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亀井よし子誘拐事件と下落合駅。

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 1954年(昭和29)2月26日に、落合地域を舞台にした奇怪な事件が発生している。松川事件の弁護団(岡林辰雄・大塚一男両弁護士が主体)に参加をしていた弁護団のひとり、松本善明夫妻の家に住みこみの家事手伝いをしていた亀井よし子(当時20歳)が、近くへ買い物へ出かける途中でクルマに無理やり拉致・誘拐され、下落合駅周辺のどこかにあった犯人グループのアジトに連れこまれた。この拉致・誘拐事件については、ずいぶん前にも簡単に記事Click!へ取り上げている。
 当事件の以前にも、松本家にドロボーが入り知人からの手紙2通だけが盗まれたり、松本夫妻をあからさまに尾行して、公衆電話ボックスから電話をかける際には、ダイヤルをまわす番号をボックスの外からこれみよがしにのぞきこんでメモしていたりと、明らかになんらかのグループによる捜索、あるいは圧力ともとれる事件がつづいていた。ドロボーは、名古屋市から松川事件の実行犯(真犯人)が書いたとみられる告白状(手紙)を発見し、それを湮滅しようとしていた疑いが濃厚だ。しかもドロボー事件は、手紙の内容が公表される以前に起きている。亀井よし子誘拐・監禁事件は、そんな状況の中で発生した。
 やや横道へ逸れるけれど、2011年(平成23)に米国立公文書館から公開された米国防総省文書の中に、ベトナムの鉄道に関する破壊活動の項目で、「鉄道破壊には日本駐在のCIA特別技術チームを必要とした」という明確な記述がある。朝鮮戦争が終わったあと、1950年代の記述なので日本の鉄道破壊謀略チームはCIA special technical team in Japanという表現になっているが、松川事件や三鷹事件などが発生した戦後すぐのころの組織は、全国警察署の上に君臨していたCICの謀略チームだった可能性が高い。
 2月26日午前10時ごろ、練馬区下石神井1丁目211番地に住んでいた弁護士・松本善明と画家・いわさきちひろ夫妻の家から、近くで買い物をしようと外出した亀井よし子は、千川上水Click!沿いの道を歩いていたところ、突然3人の男に囲まれ、無理やりクルマに連れこまれて拉致・誘拐された。そして、落合地域にあったとみられる平家建ての1室(4.5~6畳ほど)に監禁され、特に松本家の人の出入りや松本弁護士の交友関係について、執拗な尋問を受けている。
 亀井よし子の供述調書は、事件から9日後の3月7日に弁護士・植木敬夫によって記録されており、その内容は事件の異様さをいまに伝えている。2012年(平成24)に新日本出版社から刊行された松本善明『再び歴史の舞台に登場する謀略・松川事件』より、誘拐された直後の様子から引用してみよう。
  
 自動車は相当長く走ったすえとまった。私はその間ずっとしゃがんだ姿勢のまま車にのせられていた。こわくて、大きな声を出すこともできなかった。/つれこまれた家は、道路に面してすぐ扉の玄関があり、一畳位のひろさのコンクリートの床、それにつづいて正面に六畳か四畳半の部屋があった。私はそこにすわらせられた。/質問されたことは、『御主人は何をしているか、奥さんは何をしているか、お客はどのくらいあるか、奥さんと御主人とどちらの客が多いか』というようなことだった。(中略) 私は何をきかれてもだまっていた。そしていっしょうけんめい、どうしてにげようということばかり考えていた。/おひるごろ、三名の男たちは、交替で食事に出かけたが、私は食事を与えられなかった。/夕方になって、電燈をつけてしばらくすると、指揮者らしい男は、他の二名を帰らせなお私に質問をつづけた。そして二名が外に出ていってしばらくしてから、その男が用便か何かに立ったすきに、私はとっさに『今だ』と思い、玄関から靴をとって窓から飛出し、はだしで夢中でにげ出した。/それからどういう道をとおったかおぼえていないが、しばらく走ってから靴をはき、また走り、すれちがう人に『電車にのる道』をききながら走りつづけ、やっと西武鉄道の下落合駅に出、そこから、電車にのって上井草駅でおり、歩いて松本家にかえって来た。
  
 下石神井から下落合駅周辺まで、当時の未整備な道路事情を考えれば、クルマでゆうに30分以上はかかっただろうか。亀井よし子はシートには座らされず、車内で男たちから肩を強く押さえられたまま腰をかがめていたので、よけい長時間に感じたのかもしれない。クルマから降りてアジトへ連れこまれる際、両足がしびれてうまく動かなかったことも記録されている。
 また、犯人グループのアジトから逃げだしたあと、彼女は警察署や交番ではなく、すれちがった通行人に最寄り駅の場所を訊いているのが、この事件の特異性を際立たせている。すなわち、亀井よし子は拉致・誘拐犯グループを、警察となんらかの関係がある男たちだと認識していた可能性があり、まずは警察署や交番ではなく松本家へと逃げ帰る算段をしていることだ。まるで、戦前の特高警察Click!のようなやり口だが、警察にしては手口が乱暴で計画性に乏しく、いい加減かつ大雑把であり、どこか素人グループのような印象も受ける。
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 事件後、さっそく松本弁護士と植木弁護士、それに松本家の同居人・本田松昭とともに、亀井よし子を連れて下落合駅周辺にあるとみられるアジトを捜索しているが、夕暮れの道を必死で下落合駅まで逃れてきたため、ハッキリした家屋をつきとめることができなかった。捜査は何度か繰り返されたが、ついに犯人たちのアジトを発見することができなかった。そして、アジトは永久に発見することができなくなってしまった。なぜなら、亀井よし子は約1ヶ月後の21歳の誕生日に、大阪の病院で「急性心臓衰弱」により急死してしまうからだ。
 亀井よし子は事件後、持病だった胃病が悪化して故郷の大阪にある弘済院(戦災孤児院)へ帰り、一時的に休養することになった。同書から、再び引用してみよう。
  
 三月十八日、本田松昭につきそわして帰阪させた。大阪駅にむかえに出ていたのは、かつてよし子が弘済院にいたとき、よし子を長年月担当した弘済院保母の牧野信で、本田松昭は牧野信によし子を託し、おりかえし帰京した。よし子は、到着後すぐ、あらかじめ牧野信が手続をしていた大阪市大淀区(現・北区)長柄通二丁目大阪市立弘済院長柄病院に入院した。昭和二十九年三月十九日、午後九時一〇分のことである。よし子は、このあと二週間後の四月二日午後二時二〇分同病院で急死をとげた。死亡埋葬許可申請証に記載されている死因は、急性心臓衰弱、届出医師は、村田松枝となっている。/四月三日午前一〇時半、長柄病院で葬儀がおこなわれ、解剖されることなく直ちに北斎場で火葬された。
  
 20歳の若い女性が、「病状は順調に回復」している知らせを最後に、入院からわずか14日で死亡するのも不可解だが、死亡から24時間もたたぬうちに火葬にされたのも、明らかに異常な事態だといえるだろう。事件後、亀井よし子はわずか34日しか生きていなかったことになる。また、この死を看取った医師がつづけて死亡し、彼女の保母もなにかに怯えつづけながら行方不明となった。
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 さて、落合地域にあったとみられる犯人グループのアジトは、はたしてどのあたりにあったのだろうか? 亀井よし子の供述から、なにが見えてくるか探ってみよう。まず、彼女は駅の場所を通行人に訊ねているということは、彼女には鉄道が「見えなかった」ということだ。たとえば、アジトが下落合の丘上にあった場合、走っているうちにいずれかの斜面(坂道)に出る可能性が高い。しかも、1954年(昭和29)当時は高い建物などなかったから、いくら夕方とはいえ、すぐ眼下に鉄道が走っていることに気づいたのではないか。だから、通行人に訊くまでもなく、鉄道の方向へ逃げれば最寄りの駅に出られることがわかったはずだ。
 また、戦災から焼け残った、あるいはほとんど戦災を受けなかった家々が下落合の丘上や斜面には多く、男が数人で出入りする不審な家屋があれば、古くからいる近隣住民の目につきやすい。犯人グループが、あえて目立つような家屋を既存の住宅街へアジトとして設定するかどうか、いまひとつしっくりこないのだ。そして、亀井よし子には川を越えた、つまり橋をわたったという記憶がない。すなわち、彼女は神田川も妙正寺川も越えずに、下落合駅へとたどりついている気配が濃厚なのだ。
 そうなると、必ず橋を渡らなければ下落合駅にはたどり着けない、下落合側(現・中落合/中井含む)および上戸塚側(現・高田馬場3~4丁目)は除外されることになる。また、上戸塚側だったら、通行人は最寄りの駅として山手線・高田馬場駅の方角を教える可能性が高いだろう。したがって、犯人グループのアジトは、戦災でほとんど街が丸ごと焦土と化し、戦後に次々とバラックや新しい住宅が建てられつづけ、戦前と戦後では住民の入れ替わりも激しかった、上落合側にあった公算が高いことになる。
 もうひとつ、通行人が中井駅ではなく下落合駅を最寄りの駅として教えているということは、1954年(昭和29)現在の上落合地域でいえば、上落合1丁目(現・上落合1丁目と2丁目の一部)にアジトがあった可能性が高いということになる。しかも、上落合1丁目の南辺に近づけば、下落合駅よりも中央線・東中野駅が近くなり、また西辺に近づけば中井駅へ出るほうがよほど近くなるので、通行人は当該駅を教えただろう。したがって、犯行グループのアジトは上落合1丁目420・450・470番地の南北ラインから東側、同1丁目470・485・200番地の東西ラインから北側に位置していた可能性が高い。
 ただし、亀井よし子が監禁されたアジトからどれほどの距離を走って逃げたのか、あるいは川をほんとうに渡らなかったのかどうかなど、追跡者を気にしながら恐怖と混乱の精神状態の中で、どれほど正確な記憶をとどめていたかの課題ものこるのだが……。
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 午前中から夕方まで監禁され、スキをついて犯人グループのアジトを逃げ出したとき、亀井よし子はなにを見ていたのだろうか? もはや彼女の証言がとれない以上、いまとなっては不明なことばかりなのだが、電柱の広告看板や店舗の屋号のひとつでも供述して記録されているとすれば、犯人たちのアジトがどこにあったのかを検証し、絞りこめる有力な手がかりとなるだろう。

◆写真上:1960年前後に撮影された、下落合駅前の様子。左手に見えているカメラ屋は1980年代まで営業していて、学生だったわたしもよく覚えている。
◆写真中上は、現在の下落合駅前。は、1960年前後に撮影された下落合駅の切符売り場で、亀井よし子は上井草までの切符をここで購入している。は、現在の同所。
◆写真中下は、駅から眺めた下落合駅の踏み切り。は、同所の現状。下左は、1947年(昭和22)に撮影された下落合駅前の西ノ橋Click!。橋北詰め正面の建物はホテル山楽で、2000年ごろまで営業していた。下右は、落合橋から見た西ノ橋。
◆写真下は、事件から3年後の1957年(昭和32)に撮影された空中写真にみる下落合駅。は、同年に撮影された別角度からの空中写真。


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