所見」「現代フランス画壇」……と、各講演会において特に画家たちの演目に統一したテーマ性は感じられない。
 そのときのタイムリーな画論や人気のあるテーマ、聴衆が集まりそうな芸術論や美術史、あるいはフランスで死去した佐伯祐三Click!をしのんでというように、画家たちが各自想いおもいの講演原稿を作成して登壇していたような印象だ。特に講演回数の多いのが外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!で、後期の1930年協会から初期の独立美術協会の基盤となる「美術論」は、このふたりによってリードされた気配が濃厚だ。前田寛治Click!の存在も大きかったはずだが、彼は1929年(昭和4)に入ると体調を崩して入院してしまう。
 1928年(昭和3)から1930年(昭和5)にかけ、毎年数回にわたりって開催された美術講演会だが、個々の講演記録は『一九三〇年美術年鑑』に収録されている。また、外山卯三郎の手によって『新洋画研究』(金星堂)と題された美術論集とでもいうべきシリーズ本が、1930年(昭和5)の第1巻を皮切りにまとめられることになる。同書の第1巻には、外山卯三郎「世界現代絵画概観」「超現実主義作家論」、前田寛治「野獣主義作家論」「新古典主義論」、中山巍「現代フランス作家論」「新野獣主義作家論」が収録され、個別の画家論として小島善太郎、伊原宇三郎、鈴木亜夫、川口軌外、林武、鈴木千久馬、林重義などが執筆している。
 同書の編集後記から、外山卯三郎の文章を引用してみよう。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
美之国192808.jpg
 Image may be NSFW.
Clik here to view.
1930年協会第6回美術講演会19290127.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
新洋画研究第1巻1930.jpg
 Image may be NSFW.
Clik here to view.
新洋画研究第2巻広告.jpg

  
 予告した目次とは幾分の相異を来たしてゐるが、然しその内容はより充実したと言へる。勿論それは私の理想とする編集から言つて、多くの不満な点があるが、それは巻を追つて補はれねばならない。/前田寛治君は昨春来の病気のために、新しく執筆することが出来ず旧稿を入れた。宮坂勝君は帰国中にて「フリエーツ論」に間に合はなかつた。この様な不備は巻を追つて加へて行きたい。(中略) 洋画も自己陶酔的なアマツールの時代を過ぎた。若き画家は真面目な精進に依つて、自己の道を開いて行かねばならないだらう。美術雑誌も亦雑多な俗事から離れて、洋画は洋画の純粋なヂアンルを研究して行かねばならないだらう。/「新洋画研究」は読者の便をはかり、近日中に「新洋画研究所」を開設する予定である。若し希望の方は編集者宛にお知らせいたゞきたい。/第二巻は七月の予定で、秋のセーゾンを前に勉強される時であるから、特に作画上の研究をのせる心算である。
  
 同書は、1930年(昭和5)4月15日に出版されており、その翌日未明に前田寛治Click!が青山の東京帝大付属病院で鼻腔内腫瘍により死去している。したがって、前田は『新洋画研究』第1巻を手にすることができたかどうかは微妙なタイミングだ。ゲラ刷りの段階で、かろうじて目を通すことができただろうか。
 外山卯三郎の『新洋画研究』シリーズは、解散を目前にした1930年協会の総括的な美術論を展開しようとする試みであり、同協会が過去に開催してきた美術講演会の、総仕上げ的なシリーズ本にする計画だったと思われる。第1巻の巻末には、「日本最初の洋画専門クォタリー」と銘打ち、早くも第2巻(現代画の構図研究)の広告が掲載されており、年4回発行が恒例化することを宣言している。なお、同シリーズは1932年(昭和7)発行の第10巻までが確認できる。
 第2巻の内容をご紹介すると、遺稿となった前田寛治「立体派研究」をはじめ、里見勝蔵「構画の研究」、外山卯三郎「現代絵画の構図概論」、宮坂勝「絵画に於ける[構成の意味と存在]」、中山巍「色彩による構図」、伊原宇三郎「群像の構図」、唐端勝「群像論(ウォルフ)」などが掲載予定となっている。外山卯三郎が予告した「新洋画研究所」は、第1巻が発刊されるのと同時に、自宅である井荻町下井草1100番地に設立されたのだろう。設立パーティーが開かれたかどうかは定かでないが、近くにアトリエをかまえていた里見勝蔵Click!は外山邸を訪れ、ヴァンで乾杯ぐらいはしているのかもしれない。
 1930年協会の美術講演会がもう少し早く、すなわちあと1年ほど前、1927年(昭和2)6月に開催された第2回展覧会Click!と相前後して開かれていれば、ひょっとすると佐伯祐三が登壇していたかもしれない。文章書きが不得意で、しかもしゃべるのも苦手な佐伯なのだが、里見勝蔵に無理やり渡仏時代の想い出をうながされ、登壇して講演していただろうか?
Image may be NSFW.
Clik here to view.
代々木山谷1936.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
1930年協会研究所跡.jpg

 里見は当然、自分が紹介し表現に決定的な変化をもたらす、ヴラマンクとの劇的な邂逅を含む巴里での生活を話すものとばかり思っていたら、「あのな~、わしな~、クラマールでな、化け猫Click!に会いましてん。(会場笑) ウソやないがな、オンちゃんもヤチもな~、ニャンニャン怖い~ゆうて、家族みんなで会(お)うたがな。三味線弾いてたんや、ホンマやで~。(笑声) ウソや~思うたら、そこで笑(わろ)うとる小島クンClick!が証人や、小島クンに聞いてみなはれ。(笑声) ……ホンマやねん」と、協会の『一九三〇年美術年鑑』に収録されるかどうかさえ怪しい、ましてや外山卯三郎の『新洋画研究』には絶対に載せてもらえそうもない講演をしていただろうか。w

◆写真上:代々幡町代々木山谷160番地にあった、1930年協会洋画研究所の内部。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に開業した小田急の新宿駅ホーム。は、代々木上原付近を走る小田急線の車両。は、1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる小田急線・山谷駅と代々木山谷160番地の周辺。
◆写真中下上左は、1930年協会洋画研究所の記事が掲載された1928年(昭和3)発行の『美之国』8月号。上右は、1929年(昭和4)1月27日に開催された1930年協会の第6回美術講演会チラシ。下左は、1930年(昭和5)に出版された外山卯三郎・編『新洋画研究』第1巻。下右は、『新洋画研究』第2巻の発売予定広告。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる代々木山谷160番地界隈。は、同所の現状で右手が旧・山谷小学校(現・代々木山谷小学校)。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles