上落合2丁目829番地の“なめくぢ横丁”Click!に建っていた、月15円の「心中長屋」Click!で貧乏暮らしをする帝大生の檀一雄Click!は、画道具を手に付近の丘をほっつきまわっては「下落合風景」を描きつづけていた。東京帝大の経済学部へ入学してしばらくたったころ、1932~33年(昭和7~8)ぐらいの時期だ。
ちょうど同人誌「新人」に、処女作の『此家の性格』(1933年)を発表する前後のころではないかと思われるが、その様子を1956年(昭和31)に筑摩書房から出版された、檀一雄『青春放浪』から引用してみよう。
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幸いに、私はまだ油絵の道具箱と、若干の油絵具を持っていた。私は屡々バッケイの原ッパや、下落合の方に、その油絵具を肩にして、際限もなく迷い出し、キャンパスの上を分厚く絵具でぬりつぶしたが、そこらの景色を写してみたいというような平静な風流心とは違っていた。/まるでこう、盲目の絵師がキャンパスに向ってでもいるようで、塗りこめるものは、もう自分の肉と血だというふうの、嗜虐的なもどかしさに絶えず追い立てられていた。/私は経済科。坪井と水田が仏文科。内田が心理学科とそれぞれ、東大に籍だけはおいていた。
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文章に登場する「バッケイの原ッパ」は、下落合や上落合の西端から上高田に拡がる、大正期からやや西側Click!へズレつづけていたバッケが原Click!のことだ。1933年(昭和8)ごろといえば、上高田でも前年の耕地整理組合の設立とともに、田畑をつぶして住宅地化を前提とする耕地整理Click!がスタートしたばかりのころだ。すでに田畑は耕されなくなり、あちこちに原っぱが拡がっているような風情だったろう。
バッケが原は、故郷の九州に住んでいる遠縁の親戚姉妹が東京へ遊びにきたときにも、弁当片手に案内している。同書から、つづけて引用してみよう。
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私達は久方ぶりに野弁当をつくり、勢揃いして、春の野に迷い出した。/私が先頭に立って、彼女達を案内し、落合の野山をここかしこうろつき廻るのである。/もう春は来ていた。/バッケイの原ッパの上の山に、アシビの花が淡い白い美しさで開きつづいておった。/丘の傾斜面に腰をおろし、私達は野弁当を喰べる。何かこうやたらに愉快になって、私は上手でもない逆立ちを何度も繰り返してやってのけた。私の青年の終りの日であるような甘い感傷に呑まれたせいでもあったろう。
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ここで、バッケが原の「上の山」と書いているのは、目白商業学校Click!のある“台山”のことだと思われ、目白崖線ではもっとも標高が高い37m超の丘だ。1933年(昭和8)の当時、バッケが原を散歩した一行は、御霊橋Click!からバッケ坂Click!を上がって、近辺の見晴らしのいい斜面で弁当を食べたのだろう。
学校の講義へはほとんど出席せず、こんなことを繰り返していた檀一雄だが、退屈まぎれに心理学科の内田を連れて帝大の三四郎池で釣りをしている。ただ釣りをするだけのために、ふたりは久しぶりに学生服を着て帽子をかぶり学校へ出かけるのだが、授業にはまったく出席していない。
さすがに、真っ昼間から三四郎池でおおっぴらに釣りをするわけにはいかないので、夜陰にまぎれ「夜間部の学生」になりすまして登校している。同居人たちには、「大鯉を釣り上げて来るゾ。明日の朝は鯉コクたい」と宣言して出かけたので、なんとしても獲物を釣り上げたかった不良学生ふたりは、ロックフェラー図書館からもれる灯りの下、「東京というところは良かろうが?」「帝国大学というところは、上等じゃろうが?」などと、わけのわからないことを話しながら三四郎池で粘りにねばった。
でも、そう簡単に鯉は釣れなかった。三四郎池の鯉は昼間の部ばかりで、夜間部がないのではないか……などとオバカなことを考えながら、帝大は卒業できなくても帝大の鯉は釣りあげてやると、意地になって通いつづけている。そして、ついに1尾の大鯉を釣り上げて持ち帰った。檀一雄は、「私が帝大から何らか得るところのものがあったとするならば、あの鯉一匹だ」とのちに書いている。
さて、しばらくすると少し良心が咎めたものか、三四郎池から大鯉を盗んで唐揚げや鯉コクにして食べたからには、なにか代わりのものをお返ししなければならないという形勢になった。お返しにはメダカやハヤ、フナ、金魚といろいろな候補は挙がったけれど、いまいち大鯉に比べて貧相だ。そこで、近所の貧乏画家の息子「ツンちゃん」が捕まえてきた、ウシガエルのオタマジャクシを2匹、三四郎池へ放すことになる。
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いかにせん。東京は落合村である。まさか金魚一匹を鯉の代りに帝大の池に奉納したとあっては、後世モノ嗤いになるだろう。(中略)/「おう。ツンちゃん。それ何だ?」/私達は立ちどまってブリキ缶の中をのぞき込んでみた。何かこう、オタマジャクシの長大な奴が、人を喰った格好で、プカリと水の中に浮かび上っているようだが、/「何だい? ツンちゃん」/「これか? こりゃ、食用蛙の子供だよ」(中略)/知らなかった。夜なんぞ、バッケイの原っぱから、落合長崎の方に抜けてゆくと、そこここの水溜りで、/ブォーン、ブォーン/と啼いている奴がある。あいつが食用蛙だと云うことは聞いていたが、その恐るべき子供達に対面したことはかつてない。/「おう。これだ……」/私の頭の中に電光のように閃くものがあった。こいつを帝大の池の中に放流(?)して、大いにハン殖させてやったならば随分と愉快だろう
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さっそく、「ツンちゃん」からオタマジャクシを2匹分けてもらい、帝大の三四郎池へと放してきた。以来、檀一雄は『青春放浪』を書くまでは、三四郎池へ放ったオタマジャクシのことなど気にもとめなかっただろう。
さて、80年後の東京大学では「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」にもとづき、三四郎池の生物環境調査を実施している。その中で、駆除すべき「特定外来生物」としてブルーギル、オオクチバス、ニシキゴイなどに加え、ウシガエルの名前も挙がっている。どうやら、檀一雄が池に放ったオタマジャクシはその後繁栄し、夜になるとキャンパスに「ブォーン、ブォーン」という鳴き声を響かせていたようなのだ。
◆写真上:駆除すべき「特定外来生物」のウシガエルがいる、東京大学の三四郎池。
◆写真中上:上は、1933年(昭和8)の檀一雄と同時代の1/3,000地形図にみるバッケが原界隈。すでに前年から耕地整理が開始され、田畑だったところは草地の地図記号に変更されている。下は、ハイキング一行が立ち寄ったかもしれない上高田氷川明神社。
◆写真中下:上は、上落合(2丁目)829番地の「なめくぢ横丁」界隈の現状。下は、目白崖線ではもっとも高い標高37m超の台山へと通うバッケ坂。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる檀一雄一行のハイキングコース(想定)。下左は、若き日の檀一雄。下右は、1976年版の檀一雄『青春放浪』(筑摩書房)。