落合地域の空中写真や地図類を眺めていると、昭和初期から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、同地域の南側で爆発的に膨張をつづける陸軍施設を見ることができる。山手線の西側に拡がる戸山ヶ原Click!の南側、大久保百人町の「陸軍科学研究所」だ。陸軍科学研究所は、1919年(大正8)4月12日に公布された「陸軍科学研究所令」(勅令110号)により、陸軍火薬研究所をベースとして発足している。
翌1920年(大正9)には、小石川から戸山ヶ原への移転が計画(陸軍第2821号)され、施設内に建設する建物の設計図面が稟議にかけられている。大正末までには、全研究施設の移転を終えているとみられ、1925年(大正14)現在の敷地拡張に関する研究所の考え方、すなわち敷地をできるだけ目立たぬようコンパクトのままにし、戸山ヶ原北側のスペース(山手線西側の着弾地)を練兵場として活用することで、周辺住民による立ち退き要求を避けたい旨の書類(第1582号)が残されている。
陸軍科学研究所が移転の危機感をおぼえ、上記の書類を作成したのは、流弾被害Click!による住民の死傷者が絶えない大久保射撃場Click!の立ち退き要求Click!が、陸軍施設はすべて市街地化した戸山や大久保から丸ごと「出ていけ運動」Click!として周辺の自治体に拡がり、ついには政府の議会レベルにまで取り上げられるようになったからだ。科学研究所の北側に拡がる広大な森や敷地に、周辺住民の散策エリアや子どもたちの遊び場として自由な出入りを許したのも、そのような社会的背景があったからだと思われる。以下、第1582号の陸軍稟議書「科学研究所拡張敷地及大久保射撃場被弾地保有ニ関スル件」から引用してみよう。
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決裁案 研究設備改善ノ為拡張ヲ要スル科学研究所ノ敷地ハ現在地の北方ニ接続スル大久保射撃場避弾地ノ一部ヲ以テ之ニ充当シ且其面積ハ最小限ニ縮少スルコトゝシ同避弾地ノ大部分ハ之ヲ練兵場トシテ保有スルコトト致度右乞決裁
理由 一、科学研究所ヲ現在地ニ於テ拡張スルハ練兵場トシテ緊要欠クヘカラサル大久保射撃場避弾地ヲ縮少スルト共ニ将来民間ヨリ移転ヲ強要セシメラルゝ懼れアリト雖モ本研究所ヲ他ニ移転セシムルハ研究上業務上共ニ不便不利アルト共ニ(後略)
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このあと、同稟議書は毒物の排出や爆発の影響で、周囲の住宅街に被害が及びそうなのを懸念し、人家から離れた実験場の設立を要望している。
大正末の時点における陸軍科学研究所の編成は、第1部が物理的研究(力学・電磁気学)、第2部が化学研究(火薬・爆発)、そして第3部が化学兵器研究(毒ガスや毒薬など)という3部構成になっていた。ところが、昭和に入ると同研究所は市街地の中に位置するため、さまざまな実験(爆破実験や毒ガス実験、有毒排煙など)が実施しにくくなり、各地に試験場・実験場を分散させることになる。そのうちのひとつが、1939年(昭和14)に神奈川県橘樹郡生田村に設立された、秘密兵器の研究開発施設としてもっとも有名な登戸実験所=登戸出張所(通称登戸研究所でのち陸軍技術本部第9研究所)だ。
ただし、戸山ヶ原にあった本拠地としての陸軍科学研究所でも、当然ながら多種多様な化学兵器の開発はつづけられていたとみられ、戦後も西戸山の宅地開発現場からイペリット・ルイサイトなど毒ガス弾などが発見されているのを見ても明らかだろう。陸軍科学研究所は、1941年(昭和16)6月10日の「技術本部改正令」(第4088号)の公布で再編され、技術本部が統括する研究所として改めて位置づけられている。
また、1937年(昭和12)に山手線の東、軍医学校の北側へ建設された兵務局分室Click!(後方勤務要員養成所→陸軍中野学校)や習志野学校、憲兵学校(特に特殊憲兵)の機関員用に、さまざまな謀略器材の開発も科学研究所で行われていた。2003年(平成15)に新潮社から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』(保坂正康・編)から、陸軍科学研究所と兵務局分室(のちの陸軍中野学校の母体)の密接な連携の様子を引用してみよう。
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「はじめは、録音するのにテープや円形のロウ盤などもなかったので、針金みたいなものに録音するなどいろいろ苦心し、そのたびに、戸山ヶ原の陸軍科学研究所の中にあった篠田篠田鐐大佐の研究室に駆けこんでは、教えてもらったり、研究してもらった」(当時機関員、福本亀治少将)/とあるのをみても、実情がしのばれるのである。その篠田鐐大佐(終戦当時中将、理学博士)の研究室が、昭和十四年四月に独立拡大強化され、風船爆弾を発明したり、中野学校出身者の、諜報謀略に用いる器材の研究発明をした登戸研究所となったのだが……。
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1941年(昭和16)12月の開戦直前に、南方へ展開した中野学校の機関員たちには、同研究所が製作した手のひらにスッポリ入る小型拳銃や、インキの代わりに毒薬を挿入した殺人用万年筆、遅効性・即効性の毒薬各種(同年に中国の南京で人体実験を行ったばかりの遅効性シアン系化合物“アセトンシアンヒドリン”も含まれていただろう)、睡眠薬、缶詰型・レンガ型・石炭型時限爆弾などの謀略機材がいっせいに配布されている。これらの器材は、開戦の「ヒノデハヤマガタ」の陸軍暗号を受けとったのち、実際に現地で暗殺などに使われているのだろう。
濱田煕Click!が描いた1938年(昭和13)ごろの戸山ヶ原記憶画Click!には、南を向いた画角に必ず妙な形状の煙突群が描かれている。通常の煙突の先端に、キャップをかぶせたようなかたちをしているのだが、これは化学プラントの煙突から有毒な物質が排煙に混じって外部へ出るのを防止する、排煙濾過装置(フィルタリング装置)だと思われる。煙突は、先端部で太くなっていたり、斜めに折れ曲がっているように見えたり、まるで笠をかぶったような形状をしているのだが、換言すればフィルタリングを行わなければマズイほどの有毒な化学物質を扱っていた証拠だ。
戸山ヶ原で陸軍科学研究所の化学プラントがフル稼働していたころ、煙突に濾過装置が装着されていたであろうとはいえ、当時の技術ではどのような有毒物質が漏れだしていたかはまったく不明だ。国内外の地中から発見される、毒ガス弾など旧陸軍の“負の遺産”を見るにつけ、戦後はいまだ終わっていないとつくづく感じるのだ。
◆写真上:1932年(昭和7)に撮影された、大久保百人町の陸軍科学研究所正門。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)10月2日の午後4時すぎ陸軍科学研究所の見学を終えた昭和天皇。中は、1936年(昭和11)8月3日撮影の同研究所の記念写真で8名の女性所員が確認できる。下は、百人町住宅街に面した陸軍科学研究/陸軍技術本部の正門跡。
◆写真中下:上左は、1919年(大正8)4月12日に研究所の設置を決定した「陸軍科学技術研究所令(勅令110号)」。上右は、1941年(昭和16)6月10日に同研究所を統合する「陸軍技術本部令改正」。中・下は、1925年(大正14)8月現在の陸軍科学研究所平面図。
◆写真下:上は1936年(昭和11/上)と1945年(昭和20/下)5月17日の空中写真にみる大久保百人町の陸軍科学研究所。戦争とともに数多くの施設が追加され、その敷地を北側へ大きく拡張しているのがわかる。中は、現在の百人町通りで陸軍科学研究所跡は道路の左手。下は、濱田煕が描いた作品(部分)にみる陸軍科学研究所の煙突群。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原』より。