1923年(大正12)の10月半ば、関東大震災Click!を逃れた九条武子Click!は、青山で東京郊外の仮住まい物件を探していた。そして、中野駅の近くにとりあえずの仮住まいが決まると、そこから本格的な自宅探しをスタートさせている。この時期の九条武子は、身のまわりのものをすべて震災で焼いてしまい、装おう着物にさえ日々不自由していた。
佐々木信綱Click!の妻・雪子が、娘の結婚式へ出席してくれるよう九条武子に依頼すると、「実は震災で何もかも焼いてしまひ、紋服もまだつくりませぬので、京都ですと兄の妻のが借りられますが、東京では知つた方に私のやうな背の高い方がありませんので」という、彼女の言葉が記録されている。身長が160cmをゆうに超えていたと思われる九条武子は、自身であつらえた着物や洋服を築地で失うと、同じサイズのものを手に入れたり、改めてつくり直したりするのはたいへんだったにちがいない。
1923年(大正12)10月下旬の手紙には、中野駅近くの仮住まいを決めた直後の様子が書かれている。1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編の『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
▼
1923年(大正12)10月22日 青山より渡辺夫人に
私の家さがしも、どうやらすみました。やつぱり不自由とは存じますけれども、暫く都を離れます。中野にいたしました。ほんとにほんとに小さな家。そして吹いたら飛ぶやうなお粗末なもの。けれども自分は、何の不足もなくそこに入ります。そして、どんなに静かに暮らせるかと思ふ楽しみさへ加はりまして、一日も早う移りたいやうにも存じますが、只今をられる人も、この場合、すぐにかはりの家もなし、まあ来月五日頃までには出ると申す約束になりました。中野のステーシヨンから女の足で十分ほど、五六町は御座いませうか。車も御座いますから、よろしう御座います。かたつむりの殻のやうな家……でも、どうぞ落ちつきましたら、御出で遊ばして頂戴。
▲
下落合へ自邸を見つける前、九条武子は中野駅近くに仮住まいを決めているが、実際に青山から中野へ転居したのは11月に入ってからだと思われる。そして、仮寓を拠点にして東京郊外における本格的な自邸探しをスタートしているようだ。11月に入ると、彼女は山手線の外側に拓けつつあった、いまだ田園地帯の面影が色濃く残る住宅地を数週間にわたって見学してまわり、おそらく11月20日ごろ下落合に好みの家を見つけると、そのままいったん京都の実家に帰省している。
短歌の師である佐々木信綱の妻・雪子には、帰省したあと20日ほどすぎた12月10日に、自邸を下落合に決定した報告を入れている。同書から、再び引用してみよう。
▼
1923年(大正12)12月10日 京都より雪子夫人に
御心配にあづかりました住の問題も、ほゞ目はながつきまして、いろいろの交渉ごとが終りましたら、正月までには移ることが出来ようかといふ迄にいたりました。場所は美術村とやら異名されてをります落合の高台で、ほんたうに小さな小さな宅で御座います。いづれ近く帰京の上、萬々つもる御話申上たう存じてをります。/先生に何卒よろしく、寒さにむかひ、御身くれぐれも御大切に願ひます。
▲
この手紙で興味深いのは、すでに大正の中期には下落合が「美術村」だと、人口に膾炙されていた点だろうか。九条武子が、「文化村」とは書かずあえて「美術村」と書いたのは、実際に現地を歩きながら画家たちのアトリエが点在する様子を見て、「美術村」という呼称に納得していたからだとみられる。
同時に、几帳面な彼女は現地をくまなく調べ、下落合の「文化村」と呼ばれる箱根土地Click!の目白文化村Click!のエリアを明確に認知しており、漠然と下落合のことを「文化村」とは呼ばずに、彼女の自邸は文化村よりもかなり東側、より山手線に近いエリアであることも意識していたと思われる。このころ、東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画は端緒についたばかりで、いまだそれほど広くは知られていなかっただろう。だから、大正初期より画家たちが多く集まりはじめていた下落合東部が、現代では耳馴れなくなった「美術村」という表現で呼ばれることに、あまり抵抗感をおぼえなかったのではないか。
もうひとつ、九条武子も日本画家・上村松園の門下生であり、ときどき軸画を描いたり、陶器を手づくりして焼いたりしていることから、地元の「美術村」という呼称にことさら惹かれて下落合に落ちついた……といえるのかもしれない。
1923年(大正12)12月29日に、下落合への転居を終えた九条武子は、翌年の1月10日にさっそく佐々木信綱・雪子夫妻へ転居通知を出している。
▼
1924年(大正13)1月10日 下落合より佐々木夫妻に
昨年のわざわひには、一方ならぬ御同情をいたゞき、恐れ入り候。おかげさまにて、やうやくさゝやかなすまひを得、旧冬二十九日におちつき申候。あまりの忙がしさ、馴れぬことにあたり、夢中に日をすぐし候。つくづく家とゝのふるわざのなみなみならぬこと知り候も、此としになりてと思へば、世の笑はれ者かと、はづかしう存ぜられ候。承り候へば、此たび富士子様御良縁とゝのはせられ候よし、栄の御まとゐに御招きいたゞき恐れいり候。是非にとは存じ候へども、やむなきことの為出かね、まことに御のこり多く存じ候。
▲
「富士子様」とは、結婚式をひかえた佐々木夫妻の娘であり、九条武子は披露宴に招かれていたのだが、残念ながら出席できないと返信している。その理由が、震災ですべてを焼いてしまったので着ていくものがないという、冒頭の言葉へとつながっている。だが、実際にはサイズの合うレンタル紋付をなんとか見つけ、結婚式には出席している。
九条武子は、いまや歌人としてのイメージが定着しているが、ときに絵画や陶器を制作するクリエイターでもあった。また、自らつくるばかりでなく、頼まれれば絵画や彫刻のモデルにもなっている。1923年(大正12)の夏、彼女は建築家・武田五一Click!が九段上に設計中の尼港遭難記念碑に添える女神像のモデルになるため、彫刻家・武石弘三郎のアトリエを訪ねている。だが、敗戦とともに彼女がモデルになった「嘆きの天使」像は撤去され、現在は台座部分しか残されていない。
◆写真上:下落合の自邸でくつろぐ九条武子。彼女の背後には提燈が置かれ、手前には西洋人形やレース編みのクロスが見える和洋折衷のチグハグな室内だ。
◆写真中上:上は、九条武子が目にしていた大正期の中央線・中野停車場。下は、自宅の縁側で下落合の野良ネコをかわいがる九条武子。
◆写真中下:左は、九条武子(松契)が大正期に描いた軸画。右は、大震災の被災見舞いの返礼として贈った自作の隅田川焼き水さし。彼女は隅田川焼きの陶工・白井半七(=隅田川半七/7代目)に入門しており、贈答品には自作の陶器を贈ることも多かった。
◆写真下:実業之日本社などから出版されていた、九条武子による歌集・著作の広告。これらは、大正末から昭和初期にかけ、次々とベストセラーを記録した。下右は、1929年(昭和4)に出版された佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』の奥付。4月25日の発売から、わずか27日で17版を重ねている。