1921年(大正10)1月1日の元旦、福島県白河町に住むパトロンのひとり、伊藤隆三郎Click!あてに出された年賀状がある。差出人は、この当時は下落合の借家Click!から淀橋町の柏木へと転居していた、アトリエを建設中の曾宮一念Click!だ。いつも拙記事を読んでくださる、お隣りの地域にお住いのものたがひさんClick!から、拙ブログの祝10周年記念としてお送りいただいたものだ。以下、裏面の曾宮一念が記載した全文を引用してみよう。
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恭賀新年
(大正)十年元旦 東京淀橋柏木一二八
曾宮一念
近々左ニ移ります.
下落合六二三
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年賀状の消印は淀橋局で押されたもので、5銭ハガキに「10.1.1」のスタンプが明確に読み取れる。この年賀状は、洋画史において重要な“物証”的意味を持っている。
ひとつは、曾宮一念のアトリエClick!が竣工したのは1921年(大正10)であり、引っ越し月である3月は同年のものであるということ。いまだに、佐伯祐三Click!のアトリエ竣工を1920年(大正9)とする資料には、曾宮一念のアトリエ竣工も1920年(大正9)としている一部の記述や年譜が残っているので、その規定が明確に誤りであることがこの年賀状で証明できることだ。また、曾宮一念と佐伯祐三が知り合ったのは1921年(大正10)の3月以降であり、1920年(大正9)に知り合ったという記述もまた誤りだ。
曾宮一念は、目白通りの北側、下落合544番地の借家でドロボーに入られたあと、淀橋町の柏木128番地に短期間住んでいること。そして、この年賀状の日付けの4ヶ月ほど前、前年の1920年(大正9)9月9日に山手線内で偶然、中村彝Click!のアトリエへと向かう鶴田吾郎Click!とエロシェンコClick!を見かけ、そのまま彝アトリエまで同行したのは、柏木128番地の借家から外出した直後の出来事だったこともわかる。曾宮は、そのまま彝アトリエでエロシェンコをモデルとする、中村彝『エロシェンコ氏の像』と曾宮一念『盲目のエロシェンコ』の制作を見学Click!している。
このころの曾宮一念は、1918年(大正7)8月に秋好綾子と結婚したあと、同年11月に福島県石川町にある私立石川中学校へ美術講師として赴任。翌1919年(大正8)3月に綾子夫人が病気になったために退職し、夫人の実家である兵庫県西宮ですごしている。福島県白河町に住む伊藤隆三郎は、中村彝のパトロンのひとりでもあるため、曾宮が伊藤へ年賀状を出しているのは彝の仲介で、伊藤が同県の石川中学校講師の職を紹介したものだろう。福島県石川町の曾宮一念にあてた、1919年(大正8)3月3日付けの彝の手紙が残っている。1926年(大正15)に出版された、『芸術の無限観』(岩波書店)から引用してみよう。
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久しく便りがないのでどうして居るか知らんと時々心配になる。無論玄米と納豆の功徳で益、元気だらうとは思つて居るが、余り久しく便りがないから若しか綾子さんでも悪いのではないかと気になつて来る事がある。こちらは此頃恐しく春めいて来たが御地は如何。北国の春は殊に春生の感が鮮かだ相だから、或は今頃は大に野外写生に熱中して居るのではないかとも思ふ。
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この文面を読むと、綾子夫人の病気は福島に赴任する前後から、彝の耳にも入っていたようだ。このあと、1920年(大正9)9月に曾宮は中村彝の奨めで兵庫県西宮から帰京し、先の下落合544番地の借家に住んでドロボーに入られたあと、淀橋町柏木128番地に転居して自身のアトリエを建設する決心をする……という経緯だ。
淀橋町柏木128番地は、当時の住所表記で正確に表現するなら、「淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地」ということになる。同番地の借家は、中央線の大久保駅まで直線距離で300mほど、山手線の新宿駅までは600~700mほどの距離で、小島善太郎Click!が通っていた淀橋小学校Click!のすぐ北東側に当たる街角だ。曾宮一念は、この借家で長男・俊一Click!を妊娠中の綾子夫人とともに、下落合のアトリエが完成するのを楽しみにしていた。そのときの様子は、1921年(大正10)1月16日に彝から野田半三Click!に出された手紙にも記録されている。再び、同書から引用してみよう。
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中原君は去年の夏以来体が悪く、院の研究所へも通はず、この半年ばかり殆んど室に蟄居して身体のよくなるのを待つて居る始末で、曾宮君は今僕の近所へ画室を新築中で、近くに子供も生れるし、借金もあるし、かなりこれから苦しいだらうと思ふ。勉強だけは相変らず盛んにして居る。
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そして、1921年(大正10)3月21日に柏木の仮住まいで長男・俊一が生まれると、曾宮一念はおそらく3月末に下落合623番地の完成した自宅+アトリエへと引っ越している。
さて、同年3月に曾宮アトリエが完成し、一家で引っ越してきてからしばらくすると、佐伯祐三と松葉杖をついた米子夫人Click!がそろって訪ねてくる。自身の自宅+アトリエを建設中だった佐伯は、アトリエのカラーリングの参考にと、竣工したばかりの曾宮アトリエの内部を見学したいと訪問したのだ。
このとき、佐伯夫妻は下落合の仮住まいClick!から、下落合661番地に建設中の自宅+アトリエ建設工事の進捗を見にきていたかもしれず、その道すがら完成して人が住むようになった曾宮アトリエに立ち寄ったものだろう。そのときの様子を、1992年(平成4)に発行された「新宿歴史博物館紀要」創刊号に掲載の、曾宮自身への取材「曽宮一念氏インタビュー」(奥原哲志・編)から引用してみよう。
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私の家がやっとのことでできた時、家ができて一週間もたった頃でしょうか、それは大正10年(1921)の夏か秋だったろうと思います。ひょっこり佐伯祐三がうちに来たんです、足の悪い松葉杖の奥さんを連れてね。それまで僕は会ったことがなかったけど、来まして。何しに来たかと思ったら、自分も今この先にアトリエを建てていると。だから私の家が建った時とほとんど同時ですね。「君んとこの窓の鎧戸だの、柱の塗り方の色がいいからこれを見に来たんだ」と。ちょうど私の家は、佐伯のうちから駅のほうへ歩いて行く途中にあったんです。で、それが目についたんでしょう。この時初めてうちに上がりまして、中を見たりなんかして、それで自分の家のペンキを塗ったそうです。それが佐伯とのつきあいの初めです。
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このインタビューが行なわれたとき曾宮一念は99歳であり、多少記憶の齟齬やズレがあったかもしれない。文中で佐伯夫妻が訪ねてきたのを、1921年(大正10)の「夏か秋だったろう」としているが、自身が若いころの別証言では、曾宮アトリエが竣工してまもなくのころ(4月ごろ)としている文章もある。
しかし、曾宮アトリエの竣工が3月末であれば「一週間もたった頃」は4月であり、以前の証言のほうが正確な記憶にもとづくものだった可能性が高い。いずれにしても、佐伯夫妻は曾宮アトリエが完成した1921年(大正10)の4月以降、自宅+アトリエのカラーリングの参考にと、建設工事の途中で曾宮邸を訪ねているのは明らかだ。曾宮の「夏か秋だったろう」は、佐伯アトリエの竣工時期の記憶と重なったのではないか。
この年賀ハガキの存在や曾宮家の記録、中村彝の手紙に残る文面などとともに、曾宮アトリエが竣工したのは1921年(大正10)の3月であり、それより遅れて竣工する佐伯アトリエも同年じゅうであることはまちがいないだろう。これにより、1980年代まで一般化していた米子夫人の年齢サバ読みClick!による佐伯祐三の年譜や、古い資料のアトリエの建設年にまつわる誤記載(1919年/1920年説)は、明確な誤りであることがハッキリしたのではないかと思う。
わたしは、佐伯アトリエの竣工は少なくとも1921年(大正10)の後半期(8月以降)ではないかと考えている。なぜなら、建設工事を請け負った大工の棟梁が佐伯家へ記念のカンナをプレゼントするのだけれど、それは夏の中元としてではなく、年末の歳暮として持参しているからにほかならない。
◆写真上:曾宮一念から、福島の伊藤隆三郎に出した1921年(大正10)の年賀状。
◆写真中上:同年賀状の裏面で、淀橋町柏木128番地の借家にいたことがわかる。
◆写真中下:佐伯アトリエの配色で、解体前の内部意匠。鶴田吾郎が描いた『初秋』Click!(1921年)にみえる、曾宮一念アトリエの内部とほぼ同じような配色で、佐伯アトリエの室内は当初からこのカラーリングだった可能性が高い。
◆写真下:上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる淀橋町柏木128番地界隈。下は、1921年(大正10)の同地形図にみる採取された曾宮一念アトリエと、いまだ採取されていない建築途上だったとみられる佐伯祐三アトリエ。同地形図は毎年夏ごろに修正・改訂発行されることが多いため、少なくとも1921年(大正10)の上半期の状況を示していると思われる。