1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!以降、B29による市街地の絨毯爆撃をかわすため、川辺に棲息して光を放つホタルまで殺せと灯火管制下の軍当局、あるいは自治体か地域の防護団Click!が命じたという話を聞いたことがある。おそらく、もはやホタルなど飛び交っていそうもない(城)下町Click!の話ではなく、東京大空襲を目のあたりにして「明日はわが身だ」と予想Click!するようになった東京郊外、または東京の外周域での話だろうか?……と、長い間、疑問に思ってきた。あるいは戦時の混乱期に生まれた、どこか皮肉や揶揄をこめた東京の「都市伝説」のひとつかとも考えた。
少し考えてみれば自明のことだが、米軍の数百機を数えるB29の大編隊が、地上のホタルが放つかすかな明かりを探しまわり、それを頼りに爆撃を行うことなどありえない。それは、前年の秋からはじまっていた夜間空襲の模様や経験を踏まえれば、すでに明らかになっていたはずだ。昼間と見まごうほどの、大量の照明弾を投下して街を明々と照らしだし、爆撃の照準器が通常の目視で使えるほどの明るさを確保してから、爆弾や焼夷弾を目標に向けて正確に投下している。
また、そもそもホタルが乱舞するような環境に、重要な都市機能や軍事目標など存在しそうもないことは、地上にいるふつうの感覚の人間なら判断しえただろう。B29の「合理的」な空襲をすでにいくたびか経験していながら、川辺のホタルが灯火管制の邪魔になると、本気で考えていた軍当局や自治体、防護団があったとすれば、もはやアタマの中が錯乱状態で、まともな判断すらできなくなっていたとしか思えない。
きょうは東京大空襲から71年目の3月10日なので、当時の空襲下にいた東京人の日記を引用してみたい。今回は、いつもの下町ではなく、乃手に住んでいた『断腸亭日乗』でおなじみの永井荷風Click!だ。永井荷風は空襲当時、麻布区市兵衛町1丁目6番地(現・六本木)の「偏奇館」と名づけた自宅に住んでおり、わたしの義父の家とは非常に近かったので、ほとんど同じ情景を目撃していただろう。ちなみに、永井荷風は3月10日の空襲を、前日9日の日記に記載している。
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天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞い紛々として庭上に落つ。余は四方を顧望し到底禍を免るること能わざるべきを思い、早くも立迷う烟の中を表通に走出で(中略) 余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。(中略) 余は五、六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能わず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。(カッコ内引用者註)
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義父は、4年前に退役していた麻布1連隊Click!(第1師団第1連隊)に戦時動員されており、このあと東京大空襲で負傷した(城)下町の人々をトラックに積んで、いまだ空襲を受けていなかった下落合の聖母病院Click!まで、ピストン輸送することになる。義父と下落合とのつながりができたのは、この大空襲のとき以来だ。
永井荷風は後日、「偏奇館」の焼け跡を避難先から訪ねているが、自宅跡に陸軍が大きな穴を掘っているのを目撃する。現場の作業員に訪ねると、空襲で焼けた民間の土地は軍が接収して随意使用することを伝えられた。この瞬間から、荷風の国家に対する不服従、冷淡な無関心がはじまっている。「軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨置くより外に道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」と日記に書きしるしている。
さて、話を空襲下に流れたホタル殺しの「都市伝説」にもどそう。これが「伝説」などではなく、事実だと知ったのは、昨年(2015年)の暮れに亡くなった野坂昭如Click!の文章を読み返していたときだ。野坂昭如は、1945年(昭和20)6月5日の神戸空襲で被災している。空襲の様子を、2002年(平成14)に日本放送出版協会から発行された野坂昭如・編著『「終戦日記」を読む』から引用してみよう。
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背後に強烈な炸裂音。次に気づいた時、その家の庭に突っ伏していた。もはや他家の火を消すゆとりはなく、戻ろうとして、うちの屋根や庭木に点々と火の色。焼夷弾そのものは爆発しない、ただ火が撒き散らされる、筒から火のついた油脂が流れでるだけだ。B29は、焼夷弾と同時に、人間殺傷用の小型爆弾を落とし、これが、玄関を直撃したらしい。/この後の記憶がとぎれとぎれ、ただ家の前をうろうろするばかり。養父のいた玄関を目にしたはずだが、何を見たのか覚えていない。家の中は真っ赤な炎。「お父さーん、お母さーん」。二度叫んだが、返事がない。家並みは、黒煙で、夕暮れより暗い。ぼくは山へ向かって一目散に走った。
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神戸空襲の場合、山へ逃げればまだ爆弾や焼夷弾は避けられたようだが、全体が市街地で山や緑もない、また下町の街々を囲むように外周を爆撃して火災で包囲し、住民の逃げ場をなくしてから焼夷弾やガソリンを内側へまき散らした東京大空襲に比べれば、まだ退避にはいくばくかの余裕があったようにも思える。
空襲が終わったあと、B29がまいていった時限爆弾がときおり炸裂する音が鳴り響く中、家族が離ればなれになったときに約束していた落ち合う場所へたどり着くが、もはや家族は誰もおらず、近くの国民学校で全身火傷の養母と負傷した妹にようやく再会している。ホタル殺しが記録されたのは、重傷の養母と妹を抱え、その看病に明け暮れていたときだ。再び、同書から引用してみよう。
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ぼくと妹は、西宮、甲山に近い養父の知人の家に世話になることになった。毎日二食、母の食事を作ってもらい、山から海まで夙川沿い、約六キロを、朝夕運んだ。弁当箱へ入れた野草沢山の雑炊。/近くに市の貯水地(ママ)があり、ここから流れる小さな川のあたり、一面、ホタルだらけだった。ホタルを目標に爆弾を落とされるから、ホタルをすべて殺すべしという回覧板がまわったらしい。寄寓先のお宅で、気まずい思いをしたり、病院の行き帰り艦載機による機銃掃射を受けたり、二つ年上の女性に想いを寄せたり、空襲までの日々と、まるで違う明け暮れのなかで、灯火管制でまっ暗、夜の底が明るければ、まず空襲による火災の熾(おき)。まったく異なる深い闇にホタルの、小川沿いびっしり光を点滅させる光景は忘れられない。妹を背負い、よく見入っていた。以後、ぼくは唱歌「蛍の光」を唄えない。(カッコ内引用者註)
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野坂昭如のホタルに対する特別な想いは、空襲やその後の生活で脳裏に焼きついた悲惨な光景と、川辺に展開する美しく印象深い夜景とが、単純にセットになってイメージづけられたものではないことがわかる。
そこには「ホタル殺し」という、冷静で正常な思考回路では明らかに狂気の沙汰としか思えないような行為が、戦時の錯乱した状況ではなんの疑念も抱かれず、なんら理不尽さ不可解さもおぼえずに「ホタルを全滅」させることに狂奔していく、回覧板をまわした隣組(町会)や自治体、ひいては軍部のパニックで狂気じみたアタマの象徴として、暗黒の灯火管制下に「ホタルの光」が存在していた……ということなのだ。
東京大空襲のあと、東京近辺で囁かれていたらしい伝聞なので、おそらく3ヶ月後の神戸空襲がよもや「ホタル殺し」の発祥地ではないだろう。東京地域か、あるいはその周辺域かはわからないが、B29の空襲に際して「ホタルの光が灯火管制の邪魔になり、爆撃の目標になる」などというようなタワゴト(デマ)をいいだした地域が、あるいはパニックを起こした組織がはたしてどこだったのか、わたしは非常に知りたいと思っている。
◆写真上:パラシュートつきの照明弾で真昼のように照らされる、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!下の新宿駅周辺。写真中央で光りながら落ちていくのはM69焼夷弾で、壊滅直前の新宿駅とその周辺域をB29からとらえたもの。
◆写真中上:250キロ爆弾や焼夷弾が着弾寸前の、新宿駅東口に拡がる街並み。
◆写真中下:同じく、壊滅直前の新宿駅西口と淀橋浄水場界隈。新宿駅の周辺には、市立大久保病院や武蔵野病院、淀橋病院など規模の大きな病院施設が集中している点に留意したい。「米軍は病院への空襲を避けた」というデマが、戦後、おそらく米軍への反感を低減するために対日世論工作の一環で流されたと思われるのだが、米国公文書館で情報公開された新宿地域への絨毯爆撃の写真が、事実を明白に物語っている。
◆写真下:1945年(昭和20)5月17日に、B29偵察機から斜めフカンで撮影された下落合と周辺域。4月13日夜半の空襲で、鉄道駅や幹線道路沿いの被爆が見てとれる。