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下落合で「狂い死に」した近藤芳男。
落合地域には、すでに名を成した誰もが知る芸術家たちが数多くアトリエをかまえていたが、もちろん東京美術学校Click!を卒業して間もない画家の卵や、「さあ、これから!」というときに病気で夭折した画家たちも大勢暮らしている。きょうは下落合に住み、曾宮一念Click!に画道具の買い方を教えてくれた、彼より2年先輩の洋画家・近藤芳男について書いてみたい。...
View Article九条武子の手紙(4)/下落合への転居。
1923年(大正12)の10月半ば、関東大震災Click!を逃れた九条武子Click!は、青山で東京郊外の仮住まい物件を探していた。そして、中野駅の近くにとりあえずの仮住まいが決まると、そこから本格的な自宅探しをスタートさせている。この時期の九条武子は、身のまわりのものをすべて震災で焼いてしまい、装おう着物にさえ日々不自由していた。...
View Article下落合に住んでいた柿ノ木坂機関の総帥。
戦後に起きた米軍のG2あるいはCICと、それら組織に所属する下請けグループによる謀略と思われる出来事で、下落合に関連した事件として松川事件に絡む亀井事件Click!と、さらに帝銀事件Click!について記事に書いた。そればかりでなく、下落合には下山事件にも深くかかわっていた人々も住んでいる。...
View Article九条武子の手紙(5)/白蓮と。
九条武子Click!と伊藤燁子(白蓮Click!)が初めて対面したのは、1920年(大正9)7月のある日、蒸し暑い京都の六条御殿(西本願寺)においてだった。九州から京都へやってきた伊藤燁子は、宮崎龍介Click!との逢瀬の合い間に西本願寺を訪れたものだろう。...
View Article「下山事件研究会」を主催した南原繁。
1964年(昭和39)7月12日、下落合2丁目702番地の元東京大学総長・南原繁Click!らを中心に、ひとつの研究会が発足した。警視庁が自他殺の判定を放棄した下山事件について、改めて当時の資料や新たな証言、より進んだ科学的な分析技術などを集め、改めて同事件について考察する「下山事件研究会」だ。下山事件(1947年7月5日発生)の時効が成立した、わずか7日後のことだった。...
View Article犬がうるさい「もぐら横丁」の尾崎一雄。
尾崎一雄Click!が、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の通称「なめくぢ横丁」Click!の長屋Click!から、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」に転居したのは、1934年(昭和9)9月21日だった。この日は、まさに“室戸台風”が日本に上陸していた当日で、東京では屋根瓦が飛ばされ樹木がなぎ倒されるなどの被害が続出している。...
View Article大正期からの神高橋はなぜ斜め?
学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが、現在では当時の橋桁が丸ごと存在せず、南詰めの位置が下流へ10mほどズレてしまった橋がある。高田馬場駅のすぐ北東側、山手線や西武新宿線の神田川鉄橋Click!と並んで架かる神高橋Click!だ。...
View Article戸山ヶ原の陸軍科学研究所跡を歩く。
先年の暮れ、戸山ヶ原(現・百人町)にあった陸軍科学研究所Click!/陸軍技術本部、正確には1941年(昭和16)6月10日から「技術本部改正令」(第4088号)の公布で、陸軍技術本部付属の科学研究所となった施設の跡地をゆっくり散歩してきた。...
View Article池田元太郎の「緑柳」と「緑蛙」。
多くの資料類では、下落合にあった池田元太郎の研究所兼工場を「下落合17番地」、あるいは「下落合1ノ7」としているようだが、下落合71番地の誤りだ。この下落合71番地という地番は、田島橋Click!の北詰めにあたる住所で、三越呉服店染工部(三越染物工場Click!/下落合69番地)の北隣りに接する敷地だ。1926年(大正15)現在、「下落合事情明細図」の同地番には池田化学工業が採取されている。...
View Article江戸東京方言でも七は「ひち」だ。
ふだん“ベストセラー”とうたわれる本は、たいがい読むとガッカリして後悔するケースが多いのであまり手にしないが、昨年(2015年)の秋に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)は、子どものころから数えておそらくゆうに50回以上は訪れている街がテーマなので、ついネットで注文してしまった。...
View Article佐伯のスケッチは大阪の淀川周辺では?
わたしが以前から不可解に感じる、佐伯祐三Click!の「下落合風景」Click!とされているスケッチが何枚かある。冒頭の画面がその1枚なのだが、わたしは下落合の旧・神田上水(現・神田川)に帆掛け舟が通っていたのを、これまで古老たちの証言でも聞いたことがないし、資料でも見かけたことがない。これは、「下落合風景」ではないだろう。...
View Article「鶏鳴坂」に朝霧がたなびいた。
現在は、大正期からの地形改造で名前さえ残っていないが、上落合には「鶏鳴坂(とりなきざか)」という坂道があった。上落合村から江戸市街へ向かう街道(現・早稲田通り)へと出る坂道のひとつだったが、この名称は地元の上落合村の村民たちが付けたのではなさそうなのがめずらしい。上落合村から、さらに東側ないしは北側のエリアから街道筋へと向かう人々が、便宜上そう呼んだ坂道のようなのだ。...
View Article大正中期の目白駅前にあった店舗。
大正中期に営業していた、目白駅前の企業や商店についてちょっと書いてみたい。ここでいう目白駅Click!とは、1922年(大正11)に鉄道省より発行された『国有鉄道現況』でようやく竣工が報告される、目白橋西詰めに橋上駅化された3代目・目白駅のことではなく、金久保沢の谷間にあった日本鉄道による初代の駅舎から数え、鉄道院がリニューアルした2代目・目白駅(地上駅)のことだ。...
View Article生産過剰だった関西セメント事業の消費先。
大正末から昭和初期にかけ、セメント業界Click!は減産してまで余剰在庫の解消に四苦八苦している。1927年(昭和2)4月の時点で、セメント業界の総在庫は約140万樽にもおよび、この在庫量は全国における1ヶ月の総消費量に匹敵する膨大なものだ。セメント業界では、15%の生産制限を実施していたが、さらに在庫がふくらむ傾向にあったので、その制限率を拡大しようとしていた。...
View Article戸山ヶ原で遊ぶ上落合の子どもたち。
昭和初期に、上落合からわざわざ戸山ヶ原Click!まで遊びに出かけていた、子どもたちの証言記録が残っている。上落合と戸山ヶ原は、小滝橋Click!の交差点でかろうじて近接しているので、豊多摩病院が建っていた小滝橋通りから雑木林を抜け、戸山ヶ原の西端斜面を登って入りこんだものだろう。...
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