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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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ブログの丸11年がすぎて想うこと。

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 この24日で、このブログをスタートしてから丸11年がすぎ12年めに入った。根は飽きっぽい性格なのに、われながらよくつづくものだ。最初は、単なる落合地域とその周辺に拡がる地域の人物や、付随する物語・逸話などをご紹介していただけだが、不明なテーマやわかりにくいエピソード、既定の概念では説明のつかない事象について多種多様な資料をそろえ、さまざまな事実や記録を積み上げたうえで、多角的に検証・推理していくのが面白く感じだしたからだろうか。
 ある人物に焦点を絞って調べていると、その人物に「入りこむ」というような感覚を味わえることも面白い。このような性格の人物だったら、どのような感覚で周囲のものごとを認識し、どのように考え、またどのように表現あるいは行動していくのかを想定するのは楽しいことだ。その人物の思考や性格、表現、言動を追いかけていると、ある一定の指向やパターンが浮かび上がることがある。
 それは、記録された資料や証言によって裏づけがどうしても取れないことでも、非常にリアルな仮定や想像を働かせることができ、また同時に、その人物が暮らしたり歩いたりした“現場”、すなわち周囲の環境や風景を、当時の社会的な状況も重ねてトレースし、できるだけリアルにたどることにより、期せずして見えてくることもある。
 その想像する過程で、もうひとつ面白いのが各時代の環境や風景を、あたかもレイヤ構造のように、視覚的に把握して重ねあわせる作業だ。たとえば、ある人物が1924年(大正13)にこの道を歩いたとき、あるいはこの坂の上に立ったとき、道路は拡幅され整備されていたのか、下水の側溝は敷設されていたのか、森は伐採されずにそのまま残っていたのか、あの特徴的な屋敷は2年後に建設されるはずだから目にしてはいない、川は北へ大きく蛇行していたはずで、橋の位置も現在とは10mほど異なっていたはずだ、ニセアカシアの街路樹はまだ植えられていない、ここの墓地を近くの寺へ改葬している最中だった、数軒先でハイカーのタバコの不始末で火災が起きている、電燈・電力線の電柱の手前に電話ケーブルを架設した白木の電信柱が設置されたはずだ……etc.、当時の空中写真や地図なども参照しながら、多種多様な事象を組み合わせていくと、その当時の街の姿や風情が最初はボンヤリと、やがて少しずつ確実に浮かび上がってくる。
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 各年ごとに輪切りにしたような、そんな時代層の上に、とある人物を立たせて想像することは、まるで自身がタイムマシンに乗って、その時代の街中へ降り立ったような興味とスリルを味あわせてくれる。各時代ごとに(といっても近代が圧倒的なリアルさで浮かぶのだが)、この街の風景や様子がところどころ灰色に霞んで途切れながらも、かなり具体的に見えてきているので、どの時代のどの年代に、どこで暮らしていた人物にスポットを当てるかで、自身がタイムスリップして降り立つレイヤを選ぶことができるのだ。
 そのテーマによっては、楽しいこともあればイヤなこと、気味(きび)の悪いこと、気持ちの悪いこと、腹立たしいこと、不思議なことなどもあるのだが、それがおしなべて表現することへの“楽しさ”へとつながっているのだろう。そうとでも解釈しなければ、11年もつづいている理由が説明できない。
 わたしは昔から、なにか課題を与えられて学習すること、つまり学校の決まりきった勉強が苦手だったが、自分でなにかテーマを見つけては主体的に調べ、それをなんらかのかたちに仕上げ、表現していく作業は大好きだった。だから、学校の成績は夏休みの自由研究で稼いでいたようなものだし、大学の講義も教養課程の前半は退屈きわまりなかったが、卒論(ゼミ論)へ向けた調べものや執筆はとても楽しかった。こういう人間は、自分の興味を惹くもの以外にはやる気が起きず、たいがいいい加減で成績は芳しくないものだ。
 図書館や資料室に閉じこもり、机上でなにか参照しては“受け売り”で書くことが、非常に危険でマズイこと、大きな錯誤を生むもとだと教えてくれたのは、大学のわたしの担当教授だった。必ずその“現場”に立つこと、そして周辺を丹念に取材・調査すること、つまりフィールドワークの重要性を教えられたわけだが、その方法論はわたしの性格へ抵抗なく、すんなりとフィットしていったようだ。
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 教授の口ぐせは、おそらく寺山修司Click!の『書を捨てよ町へ出よう』をもじったものなのだろう、「書を捨てよ現場を歩け」だった。フィールドワークで眺めた風景や調査・検証した内容を、既存の論文や資料へフィードバックして重ねあわせたとき、その間で大きな齟齬や乖離を生じるようであれば、そこにこそ大きなテーマや新たな課題が横たわっている……という意味なのだろう。
 この11年の間に、わたしの頭の中には落合地域をめぐる各時代の“ストリートビュー”が、まだかなり不完全なかたちながら、できあがりつつあるようだ。その視覚的な街並みは、各時代の空中写真や地図、さらには風景画や写真を眺めつづけてきた、ひとつの“妄想”であり“成果”なのかもしれない。とある歴史上の人物をドラッグ&ドロップして、ある年代のレイヤに拡がる落合地域の街角へポツンと降り立たせると、その周囲の風景がまるで大正時代の電燈のように、徐々にハッキリと明るく見えてくる。
 そのとき、近隣にはどのような家々が展開し、またどのような事件が記録され、どのような人々が暮らしていたのかが、ようやく透けて見えるようになってきた。各年代ごとに重なるレイヤは、少しずつキメが細かくなり、さらに水平方向へワイドに拡げていきたいのは山々なのだが、わたしのよくない頭ではキャパシティに限界がある。どこかに、多種多様な資料やデータを集積していくと、「それはまちがいなくあの人だよ」とか「それだったらあそこの家が怪しい」とかw、「類似の現象がここにもあるよ」とか「これは論理的に不可能でダメじゃん(爆!)」とか、ディープラーニングの優れたアナリティクス・エンジンはないものだろうか?
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 AI(各種機械学習)の仕組みが、ようやく大規模なHPCクラスタシステムを前提とする高価なクラウド・レベルではなく、効率的なアルゴリズムやメモリ処理さえうまく設計・活用すれば、手もとの汎用サーバや安価なストレージ上でもできるような時代になりつつある。もし煩雑なチューニングを必要としない、そんなアプライアンスベースのデータアナリティクスがPCサーバ上で手軽に実現できるようになれば、記事を書くスピードや調べもののリードタイムも格段に短縮されるだろう。いや、そんなアナリティクス・エンジンがひとつあれば、もうこんな拙ないサイトはまったく不要になって、ただ問い合わせ用の入力フォームだけを画面に表示しておけば、それで事足りるのかもしれないのだが……。

◆写真上:落合地域西部の現在()と、開戦直前の1941年(昭和16)に斜めフカンから陸軍が撮影した同所()。現在の空中写真は、いずれもGoogle Earthより。
◆写真中上:下落合東部の現在()と、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第1次山手空襲後の同所()。東を向いて撮影しており、下落合の近衛町など東端が下に写り、中央を横切っているのは山手線で奥を横切るのは明治通り。また、右手には旧・神田上水の流れ、左手には目白通りが見え、中央の濃い緑は学習院のキャンパス。
◆写真中下:学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の現在()と、1933年(昭和8)に学習院が低空飛行で撮影した竣工5年後の同寮()。
◆写真下:下戸塚地域(早稲田鶴巻町/早稲田南町/喜久井町など)の現在()と、1945年(昭和20)夏のB29が低空飛行する同地域()。左上に見えているのが早稲田大学で、中央を早稲田通りが横切り、右手には外苑東通りが南北に走る。中央に焼け残っている逆「コの字」型の校舎は、震災後に建て直された耐火建築の早稲田小学校。


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