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落合村の帝国在郷軍人会分会1913年。
きょうは、長いわりに面白くない話なので、時間のない方はどんどん読み飛ばしていただきたい。わたしも、“地域の記録”としてのみ記述しているにすぎず、この記事が存在しないと今後の記事展開における説明がわずらわしく、引用リンクなどがしにくくなりそうだから、あえて書きとめているにすぎない。...
View Article煙突の形状が気になる陸軍科学研究所。
落合地域の空中写真や地図類を眺めていると、昭和初期から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、同地域の南側で爆発的に膨張をつづける陸軍施設を見ることができる。山手線の西側に拡がる戸山ヶ原Click!の南側、大久保百人町の「陸軍科学研究所」だ。陸軍科学研究所は、1919年(大正8)4月12日に公布された「陸軍科学研究所令」(勅令110号)により、陸軍火薬研究所をベースとして発足している。...
View Article落合のウシガエルを帝大に放した檀一雄。
上落合2丁目829番地の“なめくぢ横丁”Click!に建っていた、月15円の「心中長屋」Click!で貧乏暮らしをする帝大生の檀一雄Click!は、画道具を手に付近の丘をほっつきまわっては「下落合風景」を描きつづけていた。東京帝大の経済学部へ入学してしばらくたったころ、1932~33年(昭和7~8)ぐらいの時期だ。...
View Article地下鉄「西武線」は1929年3月開通予定。
1928年(昭和3)2月に東京市役所まとめた、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』という報告資料が残されている。その中で、西武鉄道と武蔵野鉄道などが紹介されているのだが、交通網の整備の視点から郊外に展開する町々が紹介されているのが面白い。その中から、落合地域に関連が深い西武電鉄Click!と、当時の落合町の様子を取りあげてみたい。...
View Article大磯のヨハンセンを諜報・監視せよ。
今年も、「落合道人」サイトをお読みいただきありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。今年最後の記事は、戦時中のちょっと長い物語がテーマです。 ★...
View Article佐伯祐三『戸山ヶ原風景』の描画ポイント。
謹賀新年。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。さて、お正月の第1弾は佐伯祐三Click!の作品で、描画ポイントが不明だった『戸山ヶ原風景』から……。 ★...
View Article事故が頻発していた陸軍科学研究所。
落合や戸塚はもちろん、百人町や柏木の住民も知らなかったことだが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所ではさまざまな事故が起きていた。各種火薬や毒ガス、毒性の強い化学物質、細菌、微生物などを扱う危なくてしょうがない施設なのだが、研究内容は軍の機密や極秘扱いなので、当然ながら周辺の住民は中でなにが行われているのか知るよしもなかった。...
View Article九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
九条武子の兄であり、真宗本願寺派Click!の僧侶だった光瑞の声音と、彼女の声とがそっくりだったのを短歌の師である佐々木信綱Click!がのちに証言している。目をつぶって声を聞けば、どちらがどちらだかわからないと書き、佐々木は「男子たらしめば」とか「誤つて婦人と生まれた」とまで書いている。...
View Article質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。
下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できるよう、年譜によれば郊外の「野方町大字新井56番地」から「野方町上高田216番地」に住んでいる。...
View Article九条武子の手紙(3)/関東大震災。
築地本願寺で関東大震災Click!に遭遇した九条武子Click!は、兵庫県に住む知人あてに「もうあれから半月になりますのに、まだ都は、ものものしいつけ剣の兵隊がまもつてをります」ではじまる長い手紙を書いている。彼女は1923年(大正12)9月1日の午前11時30分すぎに、女中をひとり連れ日本美術院の院展を見終えて帰宅している。...
View Article上戸塚にも「バッケが原」があった。
濱田煕Click!が、戸塚町上戸塚(現・高田馬場)や戸山ヶ原Click!の周辺を描いたのは、おもに早稲田中学へ通っていたころのようだ。スケッチブックを片手に、自宅近くに拡がる風景を描いていたのは、東京美術学校Click!への進学をめざしていたからだろう。同中学を終えると、濱田は希望どおり東京美術学校へと入学している。...
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