1924年(大正13)9月、近衛文麿Click!は麹町の敷地に建て坪のべ250坪の新たな邸を建設している。1922年(大正11)より、東京土地住宅(株)Click!による「近衛町」開発Click!がスタートする以前、近衛旧邸が解体された直後から計画されていたものだろう。しかし、麹町のこの邸はわずか数年でイヤになり、近衛文麿は再び下落合へもどってくる。
麹町の近衛邸は、木造2階建てで赤または褐色の瓦屋根、外壁はフランス風の下見板張りにモルタル造りで、内装は漆喰壁と壁紙貼り、芝生を敷き詰めた広い前庭と回廊に囲まれたパティオのある、(合)清水組が手がけた大きな西洋館だった。室内を見ると、装飾華美ではないものの膨大な費用をかけた様子がうかがい知れる。おそらく、計画段階から清水組の設計部と近衛文麿との間で、綿密な打ち合わせが行なわれた末に、竣工を楽しみに待つ新たな本邸のつもりだったのだろう。
だが、住みはじめてからわずか数年で近衛文麿は後悔し、この邸からの引っ越しを考えはじめ、下落合の近衛町北側に残っていた近衛家敷地、すなわち目白中学校Click!が練馬へと移転した跡地(この近衛家敷地も東京土地住宅の販売計画Click!には含まれていたと思われる)の東側、当時はいまだ舟橋邸Click!の北側には借地として貸していた住宅がチラホラと、樹木の生えた空地が目立つ風情だったと思われる敷地に、再び清水組に相談して新たな邸を計画しはじめている。
ではなぜ、できたばかりの麹町邸をすぐに離れることになったのか、その事情を藤田孝様Click!が故・近衛道隆様Click!へ確認されている。それによれば、麹町という交通が至便な立地では誰でもすぐに立ち寄れるため、朝から晩まで訪問客が引きも切らず、その接客のために家族全員がくたびれはててしまったらしい。おそらく、下落合の新邸計画は昭和に入って間もなく進められていると思われるので、麹町邸に落ちついていたのは1924年(大正13)の暮れから1928年(昭和3)の、わずか3~4年の間だったと思われる。下落合436番地の新邸(のちに「荻外荘」Click!に対し「別邸」とも呼ばれるようになる)は、1929年(昭和4)11月に竣工している。(冒頭写真)
北陸産の泰山瓦が葺かれた屋根に、外壁はリシン塗り腰タイル貼り、内装は土壁と漆喰壁に壁紙仕様で、建て坪が麹町邸よりは100坪ほど少ない約140坪の2階建て西洋館だった。この邸については、下落合でも記憶されている方が多い。また、よく新聞Click!や雑誌Click!の記事でも取りあげられた邸でもある。広大な御留山Click!に建てられた、黒門や長大な塀の内側にある相馬邸Click!は、下落合氷川明神社Click!あるいは邸内の妙見社Click!の祭礼日以外はなかなかうかがい知れなかっただろうが、近衛邸は周囲に通う三間道路からも、あるいは1935年(昭和10)すぎまで空き地のままだった目白中学校の跡地からも、樹間に垣間見えていたと思われる。
邸内の写真を見ると、麹町の邸よりはいくぶん質素な感じを受ける。おそらく、書家であり政治家だった鄭孝胥(てい・こうしょ)の揮毫だろうか、詩篇「西涯一角真冷地 澤畔行吟暫閒適」の一部である、麹町邸と同じ扁額「西涯一角」が、応接室とみられる室内に架けられている。鄭孝胥はのちに、日本の植民地である「満州国」の首相となり、政治を牛耳る関東軍を批判して解任された人物だ。邸の玄関は南側にあり、この扁額が架けられた応接室は東に向いて玄関横に張りだしていた。また、応接室の北側には、同じく東に向いて半円柱状に大きく突きでた広い食堂が配置されている。
この近衛新邸は、1935年(昭和10)前後に増改築され、西に向けてウィングが伸びているのが確認できる。その形状を観察すると、庭から直接2階のバルコニーへ上がれる階段を取り去り、北側にあった女中室のひとつをつぶして、台所の西側に女中室を増やし、また玄関横にあった執務室を大きく拡げているように見える。バルコニーへの階段を撤去したことは、なんらかのセキュリティ上で問題が発生したためだろうか? 西へ伸びたウィングの先には、離れ屋とみられる別棟も建設されている。
下落合436番地の敷地は広く、北側にはもうひとつの近衛邸が建設されている。これが、おそらく弟で音楽家だった近衛秀麿邸Click!だろう。また、敷地内には使用人の家々が並び、東側に接した近衛町から目白通りへと抜ける三間道路側の正門近くには、門番小屋と門番の詰め所が設置されていた。また、おそらく自家用車の運転手の住宅だろう、門番詰め所から10mほど西に離れた(奥に進んだ)場所に、住宅がひとつ見えている。さらに、近衛邸の南側、すなわち舟橋邸へと入る路地の北側には、近衛家の家令住宅が7~8軒ズラリと東西の方向に並んでいた。
さて、ここまで読まれてきた方、あるいは近衛町の形成などここの記事に目を通してこられた方には、ひとつの疑問が残っているだろう。下落合417番地に建っていた近衛旧邸(近衛篤麿邸Click!)が解体され、麹町に新たな本邸が完成するまでの間、近衛家はどこに仮住まいをしていたのか?……というテーマだ。近衛旧邸は、少なくとも1920年(大正9)以前には解体されているとみられ、1924年(大正13)に麹町邸が竣工するまでの少なくとも4年余の間が、近衛邸の“空白期間”ということになる。
1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、のちに近衛新邸が建てられる敷地の北側に、「近衛家和家」という屋敷が採取されている。また、5年ほどさかのぼった1921年(大正10)の1/10,000地形図にも、“」”字型をした家屋が南北に2棟採取されている。このうち、北側の1棟がそれに相当する住宅だろうか。この記録を前提にすれば、近衛家が1924年(大正13)に麹町邸が完成して転居する前、仮住まいとして目白中学校の東側に住んでいた可能性が高い。1926年(大正25)の「下落合事情明細図」は、リアルタイム情報とは思えない記載も多々あるので、数年前の情報がそのまま更新されずに掲載されている可能性がある。または、近衛家の兄弟姉妹が暮らしていた可能性も否定できない。
ただし、目白中学校(東京同文書院Click!)の校庭に接した南側、すなわち舟橋邸の西側にも近衛家の敷地があった。1927年(昭和2)に作成された1/8,000「落合町地形図」では、練馬へ移転した目白中学校跡地の南、従来とは異なる位置に近衛邸が採取されている。これは、近衛文麿がとうに麹町邸へ転居したあとにもかかわらず、昭和に入って新たな位置に近衛邸が採取されていることになる。この邸もまた、麹町邸を出たあとの近衛文麿一家の仮住まいではなかったか。
つまり、新たに麹町邸が1924年(大正13)に竣工するまでの仮住まい(1920?~1924年)が、目白中学校東側の近衛邸であり、また1929年(昭和4)に下落合の近衛新邸が竣工するまでの仮住まい(1927?~1929)が、目白中学校南側の下落合456番地へ新たに建てられ、1/8,000地形図に採取された近衛邸ではないか……と想定することができる。これを前提とするなら、近衛文麿は日々の接客にくたびれ、家族一同がウンザリしてしまった麹町邸を早々に引きあげ、下落合436番地に新邸が竣工するまでの間、その南西に当たる下落合456番地で仮住まいしていたのではないかということになる。つまり、麹町邸にはわずか2年余しか住んでいなかったということだろうか?
おそらく、昭和初期の段階では麹町にあった大きな屋敷を、近衛文麿は周囲に「本邸」と位置づけしていたのだろうから、下落合の旧邸近くに建設中の邸は、計画当初から「別邸」として語られていたのかもしれない。だが、麹町邸にはその後もどっていないので、下落合の近衛新邸が実質の「本邸」となっていた。ただし、1937年(昭和12)に荻窪の「荻外荘」を別邸として入手し住むようになると、周囲からは下落合の新邸が「本邸」ではなく、再び「別邸」として周囲から見られるようになったのだろうか。
近衛文麿は、親しい人間以外の人物と接することをあまり好まなかったようで、ことに来客や積極的に自分へ近づく人物に対しては、なかなか警戒心を解かなかったように見える。それが、公家政権が崩壊して以来800年間に身につけた、生き残るための伝統的な「家訓」であり、「処世術」のひとつだったのかもしれないのだが、繁華な市街地の麹町に家を建ててはみたものの、次々と押し寄せる来訪者に神経をすり減らし、昭和10年代に市街地化が一気に進んだ下落合も、ストレスがたまって暮らしにくくなったと感じるや、さらに郊外へ郊外へと静かで寂しい風情を求めて転居していくその姿に、とても政治家などには向かない、文人的な気質を感じるのはわたしだけだろうか。
政治家にはまったく不向きな、文人気質の近衛文麿と鄭孝胥がことのほか御しやすいと見透かされ、軍部にかつがれて大日本帝国と「満州国」の首相に就任するというのは、なんとも皮肉な構図であり、めぐりあわせだ。彼らがあえて選択して立った足もとは、まさに漢詩どおりの「真冷地」だったと思われるのだが、ふたりともそれに気づくのが、あまりにも遅すぎたのだ。
◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸(別邸)。
◆写真中上:1924年(大正13)9月に清水組の設計で竣工した麹町の近衛邸(上)と食堂?(中)。右壁面に、「西涯一角」の扁額が見えている。下は、同邸の1階平面図。
◆写真中下:上は、下落合の近衛新邸に設置された応接室。麹町邸にあった「西涯一角」の扁額が、下落合では客間に架けられていた。冒頭写真の、手前の張り出した一画が客間に当たる。下は、近衛新邸の1階・2階平面図。
◆写真下:上は、近衛邸の正門跡から近衛新邸跡を望む。中は、1927年(昭和2)の地図に近衛邸の記載がある目白中学校跡の南側(画面右手)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛新邸(別邸)。→印は、上記2枚の撮影ポイント。