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今年の秋、美しいブルーグリーンをした2mほどの大きなアオダイショウが、前のお宅の塀を散歩(足がないし)していたそうで、うちの子どもたちがさっそく触りに出たようだ。このアオダイショウは、以前からご近所の家の縁の下に住み、春になると庭いじりをする奥さんが悲鳴Click!をあげるお宅の主(ぬし)か、あるいは10年前の幼蛇のときにヤモリを追いかけ、うちの風呂場へ落ちてきたアオダイショウClick!の成体なのかもしれない。
人によく馴れ、性格もおとなしい益獣のアオダイショウは、映画「若大将」シリーズに出ていた青大将(田中邦衛)とともにわたしも好きでw、海辺に住んだ子どものころから、出現するとどこかをそっと撫でてやるのが“お約束”になっていた。そんなことを話していたせいか、うちの子どもも下落合のアオダイショウたちには優しい。でも、美しいヘビを意識して触るのはいいが、ヘビのいるところへ知らずにいきなり手ついてしまうのは、あまり気持ちのいいものではない。刑部人アトリエClick!に住んでいたヘビは、夜になると階段の手すりを伝って移動していたようで、トイレに起きて暗闇でヘビをつかんでしまった刑部昭一様Click!のお話を、以前こちらでもご紹介Click!している。
わたしが、マムシあるいはヤマカガシと思われる胴体に手をついてしまったのは、丹沢で子どものころにキャンプをしていたときだった。当時のキャンプ場は、現在のように炊事施設やトイレ、燃料、水、照明などあるはずもなく、すべてを自分で用意するか、探すか、あるいは造らなければならなかった。キャンプ場に着いて、まずやらなければならないのは飲料水の確保と、炊事の燃料となる焚き木や落ち葉の採集だ。固形燃料やボンベ式のガスコンロを使うのはキャンプの邪道で、キャンパーたちからバカにされかねない時代だった。もちろん、オートキャンプなどは論外で、自然を楽しむのではなく自然を壊しにくる連中だと冷たい目で見られていた。
そんなストイックなキャンプを、親たちとともにしていたわたしは、まず飲料水を確保するために、湧水源のありかを粗末な小屋の管理人に訊きにいった。すると、沢を50mほど遡った左岸にある崖地の窪みに、岩の間から湧きでる飲料用に適した清水があるという。さっそく、布バケツ(ビニール製の軽いバケツは普及していない)を持ってその場所へいってみると、湧き口に竹の筒を半分に裂いてわたした注ぎ口が設けられ、美味しそうな清水がチョロチョロと流れでている。さっそく、布バケツをその下に差しだそうとした瞬間、手前の岩肌に足をとられた。
おそらく、水場なので岩の表面が苔むしていたのだろう、滑った瞬間、とっさに草で覆われた左側の岩場へ左手をついたのだが、その手のひらの下をスーッと冷たく這っていったものがいた。急いで手もとを見ると、焦げ茶と薄茶の丸い模様が入ったシッポの部分が草藪に消える瞬間だった。胴体がハッキリと見えなかったので、なんとも判断がつかなかったのだが、どう考えても体色やシッポの模様からして、あれはヤマカガシかマムシのどちらかだ。全身に鳥肌が立ったけれど、水汲みをやめるわけにはいかないので、そそくさと布バケツに半分ぐらいの水を汲み、急いでキャンプ場へ引き返した。
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わたしがよくキャンプをしていたのは、岳ノ台(標高899m)の東にある丹沢のヤビツ峠(761m)までエンジン音も苦しいバスで出かけ、そこを拠点に宮ヶ瀬方面へと下る沢沿いのところどころに散在していた、管理人の小屋がある以外なにもないキャンプ場だった。ヤビツ峠から、半径8~10kmほどの山道を歩いてキャンプ場へと向かうのだが、現在のように舗装された道に喫茶店まである光景を見ると、思わずのけぞって笑いがこみあげてくる。夏場のヤビツ峠とその周辺は、すぐに雲か斜面を這い上るガスにおおわれホワイトアウトもめずらしくなかったので、天候が不安定だと1,000m以下の低山とはいえ、キャンプ場へ急いで向かわないと厄介なことになる。
当時のキャンプ用具は、すでに少し書いたけれど軽いビニール製やナイロン製のものなどほとんどなかった。テントはもちろん防水加工された布製で、シートや支柱、ペグ、ロープ、雨に備えた天幕まで入れると、およそ30kgほどの重さになる。テントは親が担いでくれるが、飯盒や食糧、まさかのときの固形燃料、ランプ、懐中電灯などはリュック(布製)に入れ、寝袋(布製)とともに子どもも担がなければならない。おそらく、10kg前後はあっただろうか。キャンプ場に着くと、テントの設営や排水溝掘り(現代のキャンプでは不要)、竈造り(これもたいがい不要)、トイレ造り(不要)などを手伝い、その合い間に焚き木ひろいや水汲みをする。キャンプの初日はいろいろと雑用が多いので、夕食を終えるのは薄暗くなりかけた午後7時ごろだったろうか。それから、夜は冷えてくるので焚き火を囲みながら明日の登山計画を立て、就寝するのは9時ごろだった。
さて、最近“山の怪談”がブームなのだそうだ。月夜のうずのしゅげさんClick!も、このところ5冊ほど本を紹介されているが、わたしもキャンプをしているとき不可思議な経験をしたことがある。やはり子どものころの話だが、キャンプに出かけると子どもは興奮してなかなか寝つけないか、寝床に慣れないため夜中にふと目を覚ましてしまうことが多い。わたしもそのひとりで、寝袋にくるまれながら夜中に目が開いてしまった。しばらく、黒く影になって見えるアルミの支柱を見つめていたのだが、なかなか眠りに落ちない。すると、ありがちな怪談話で恐縮だが、テントの周囲をガサガサと歩く音がする。
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最初はキャンプ場の管理人が、火の始末などの見まわりをしているのだろうと思っていたが、それにしては懐中電灯の光がテントを透かして見えない。森の下草をかき分け、落ち葉や小枝を踏む音は、私のいるテントのほうへ近づいてくるのか徐々に大きくなるのだが、人が歩くような気配を感じない。丹沢に多い動物、たとえばニホンカモシカやイノシシが、エサのありそうなキャンプ場に下りてきたのかとも思ったが、それにしては地面を踏む音が規則的で、二足歩行をしているとしか思えない。音が近くまできたので耳を澄まして聞いていると、踵が地面を踏むたびに響く重たい登山靴をはいた足音のように聞こえる。寝袋とシート1枚の地面から耳もとに、その振動が伝わってくるようだ。
この真夜中に、誰かが沢登りでもしているのかとも思ったが、そんな非常識な登山者は丹沢山塊へ入りこまないだろう。私のテントから20mほど離れた位置に、学生たちと思われる別のテントが張ってあったので、きっと誰かが起きて用足しにでもいったのだと思いこもうとするのだが、足音は反対側の斜面から下りてきて、キャンプ場の平地を通り抜け、沢沿いのガレ場まで抜けようとしているように聞こえる。足音は、私のいるテントと隣りのテントの間あたりまできたとき、急に音が消えて静寂にもどった。
わたしは、誰かがそこに立ちどまって様子をうかがっているのではないかと思い、緊張して耳を澄ましたがなにも聞こえない。しばらく、そのまま足音のつづきを待っていたけれど、その位置から再び歩きだす気配はなかった。ひょっとすると、遭難者の幽霊が死んだことに気づかず、いつまでも丹沢の山々を彷徨しているのではないかと、すっかり怖くなって身体をちぢめたままジッとしていた。
結局、わたしは明け方まで眠れず起きていたのだけれど、足音はテントとテントの間で消えたまま、二度と聞こえてくることはなかった。明らかに底が厚くて重たいトレッキングシューズをはき、落ち葉や枯れ枝を踏みしめながらドッドッドッと、一歩一歩ゆっくり地面を踏み歩く足音は登山者のものに聞こえていたのだが、いったいあれはなんだったのだろう? 意識がハッキリしていたときの体験なので、いまだに夢だとは思えない。翌日、寝不足から山歩きでバテ気味だったのも、その体験が現実だったことの証左だ。
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わたしが山よりも、よほど海のほうが好きなのは、ひょっとするとこの体験が大きく作用しているのかもしれない。いまだに、あのときの足音とテントを通して感じる怜悧な空気感をハッキリと憶えている。山には得体の知れない、気味の悪いものがひそんでいる。
◆写真上:大きなアオダイショウが出現したとき、わたしは不在だったので代わりに鎌を伸ばすと20cmはありそうな、毎年晩秋になると出現するオオカマキリ。
◆写真中上:上は、多くのヘビが棲息している目白崖線。下落合(現・中井2丁目)の撮影場所は、刑部人アトリエの跡地(撮影:刑部佑三様) 下は、手前の藪に3mはありそうな巨大なアオダイショウが棲息していた大磯の南欧風邸(1970年ごろ)。
◆写真中下:上は、キャンプや登山が好きだった親父のアルバムから燕岳(つばくろだけ)の縦走(左)と、おそらく燕山荘付近(右)のハイマツ帯か。下は、北アルプスの表銀座(左)とピーク下にある槍ヶ岳山荘(右)か。いずれも、1940年代の撮影。
◆写真下:上は、装備を合わせると30kgは下らない大昔の布製テント。下は、丹沢山塊の宮ヶ瀬側へと下る渓流沿いのキャンプ場とその周辺。いずれも、1960年代の撮影。