今年も、「落合道人」サイトをお読みいただきありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。今年最後の記事は、戦時中のちょっと長い物語がテーマです。
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1945年(昭和20)の4月13日夜半、乃手はB29によって大規模な第1次山手空襲Click!を受けた。この空襲で、陸軍軍医学校Click!や防疫給水部の防疫研究室Click!、陸軍第一衛戍病院Click!などの建築群にはさまれるように建っていた、木造の兵務局分室Click!も焼けている。のちの陸軍中野学校の母体であり、防諜・謀略機関の工作本拠地として設置された同分室(工作員からは工作室=“ヤマ”という符牒で呼ばれた)は、このあと戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所Click!をはさんで下落合の南側に位置する、4月13日の空襲から焼け残っていた百人町のアパートへと移転している。
空襲で焼ける前の兵務局分室は、陸軍第一衛戍病院Click!の入院患者からも頻繁に目撃されていた。同病院の西側に隣接していた、秘密工作機関の本部建物よりも出入りが厳重だったようだ。その様子を、1971年(昭和46)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』から引用してみよう。
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工作室の古ぼけた二階家は、真夏といえども、まわりの窓硝子には竹すだれをおろし、外界からの目をさえぎっていたので、付近の住民は『幽霊屋敷』と呼んでいたが、当時、南支で戦傷して、陸軍病院に入院していた鹿島誠氏(略)は、/「あの建物は、病院の窓からもよくみえました。朝夕には背広服の男たちも出入りしたし、どこかの会社の研究室という話で、そのため毎晩電燈もつけっ放し。だれかが屋内を動きまわっている気配が感じられたが、われわれも別に疑わなかった。(後略)」
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さて、工作室(ヤマ)で行なわれていた重要任務のひとつに、自由主義者や和平主義者、終戦工作をしそうな親米英派の人物に対する諜報活動がある。太平洋戦争がはじまると同時に、憲兵隊は彼らの行動を監視しはじめているが、兵務局分室でも彼らをマークして監視する工作がはじまった。具体的には、中野学校出身の特務工作員を対象者の家に書生として住まわせたり、隣家へ住まわせて様子を探らせたり、あるいは特別な訓練を受けた女性を女中として送りこむ、いわゆるスパイ工作だった。
ここで面白いのが、憲兵隊と陸軍中野学校の“ヤマ”(工作室)との間で、まったく情報共有がなされていないことだ。これは、憲兵隊特高課と警視庁特高課Click!との間で情報交換がなされず、ときにはマークした相手に憲兵隊へ書類を提出する法的義務はないなどと、「親切」に憲兵隊の資料収集を妨害する“憲兵隊除け”Click!を教示していった特高刑事の例(長崎のプロレタリア美術研究所Click!など)でも見られるが、陸軍内部の組織間においても同様の傾向が顕著だった。
戦時中、中野学校が母体の“ヤマ”が目をつけていた人物は30名以上にのぼっており、近衛文麿Click!や鳩山一郎Click!、原田熊雄、幣原喜重郎、池田成彬Click!、久原房之助、鈴木貫太郎、米内光政Click!、吉田茂Click!、澤田廉三Click!、岩淵辰雄、賀川豊彦らの名前が挙げられていた。彼らは工作員の間では名前ではなく暗号で呼ばれ、たとえばハリス(鳩山一郎)、ヨハンセン(吉田茂)、シーザー(幣原喜重郎)、イワン(岩淵辰雄)などといった具合だ。この中で、“ヤマ”が特に力を入れていたのが、もっとも和平工作に積極的だとみられる吉田茂と近衛文麿のふたりだった。
“ヤマ”では、対敵諜報を7種類に分類していたが、マークしている人物に対しては「辛工作」あるいは「己工作」を実行しようとしている。「辛工作」は工作員潜入であり、「己工作」は偵察訓練を受けた女中や書生の自宅潜入だった。ヨハンセン(吉田茂)工作では「己工作」が採用され、大磯の別邸へは東京麹町の本邸へすでに入りこんでいた女中スパイと、陸軍中野学校出の東輝次が書生として派遣されることになった。東京の吉田邸を電話盗聴していた“ヤマ”では、本邸にはすでに憲兵隊の女中スパイがひとり送りこまれているのを探知していた。したがって、中野学校が母体の工作機関本部では、大磯の別邸工作へと力を入れたものだろう。
このスパイの女中と東輝次が、平塚からバスに乗って大磯へと向かう様子は、地元の大磯住民によって早くも目撃されている。同書から、再び引用してみよう。
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(前略)あれは、十九年の十一月二十九日でした。(中略) 平塚からバスへ乗った若い男女が私と同じ、“西小磯の切通し”といって切符を買った。(中略) だから『切通し』と聞いたとたんに“おやッ”と思って顔を見たが見覚えがない。娘はもんぺ姿で大きなふろしき包みをかかえ、二十四、五歳の男は、当時流行の満州国の協和帽をかぶっていた。服は国民服で、胸に傷痍軍人記章をさげている。切通しのバスの停留所は、吉田さんの邸へのあがり口(中略)にあります。この切通しで、私の前に下車した二人は坂をのぼっていく。(中略) 翌日から吉田さんのところに新しい書生さんの姿が見えるようになった。そのときのもんぺの娘が本邸女中のおマキさんで、男が書生の東さんでした。
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東輝次は、この仕事を遂行するにあたって戸籍の偽造や身分・経歴の詐称、傷痍軍人らしい身のこなし方にいたるまで、徹底的な訓練を受けている。
吉田茂の別邸は、大磯町西小磯に拓かれた切通しの海岸側にあり、北側とは国道1号線をはさんで三井別荘Click!(現・城山公園)と向きあっている。吉田の養父が、約1万坪の土地を取得して別荘にしていたもので、当初の建物は関東大震災Click!で倒壊し、間に合わせに建設した小さなバラック建築が吉田の別荘だった。のちの広大な「海千山千楼」に比べて10畳が2間に4.5畳と台所、それに離れの8畳間がついたささやかな建物だった。スパイの女中は4.5畳で、東軍曹は離れの8畳間で起居することになった。やがて、東京の本邸が焼けると、吉田は愛人の小りんを連れて大磯へ引っ越してきた。
当時の別荘には水道が引かれておらず、東は書生として別荘の水汲みという重労働を毎朝こなすことになった。吉田邸を訪れた方はおわかりだろうが、邸は小高い丘の頂上にあり、ふもとの井戸水を丘上へ汲みあげるには何度も往復しなければならない。また、隣り町の二宮へ毎朝牛乳をもらいにいったり、広大な敷地の掃除など東の仕事はきつかった。ヨハンセン(吉田茂)は、家の重労働を黙々とこなす東輝次が気に入り、しだいにいろいろな会話をするようになった。吉田は歯に衣を着せないので、「このままでは、日本は敗戦必至、国が亡びる」といった意味のことまで平然と話すようになる。スパイとして入りこんだ東は、それに反発を感じないばかりか陸軍中野学校の天皇批判も許容されるような、「忠君愛国」とは正反対の「自由主義」教育に触れたせいか、冷静に状況を分析すると、徐々に吉田のいっていることが正しく思えるようになっていった。
東京は空襲が激しくなり、工作機関の本部や“ヤマ”(工作室)も空襲の被害を受けた。いちいち特務員が東京へ出て、詳しい報告をまとめるのが困難になりつつある中で、いっそ大磯へ“ヤマ”(工作室)の出張所を設置してしまおうとするプランが具体化した。場所は、統監道の手前(東側)の国道1号線に面した北側で、現在の大磯中学校の斜向かいあたりにある2階家を借り上げることになった。このころには、吉田茂自身はもちろん東輝次やマキにまで憲兵隊の尾行がつくようになっていたので、工作機関本部では憲兵隊にふたりの素性が露見しないよう細心の注意が払われている。
1945年(昭和20)4月15日の早朝、吉田邸は憲兵隊に包囲され吉田茂は逮捕された。直接はスパイ容疑だったが、憲兵隊では近衛上奏文Click!の作成に関与したとみて、その写しかメモを家宅捜査で探しまわった。憲兵隊の来訪とともに、東輝次は上奏文の写しが女中の手で台所のかまどですばやく燃やされるのを見ていたが、すでに大磯の新しい“ヤマ”で写真撮影が済んでいたのと、憲兵隊への反発からまったく止めようとはしなかった。結局、近衛上奏文は見つからず、吉田が樺山愛輔へ送った手紙の文面、「陸軍はもはやこの戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞は蔽うべくもなく敗戦必至と存候」が反戦思想に問われ、陸軍刑務所に収監された。同刑務所が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で焼けると、吉田はそのまま釈放されている。
それからの東輝次は、もはや吉田邸に用はなくなり、東京の本部からも早く書生を辞めて帰還せよという指令を受けていた。だが、吉田茂に対する罪悪感からか、食糧の配給が少なくなったのを心配して吉田邸の庭へ次々と畑を開墾し、苦労して手に入れた四季折々の野菜の種をまいて、吉田一家がこの先当分は食べ物に困らないようにしてから、吉田茂へは「母のもとへ帰りたい」といってヒマをもらい、近所の人たちには「憲兵隊がくる家だから、おっかないので辞めた」といって大磯をあとにしている。
戦後、東輝次は憲兵隊とは別組織の、陸軍中野学校を母体とする工作機関のスパイだったことを詫びようと、吉田邸を訪ねている。東が土下座して詫びると、しばらく沈黙したあと吉田は「当時は君が勝ったけど、いまはわたしが勝ったね」と上機嫌でいい、横にいた小りんからは「まアまア、あなたがスパイとは(中略) 私たちには恨みどころか、感謝していますよ。あの物のないときに、あんな苦労までして、私たちに畑をつくってくれた恩人ですもの」といわれている。事実、若い男がいなかった時代、「いい人がスパイとしてきてくれて、よかった」とでも感じたのではなかろうか。吉田茂のクルマで駅まで送られた東輝次は、吉田から記念にハマキをもらった。この日から、吉田家と東家は家族ぐるみの付き合いになっていくのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:バス停「切通し」(現・城山公園前)も近い、大磯町西小磯にある吉田茂邸。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲後5月17日にB29偵察機から斜めフカンで撮影された戸山ヶ原の陸軍施設。コンクリート建築は焼けていないが、陸軍兵務局分室をはじめ木造家屋が全焼している。中は、1944年(昭和20)に陸軍機から撮影された百人町界隈。下は、百人町の工作室(ヤマ)があったあたりの現況。
◆写真中下:上は、大磯町西小磯に建っていた吉田別邸の間取り。中左は、バスの「切通し」停留所があったあたりの現状。中右は、吉田邸から東へ1,000mほどのところにある池田成彬の別邸。下は、1946年(昭和21)に撮影された西小磯の吉田邸。小さなバラック別荘の前に、東輝次が開墾した広い畑が見えている。
◆写真下:上は、大磯町東小磯の国道沿いに設置された工作室(ヤマ)の位置。大磯をよく知らない方が作成した地図のようで、あちこちにおかしな地形や配置が見られる。中は、工作室(ヤマ)があったあたりの現状。下左は、1971年(昭和43)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』。下右は、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』。