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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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大正中期の目白駅前にあった店舗。

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目白駅跡.JPG
 大正中期に営業していた、目白駅前の企業や商店についてちょっと書いてみたい。ここでいう目白駅Click!とは、1922年(大正11)に鉄道省より発行された『国有鉄道現況』でようやく竣工が報告される、目白橋西詰めに橋上駅化された3代目・目白駅のことではなく、金久保沢の谷間にあった日本鉄道による初代の駅舎から数え、鉄道院がリニューアルした2代目・目白駅(地上駅)のことだ。
 当時の目白駅前にあった企業や店舗については、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)に掲載の媒体広告や、ほほ同期の住宅明細図などに掲載された店舗一覧広告などが教えてくれる。『高田村誌』には、高田村へ進出してきた製造工場や金融機関、各種事業所についての記述が詳しいが、店舗などの情報については巻末の媒体広告が参考になる。その中で、特に「目白駅前」あるいは「金久保沢」という記載のある店舗や企業について見ていきたい。
 これらの企業や店舗は、目白駅を利用した下落合に住む中村彝Click!佐伯祐三Click!ら画家たちが、同駅前とその周辺で実際に目にしていたものだ。当時、金久保沢の目白駅前にあたる地番は、東京興信所Click!が地価を調査した住所番地、すなわち高田村(大字)高田(字)金久保沢1113~1135番地界隈ということになる。ちなみに、高田村は翌1920年(大正9)から村制を廃し、念願の町制へと移行して北豊島郡高田町となる。今日、高田地域の繁華街は目白駅から西へ伸びる目白通り沿いだが、大正中期の繁華街は高田豊川町Click!四ッ家町Click!界隈が、同村誌によれば「商戸軒を並べ、頗る繁栄の況」であり、また雑司ヶ谷(鬼子母神Click!)から学習院馬場Click!(現・目白小学校Click!)までが「唯一の目抜所」だったことが記録されている。
 駅前というと、今日ではまず金融機関の存在を思い浮かべるが、当時の高田地域では高田農商銀行Click!本店が雑司ヶ谷鬼子母神の参道近くに開業しており、地元金融の中核だった。しかし、1918年(大正7)に池袋駅前支店を設置した大信銀行(本店・神田須田町1番地)が、駅前の利便さに目をつけて目白駅前にもほぼ同時に進出している。同銀行の概要を、『高田村誌』から引用してみよう。
  
 大正七年度の創業に係り、取締役に久保田勝美氏あり、松山棟菴氏川田豊吉氏同じく取締に当る、監査役は甲藤大器氏たり。(中略) 銀行設立の趣旨は此附近に於ける金融の便益を計らん為にして、東上鉄道武蔵鉄道等の開通を見しも両鉄道沿道に於て交換組合銀行に加入せる銀行皆無にして、是等沿道の人々の不便不利を救はんとするの所謂時代的要求に促されて創立を見しもの也。編者に隣接町村銀行として是非とも筆を執れる所以である、
  
 目白駅前にあった大信銀行目白駅前支店に接し、そのすぐ南側にあった企業が高田倉庫株式会社だ。当時の目白駅は、山手線の東側(学習院側)に貨物駅Click!が設置されており、全国から同駅へとどく荷の保管場所が不可欠だった。高田倉庫は1916年(大正5)に開業しており、駅周辺の市街地化とともに次々と金久保沢の目白駅前に倉庫を建設している。目白駅は、いわば東京郊外の西北部における物流の拠点だった。
東京市区改正委員会目白停車場1900.jpg
目白駅前1.jpg
高田倉庫.jpg
 高田倉庫は、高田農商銀行が肝煎りで設立した企業で代表に吉倉清太郎、相談役には元・高田村村長で高田農商銀行頭取の新倉徳三郎Clickが就任していた。1919年(大正8)現在で、目白駅前に100坪の倉庫2棟、池袋駅前に数棟を建設し、常時倉入れしている荷は10万円をゆうに超えていた。そのおもな荷は、各地から運びこまれる米や雑穀の類だった。同誌から、高田倉庫について引用してみよう。
  
 今茲に千俵の米を有し、之を倉庫に寄託せんが、倉庫は之に、倉庫券を発行し、倉庫券は銀行を通じて、直ちに金融の自由を獲ることが出来得る、而も倉庫には幾多の在荷があるから、今売買するとしても、幾多の取引人に自由に知られてゐるから、至つて都合が宜しく、容易に取引も成し得るのである、換言すれば幾十種の商品を陳列してゐる勧工場に於ての取引のやうな関係とも見ることが出来るのである。/なほ倉庫券を有するものゝ便益なるは、之によつて、最も簡単に僅の日数と雖も銀行との金融を成し得る事である、且は所有物の保管のために、土蔵を見卓志、貯蔵庫を設くる等の事なく、至つし(ママ)経済的となる。而も倉庫の蔵敷料の如きは至つて、僅少なるものである。倉庫は設備完全なるが故に、貯蔵に安全に寄託に確実である。加うるに保管物品に就ては、在庫中火災の責任を確保するから此点に於ては少しの懸念もない。
  
 当時、高田倉庫が倉入れ品(収蔵品)を担保にした倉庫券を発行し、金融機関との間でいつでも換金できる信用取り引きの仕組みを確立していた様子がうかがえる。また、実際のビジネスでは現金や小切手、手形などとともに、代価を価値に見あう倉庫券で支払うようなケースもあっただろう。
 目白駅に貨物駅が付随していれば、当然駅前には「物」を「流」通させる運送業が開店するのは必然だった。また、地上駅時代の目白駅前には、山手線の小荷物預り所があったため、それらを各事業所や家庭に配送する小口の運送業(今日の宅配便のようなもの)も欠かせない存在だった。
 古口運送店は、目白駅前で開業したあと、池袋駅前にも支店を出すほど急成長した運送企業だった。当初、地上駅時代は金久保沢の谷間にあたる目白駅前に本店があったが、1922年(大正11)に橋上駅が竣工し、目白橋の西詰めに小さな駅前広場ができると、その西並びへ本店社屋を移転しているとみられる。同村誌には、高田倉庫と並んで大版の1ページ広告を掲載しており、古口運送店の繁盛していた様子がうかがえる。
古口運送店.jpg 目白駅前2.jpg
となみ屋商店.jpg
 同じく、全国からとどく食料品を扱うとなみ屋商店も、ほぼ同時期に目白駅前に開店している。古口運送店し同じく同村誌へ1ページ広告を出稿し、「食料品其他御進物諸品調進仕候」とキャッチフレーズを入れているので、いわゆる街中にある通常の食料品店ではなく、遠方からとどく地元では手に入れにくい、進物などにも使えるめずらしい食材も販売していた店舗のようだ。店舗の位置が「目白停車場際」とあるので、現在の豊坂Click!へと上る坂下あたりで営業していたものだろうか。
 そのほか、人が集まりやすい駅前近くには、医院や歯科医も開業している。広告に「目白駅上」と記載されている式部歯科医院は、目白駅の改札を出てから右手を見あげた土手上、すなわち当時は桜並木がつづく高田大通り(目白通り)沿いに開業していたのだろう。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」を確認すると、院長だった東京歯科医学士の式部秀夫邸を、目白通りをわたった高田村字大原1678番地に確認することができる。おそらく自宅で開業していたか、あるいは目白通り沿いの建物を借りて営業していたものだろう。
 もうひとつ、園芸店の富春園という店も開業している。目白駅前ではなく、「目白駅北二丁」と書かれているので、おそらく駅前から目白通りへと上り、道路をわたって山手線沿いに歩いた左手で営業していたとみられる。大正中期にブームになった、ダリヤの専門店をうたう広告を出しているが、園芸用の他の花々も扱っていた。急速に拓けつつあった、東京郊外の住宅地の造園用に、おもに海外の園芸植物を売っていたようだ。「ダリヤ及園芸植物種苗のカタログは各郵券四銭添へ申越次第御贈呈仕候」と書かれているので、種苗の通信販売なども手広くしていたようだ。
 ただし、7年後に作成された「高田町北部住宅明細図」には、同じく庭の植木を販売していたとみられる翠紅園は見つかるが富春園は見あたらないので、どこかへ移転しているのだろう。草花の種苗を育て、いつでも出荷できる状態にしておくには、かなり広い面積の栽培施設や苗床などが必要で、関東大震災Click!後の目白駅前の近くでは住宅が急激に押しよせ、郊外に点々と展開していた「東京牧場」Click!と同様、さらに余裕のある地域へと移転せざるをえなくなった可能性が高い。
 目白駅前に進出した初期の企業は、目白貨物駅へとどく荷を扱う物流の企業と、関連事業や店舗を支える金融機関がメインだった。そして、1921年(大正10)ごろから具体的な計画がスタートする東京郊外の文化住宅街、すなわち目白駅西側に展開する下落合の近衛町Click!目白文化村Click!が形成されるころから、金久保沢の地上駅前と土手を上がった目白通り沿いには、多彩な企業や店舗が進出してくることになる。
富春園.jpg
式部歯科医院.jpg 目白駅前3.jpg
 『高田村誌』(1919年)は目白駅の今後も含め、高田地域の将来を的確に予言している。著者は、「もと商業地としての高田村でないから、取引輻輳商品集散の一大商業地として目せらるゝ如きは決して望み得らるゝ当地ではなからう」と書いた。それからおよそ100年後の今日、一大商業エリアであり日本最大のターミナルとしての新宿駅と池袋駅とに挟まれた目白駅は、相対的に地味な存在となっている。その効用というべきだろうか、乗り換えの鉄道もなく「一大商業地」には及びもつかないが、新宿区北部(下落合地域)あるいは豊島区南部(目白・高田地域)に位置し新宿都心にもほど近い、便利で良好な住環境を比較的よく保っているようには見える。

◆写真上:1922年(大正11)まで、2代・目白駅(地上駅)があった南側の現状。
◆写真中上は、1900年(明治33)に東京市役所の東京市区改正委員会が作成した目白駅から巣鴨へと抜ける予定の豊島線図面。巣鴨監獄(現・サンシャインシティ)と雑司ヶ谷墓地の間を抜ける計画予定線だが、途中に雑司ヶ谷駅が想定されている。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる旧・目白駅前あたりの様子。は、目白駅前で営業していた高田倉庫が出稿した媒体広告。
◆写真中下上左は、同じく目白駅前にあった古口運送店が制作した媒体広告。上右は、おそらく目白駅(地上駅)前から橋上駅化された目白駅改札(駅前広場)の西並び、目白通り沿いへ移転した1926年(大正15)現在の古口運送店。は、目白駅(地上駅)前にあった贈答品レベルの食料品を扱うとなみ屋商店の媒体広告。
◆写真下は、ダリヤを中心に庭園用の種苗を販売していた富春園の媒体広告。下左は、目白通り沿いに開業していた式部歯科医院の広告。下右は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる式部秀夫邸。
1974年(昭和49)の当時、下落合から能登へと向かうには、山手線・目白駅から上野駅へ出て北陸行きの特急に乗る必要があった。今日のように北陸・上越新幹線、ましてや深夜バスなど存在しない時代なので、いつも下落合から地下鉄のある高田馬場駅を利用していた吉良家の人々も、スーツケースを下げて目白駅まで歩いたのだろう。同年3月16日放映の、第24話「能登路の姉妹」より。

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