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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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一網打尽になった「なりすまし彰義隊」。

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早稲田通り月見岡八幡付近.JPG
 以前、落合地域や隣りの上高田地域で起きた、「彰義隊」の「残党」事件をご紹介Click!している。上野戦争を落ちのびた、「彰義隊」の「隊員」たちが大江戸の郊外まで逃げてきて、飲食代を踏み倒したり農民たちを脅したりした事件だ。以前の記事は上高田村側の資料に残った記録だが、この事件では上高田村と下落合村の農民たちが協力して、「残党」たちを“制圧”している。およそ、「彰義隊」らしからぬふるまいなのだが、落合地域では別の事件で犯人たちを追及し、町奉行所を巻きこみ身元の探索まで行って、ついに犯人たちの居どころや正体を突き止めている。
 上野戦争は、1868年(慶応4)5月15日にはじまった。この日、落合地域(上落合村/下落合村/葛ヶ谷村)では農作業を休み、どの家も雨戸をかたく閉じて村全体がひっそりとしていたらしい。朝から、アームストロング砲の砲声が響き、障子がピリピリと振動するほどだったと伝えられている。いまでも、大川(隅田川)で打ち上げられる花火の音Click!が、わたしの家の3階からもよく聞こえるが、大川よりも1.5kmほど落合地域に近い上野山Click!なら、砲声はさらに大きく聞こえてきただろう。上野山の戦闘はほぼ1日で終わり、彰義隊Click!は敗走した。
 さて、その日の夕暮れ、上落合村の街道(現・早稲田通り)に面した、笊屋(ざるや)の雨戸をたたく男の声が聞こえた。家人が用を訊ねると、そこで連れが用を足しているが尻を拭く紙がないので、少し分けてくれないかという頼みだった。笊屋は、雨戸を開けるのは物騒なので、“人見窓”から紙をひとつまみ差しだした。人見窓というのは、江戸期の商家が備えていた表戸に面した小さな覗き窓のことで、誰がきたのかを目で確認したあと、くぐり戸などの錠を開けて知人を招き入れる盗賊除けの防犯装置だ。
 雨戸をたたいた男は、人見窓から差し出された紙をすぐには受け取らず、もう少し前へ出してくれと頼んだ。そこで笊屋の家人は、腕を少し外へ出すといきなり腕をつかまれて引っぱられた。以下、1983年(昭和58)に発行された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 (前略)いきなりその腕をムンズとつかみ「俺たちは彰義隊だ。雨戸を開けろ。開けなければこの腕を切り落すゾ……」と大きな声で怒鳴った。これを聞いた家人は、ビックリして雨戸を開けると、二人の侍がヅカヅカと入って来て、そのうちの一人がいきなり主の肩先を斬りつけた。主は肩に手をあててドーッと倒れた。家人はこれを見て「主人が斬られたのだから、もう何んにもいらないョ!」と言って銭を放り出したそうである。二人の侍はその銭を拾って立ち去った。しばらくして主人は息を吹き返した。刀のみね打ちであったと云う。
  
上落合村(幕末).jpg
上落合村(幕末)拡大.jpg
 この「彰義隊」を名のる2人組の「武家」強盗は、数日後に新井薬師の門前茶屋に現れ、主人を脅して無銭飲食をしようとしたふたりと、同一人物だった可能性がある。新井薬師の2人組が、江古田村方面へ逃走しようとしたのも、のちの町奉行所による「彰義隊」強盗団の下手人捕縛を考えると、そのような感触がより強くするのだ。もっとも、新井薬師で茶屋を脅して食い逃げしようとした2人組は、怒った村民たちに四村橋Click!あたりで打殺(ぶちころ)された。
 ここで余談だけれど、以前、子どもたちが学校の教科書で「江戸時代の打壊し」を「うちこわし」と習っていたようなので、「どこの言葉だい、なにいってんの?」と口をはさんだことがある。江戸東京地方の方言で、山手言葉なら「ぶちこわし」で(城)下町方言なら「ぶっこわし」と読まなければ、ここは地元なのだから笑われるぞと注意した。「何もかもうちこわし」じゃおかしいだろ?……というと、子どもは納得したようだ。打殺しも、「ぶちころし」ないしは「ぶっころし」であって、「うちころし」ではない。「地域教育」とはよくいわれる言葉だが、ちゃんとその地方・地域の言葉を尊重した教育をするのが第一歩ではないだろうか。
 もうひとつ、ついでに上記の文中で「刀のみね打ち」という言葉が出ているが、これは大正以降の時代劇用語だ。刀剣に、「みね」などという部位は存在しない。おそらく、「棟(むね)」を脚本家の誰かが「みね」と誤記したのが最初ではないかと思うのだが、強いていうなら「棟(むね)打ち」であって「みね打ち」ではない。もっとも、鍛錬に使われる硬軟多種多様な目白=鋼Click!の皮鉄や芯鉄、刃鉄、棟鉄などの性質や製法を熟知し、刀を大切にする武家であれば、平地(ひらぢ)側の柔軟な刃先(刃鉄)へ大きなダメージを与えかねない「棟打ち」など、まず行わないはずだ。
 さて、笊屋の事件が上落合村に知れわたると、当時の村内五人組の組合が共同で防衛隊を組織することになった。それから間もなく、落合富士Click!のある浅間社Click!近くの街道(現・早稲田通り)沿いに建っていた高山家に、やはり「彰義隊」を名のる5~6人組の「武家」が覆面姿で押し入った。だが、高山家では防衛の準備を進めていたので、家人や使用人たちが六尺(約182cm)の鳶口(とびぐち)Click!を手にして応戦し、同時に家人が提灯を振って近接していた宇田川家に応援を求めた。
上落合村1880.jpg
上落合村1880拡大.jpg
 以下、上落合郷土史研究会の『昔ばなし』からつづけて引用しよう。
  
 宇田川家ではソレッ!とばかり、家の子郎党がやはり六尺の鳶口を持って加勢に行った。上落合村連合軍は優勢となり、夜盗軍は裏の畑の方へととん走した。しかも一名の犠牲者を置きざりにして。その翌日の夕方検死があった。時代劇で見るように、短い羽織に十手を持った同心と下っ引きが来たそうである。私は母に、この同心が八丁堀から来たかどうかを聞くことを忘れてしまったので、今だに何所から来たのか不明である。/後日、この一団は、侍でも彰義隊員でもなく江古田の方のドラ息子達で、彼等は遊ぶ金欲しさに、彰義隊と名乗れば、百姓どもはビックリして金を出すと思ってやったものとわかった。又、死んだ男は質屋の息子であったという。
  
 江古田村の商家の「ドラ息子」たちが、武家のコスチュームで徒党を組み「彰義隊」の「残党」を装って、少し離れた村々で押しこみを働いていたようだ。おそらく、一網打尽になった彼らは、奉行所で余罪をきびしく追及されただろう。
 筆者は、やってきた同心が八丁堀Click!かどうかを気にしているが、東海道の品川宿や甲州街道の内藤新宿Click!が江戸府内へ組み入れられ、朱引き・墨引きが大きく拡大していた大江戸Click!時代には、奉行所同心の役宅が江戸前期の八丁堀だけとは限らない。おそらく、内藤新宿(現・四谷地域)の町場に近い御家人用の役宅から、上落合村まで出張ってきた役人だろう。
 下手人の「彰義隊」をかたる「残党」たちが、江古田村の商家の若者たちだったというと、中野区(いまは練馬区も入るのかな?)の江古田地域の方々は「ゲッ!」と思われるかもしれないが、なにもせずに暮らしてゆける不良がかった「ドラ息子」が出現するのは、しつけがより厳しいカネ持ちや裕福な商家がある地域特有の現象で、それは江古田村も下町も変わらない。それだけ、近隣の村々に比べ江古田村は特別な農作物の収入か、なんらかの事情で景気がよかったのだろう。
早稲田通り浅間塚付近.JPG
浅間社(落合富士).jpg
 だが、急展開する時代の変化を肌でひしひしと感じていた、“大人”たちの強い緊張感や危機感をまったく読めなかったところに、一連の「彰義隊」をかたる彼らの悲劇が生まれた。彼らは面白半分にやっていたのかもしれないが、「ドラ息子」たちの“悪ふざけ”がすぎて、ついには生命まで落とすことになったのだ。

◆写真上:月見岡八幡社へ向かう入口を、街道(現・早稲田通り)の南側から。
◆写真中上:幕末に作成された「上落合村絵図」()と、事件現場の周辺拡大()。
◆写真中下:事件から12年後の、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図()と、高山家や宇田川家があった事件現場周辺の拡大()。浅間社と落合富士は、昭和10年代に行われた改正道路(山手通り)工事で消滅した。
◆写真下は、浅間社跡に近い街道(現・早稲田通り)の現状。は、大正末から昭和初期ごろに撮影されたとみられる浅間社と落合富士(落合浅間塚古墳)。


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