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九条武子の手紙(5)/白蓮と。

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 九条武子Click!と伊藤燁子(白蓮Click!)が初めて対面したのは、1920年(大正9)7月のある日、蒸し暑い京都の六条御殿(西本願寺)においてだった。九州から京都へやってきた伊藤燁子は、宮崎龍介Click!との逢瀬の合い間に西本願寺を訪れたものだろう。
 1929年(昭和4)に出版された『九條武子夫人書簡集』(実業之日本社)に掲載の、佐々木信綱・雪子夫妻にあてた九条武子からの手紙では、あえて7月の日付が公開されていない。他の書簡類には、すべて年月日が記載されているのだが、この手紙にだけに日付がないのだ。これは、1929年(昭和4)現在の「白蓮事件」Click!関係者に佐々木信綱が配慮したものか、あるいは九条武子が気をまわして、そもそも邂逅の日付を記載しなかったものだろうか。
 同書から燁子(白蓮)に会ったばかりの、九条武子の手紙を引用してみよう。
  
 1920年(大正9)7月 京都より佐々木信綱に
 昨日、かねての思ひがとゞきまして、燁子様に義弟の方の御紹介にて、初めて御目にかゝりました。今迄に、私の親類つゞきより、御噂をよく承つてをりました故か、初めてお目にかゝつたといふ気も致しませず、屹度むかう様も、さう仰しやつてましたらうと信じられますほど、親しく御話が出来ましたから、先生にも御喜び遊ばして頂きたいと存じます。なぜならば、私とあの方と、是非一度会はせたいものと、よく仰しやつてくださいましたから。どうして知りましたか、新聞社の人がまゐり、庭で写真をとりました。この写真は、夕方でよくとれてはをりませんが、うしろには白い蓮が、朝のなごりの花を包みかねて咲いてをりました。人も花も濁りにしまぬ清さ、はからずも白蓮の咲く池のみぎはにこの君をたゝずませて、思出のうつしゑをとりましたことは、私としては嬉しいことで御座いました。
  
 ふたりが会う場面に、すでに新聞記者がきているということは、燁子(白蓮)の義弟がその情報を地元の新聞社へリークしていたものだろうか。西本願寺の庭で夕方に撮影したと書いているが、確かに現存している写真は暗めで、あまり写りがよくない。
 また、佐々木信綱と燁子(白蓮)とが短歌誌「心の花」つながりで、かねてより一度ふたりを会わせてみたいと、九条武子へ勧めていたことも文面からうかがえる。つづけて九条武子の手紙から、白蓮の印象を引用してみよう。
  
 輪郭の正しい御目と鼻の線に、男性の理智を見るやうに、細い、きりつとした御姿は亡き姉のやうで、もしや御気性まで似ていらつしやるのではないか、否、おなじ藤原氏の血をうけた女性として、屹度近い時間に、似ていらつしやる点を私は見出すにちがひないと思ひました。そして「私は、亡き姉を思ひ出します」と申上げたかつたのですが、初めて御目にかゝつた日に、それは、あまりかるはづみとお思ひになることを恐れてやめました。それで、この日の印象を、忘れぬうちにと書きつゞつて御覧に入れます。
  
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 九条武子は、早くも「亡き姉を思い出」すと書いているとおり、彼女の中にあった姉の死による欠落感を埋める存在として、白蓮が強く意識されたことがわかる。また、九条武子は「親類つゞき」と書いているが、白蓮もまったく同じような感想を抱いたようだ。京都での邂逅のあと、白蓮は九条武子の歌集『金鈴』の批評を、佐々木信綱の歌誌「心の花」へ早々に寄せている。
 しかし、白蓮の文面は同じ歌詠み同志というよりも、「小指の先の一雫にも、同じ血の通つてゐようとは」、同じ祖先の血を引く遠い姻戚でありながら、自身の現在の境遇(伊藤伝右衛門の妻であり福岡に住んでいること)を必要以上に卑下し、「現在の私として、仮初にも、そんな誇りかな(ママ)事を申すのは、作者に対して礼を忘れたものゝ様に気がひけてなりませぬ」などと書いている。これは単なる謙譲表現を超えて、伊藤家側に対してずいぶん失礼ないい方であり、「平民」との望まない結婚をした恥ずべき「華族」意識が、いまだ強く残っていた様子がうかがわれる。
 換言すれば、「平民」であり、さらには階級意識を明確に備えた帝大黎明会「解放」(吉野作造Click!)の主筆だった宮崎龍介Click!との間が、いまだ思想や社会観を共有するまでに深まっていないことを表しているともいえるだろうか。佐々木信綱あての、白蓮の手紙をつづけて引用してみよう。
  
 此度初めて、あの六条の御殿の中でお会ひ申した時、次から次にとお話のつきない時も、知らぬ方との初対面のやうな感じは少しも致しませんでした。それは、萬もの馴れた御もてなしもありましたらうけれども。/その時、作者から手づから戴いた歌集金鈴は、筑紫に帰る途々、汽車の中でも、船の上でも、間さへあれば取り出して読みました。(中略) 大方は作者が真実に触れたもの、愛か、涙か、恨か、情か、但は迷かも知りませぬが、あらゆる女の弱さ、強さ、其まゝうちつけに現はしてあります。ふと私は、自分の事ではなかつたかとさへ思ふほどに、私のいひたいと思ふ事を歌つたのもありました。(中略) お目にかかつた時、私はお月様を見るのが本当に好きなのですと、たしかそんなお話もありました。あの方の友として、月は何を教へるでせう。宵々ごとに円くなる月のかげ、やがて時がくれば欠けてゆくその有様を、幾度空しく見て暮さねばならぬ方なのでせう。
  
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白蓮「踏絵」1914.jpg
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九条武子「金鈴」1920.jpg

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さしのぞけば.jpg
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九条武子と柳原白蓮.jpg

 九条武子は、白蓮と京都で会った直後から、さまざまな雑誌社より印象記を書くように依頼されている。だが、その原稿は白蓮に譲るとして断りつづけていた。彼女が書いた白蓮の印象は、歌誌「心の花」へ送った原稿のみだった。同書より、鎌倉へ避暑に出かけた佐々木信綱あての手紙を引用してみよう。
  
 1920年(大正9)8月2日 京都より佐々木信綱に
 白蓮さまと御会ひ申あげた時の心もち、かざり気もなく御たよりいたしましたのを、心の花の誌上に御のせ下さるとのこと、少々はづかしう御座います。実はいろいろの雑誌社から会見の印象を贈つてくれと、たつて頼んでまゐりますけれども、何も別にまとまつてかくといふことも御座いませんし、きつと白蓮さまへも、おなじこと御願ひ申上て居られるにちがひないと存じ、これは白蓮さまに御ゆづり申上、私は皆々御ことわり申上たことで御座います。
  
 このとき、九条武子は歌集『金鈴』の出版を記念して、師である佐々木信綱へ『水のほとり(自画像)』を贈っている。手紙にある、「自分の姿をスケツチしました、長い髪を垂らして立つてをる絵」は、おそらく上村松園じこみの軸画だったと思われる。
 暑い京都に帰省していた九条武子は、9月に入ると白蓮の訪問への答礼に、四国へ旅をするついでに別府の伊藤別邸で白蓮と落ち合う約束をしている。だが、当日は九州への連絡船が欠航し、楽しみにしていた約束が果たせなかった。
  
 1920年(大正9)9月11日 京都より佐々木信綱に
 師の君には、七日御立ちにて、奈良より京へ御立寄のよし、まことの我も、画の人も御待ち申上げ居候と御申入れたまわり度候。この間は、燁さまも私も、たがひに都合よく日どりさだめ、いかばかりか別府の日を楽しみ居りしものを、その日、紅丸臨時休航とのことにて、四国の旅もうはの空、すごすごと二十六日朝神戸に上り候。
  
 手紙のやり取りで急速に親しくなったのか、九条武子は白蓮のことを「燁さま」と呼んでいる。このあと、九条武子は改めて別府の別邸へ白蓮を訪ねている。
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宮武外骨「美人」1.jpg
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宮武外骨「美人」2.JPG

 九条武子と白蓮の間にかわされた書簡は有名だが、同時期に他者へ向けた手紙に描かれる両者の印象記はめずらしい。ふたりは、確かに初対面で話しはじめてからすぐに意気投合したようで、その親しさはそのまま目白通りをはさんだ下落合(九条武子)と上屋敷(宮崎白蓮)の時代Click!までつづき、揃いの羽織「あけがらす」Click!をあつらえるまでの、気の置けない親密な「華族」同士ではなく、女同士の関係へと深化していったのだろう。

◆写真上:下落合753番地の自邸書斎で執筆する、ややピンボケの九条武子スナップ。
◆写真中上:同じく親友の“清子さん”撮影による、事態の文机の前で歌想を練っているらしい九条武子のスナップ。火鉢から煙が立ちのぼっているので、朝の掃除を終えて炭をおこしたばかりの、午前7時Click!ごろの情景だろうか。
◆写真中下上左は、1914年(大正3)に自費出版された伊藤燁子(白蓮)の処女歌集『踏絵』。上右は、1920年(大正9)に竹柏会から出版された九条武子の処女歌集『金鈴』。下左は、立川準様が所蔵される宮崎白蓮の歌軸。(撮影も立川様) 白蓮が九条武子の死後、下落合の九条邸跡を散策して詠んだ歌で、「さしのそけハむか志友ゐし落合に(差し覗けば昔友居し落合に) 知らぬ人住む紅梅の花」。下右は、1920年(大正9)に西本願寺の庭で撮影された九条武子と伊藤燁子(白蓮)。
◆写真下宮武外骨Click!が創設した、東大法学部の明治新聞雑誌文庫Click!に残るアルバム『美人』()と、『美人』所収の九条武子のブロマイド()。全ページを拝見したが柳原白蓮の写真はなかったように思うので、外骨の好みではなかったのだろう。


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