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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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佐伯のスケッチは大阪の淀川周辺では?

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正連寺川帆船.jpg
 わたしが以前から不可解に感じる、佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!とされているスケッチが何枚かある。冒頭の画面がその1枚なのだが、わたしは下落合の旧・神田上水(現・神田川)に帆掛け舟が通っていたのを、これまで古老たちの証言でも聞いたことがないし、資料でも見かけたことがない。これは、「下落合風景」ではないだろう。
 そもそも、大正当時の旧・神田上水は江戸期のままで底が浅く、深く掘削されてはいない。現在の神田川Click!のように、川底が洪水対策でかなり深く浚渫されたのは佐伯の死後、川筋の直線化・整流化工事が進んだ1935年(昭和10)前後のことだ。しかも、上掲のスケッチを見てすぐにお気づきだと思うのだが、こんな帆を張る舟が旧・神田上水を通っていたら、川の随所に架かっていた橋をどうやってくぐったのだろうか? たとえば、下落合地域だけ見ても宮貝橋(のち宮田橋)Click!にひっかかり、田島橋Click!で鉄筋の橋脚にひっかかり、果ては山手線の神田川鉄橋Click!の急流でもみくちゃにされながら勢いがつき、神高橋Click!へ帆柱ごと激突していただろう。
 同時に、旧・神田上水の水深も大きな問題として浮上する。現代でさえ、カヌーで同河川を下ろうとすると、随所でガリガリと船底を擦ってしまうほど水深が浅いのだ。雨の少ない冬や、夏の渇水期にはさらに水量が減るので、少なくとも飯田橋の舩河原橋から上流は、とても荷積みをともなう帆掛け舟など通行できないだろう。
 帆掛け舟が通うのは、港湾の近くにある橋がほとんど架からない河川か、または当初から水運用に拓かれた、ある程度の水深が確保され、たとえば橋げたを相当に高くして舟がくぐれるようにした、文字どおり高橋(たかばし)Click!が架かる小名木川のような物流目的の運河だ。下落合を流れている旧・神田上水には、そのような仕様も設備も施されていない。同様に、下落合(現・中落合/中井エリア)を流れていた妙正寺川は、大正期には跳び越えてわたれるほどの“小川”であり、また途中にはバッケ堰Click!の存在や寺斉橋Click!西ノ橋Click!など小さな橋がいくつか架かっていて、とても帆掛け舟などは通れない。
 当時の神田川流域で、舟が比較的多く往来していたのは、大洗堰Click!から舩河原橋Click!までの江戸川Click!(現・神田川)と、飯田橋の揚場町から柳橋Click!も近い神田川の下流域だ。江戸川の舟は花見舟や涼み舟が主体であり、大川(隅田川)への出口が近くなるほど荷運び舟や川遊びの舟の数が増えていった。しかも、途中で橋が随所に架かっているため、帆掛け舟ではなく喫水の浅い猪牙舟や平舟、家舟、屋形舟などの舟種がほとんどだった。
 幕末の『東都歳時記』には、神田川でもっとも大きな舟は「神田一丸」という舟だったことが記録されているが、荷運び用の舟ではなく帆のない屋形船だった。しかも、「神田一丸」は大川(隅田川)が近く水深も深い柳橋界隈の舟で、今日のような大型のモーター船ではなく、少し大きめな数名の船頭が操る屋形舟だったのだろう。
安治川1877.jpg
正連寺川淀川.jpg
 さらに、現代では高い建物が増えて忘れられがちだが、旧・神田上水はおもに南北を急峻なバッケClick!(崖地)や河岸段丘の緩急斜面に挟まれて流れており、ゆるやかなU字型、ときにV字型地形の下、つまり谷底を流れているのであって、スケッチに描かれたような平地を流れているのではないということだ。崖や丘ひとつ見えない同作は、明らかに落合地域の風情ではない。このような平地を流れる川は、港湾の近くでよく見られる風景だろう。また同作が、佐伯アトリエClick!竣工Click!したばかりの1921年(大正10)ごろに描かれたにしろ、第1次滞仏からもどった1926年(大正15)ごろに制作されたにせよ、これだけの広いスペースに建物が1軒も存在しないエリアなど、落合地域にも戸塚地域にも、また高田地域にも存在しないということだ。
 もうひとつ、冒頭のスケッチには同時期に描かれたとみられる作品が、何点か存在している。その中に、座ってキセルで一服している農婦たちを描いたと思われる河畔の向こうに、本流と思われる大きな川が描かれた風景作品が残っている。このような風景は、もちろん落合地域には存在しないし、たとえ東京地方であっても大川(隅田川)のさらに東側、旧・中川か荒川の流域まで出かけなければ、大正期にはこのような風景は展開していなかったはずだ。佐伯が、そのような方面にまでスケッチに出かけたとは、まったく記録に残っていないので、わたしはおそらく東京の風景ではないと考えている。
 佐伯の実家は、大阪市の大きな淀川べりにある北区中津の光徳寺だが、大正期の淀川を南西へたどって歩いていった下流域には、さすがに水運都市らしく淀川を中心に、古くから大小の運河が開拓されている。わたしは当初、佐伯が『滞船』Click!を描きに出かけた、市街地から大阪湾へと流れる安治川を疑ったのだが、さすがに大正末ともなれば、安治川の下流域や河口近くはこれほど鄙びてはいなかっただろう。
安治川河口192706_1.jpg
安治川河口192706_2.jpg
淀川沿い1.jpg
 むしろ、大きな淀川が遠望できる、佐伯の実家から歩いて3~5kmほど下流域にある、現在では半分ほどが埋められてしまった安治川へと抜ける六軒家川、淀川と並行して流れほどなく大阪湾へと注ぐ、ほぼ全域が埋め立てられてしまった正連寺川、正連寺川から分岐して淀川へと抜ける、やはり全域が埋め立てられた伝法川などの周辺が、一連のスケッチのモチーフになっているのではないかとにらんでいる。
 中でも、わたしは手前の川筋と遠景の川筋が並行に近い様子、そして手前の川と遠景の大きめな川との間の距離感から、佐伯の中津にある実家から淀川べりを4kmほど下流に歩いた、すでに埋め立てられて久しい正連寺川沿いの農村風景ではないかと想像している。冒頭画面の帆掛け舟は、正連寺川を川上(東)へ、あるいは淀川から伝法川を経て正連寺川へと抜ける荷運び舟の1艘を描いたものではないか。
 第1次渡仏前か、あるいはフランスから帰国したあと、佐伯は大阪の実家へもどった際、スケッチブックを片手に淀川べりをブラブラと下流域へ歩いていったのだろう。佐伯がフランスで見せた、モチーフ探しの貪欲さを考慮すれば、4kmほどの道のりはたいしたことなかったにちがいない。また、ここは彼の地元であり故郷の大阪なので土地勘も十分にあり、子どものころから淀川べりを歩きなれていた可能性さえある。
 煙突からモクモクと煙を吐きだす工場が、大阪湾岸沿いにポツポツ建ちはじめた淀川べりをブラブラ歩きながら、手前で黙々と農作業をする人々との対比を面白く感じた佐伯は、正連寺川の土手に上って大正期の淀川河口域に広がる風景を、東京近郊の風景とはまたちがった感興から、スケッチブックに描きとめたのではないだろうか。
淀川沿い2.jpg
大阪市淀川べり1948.jpg
 余談だが、昨年(2015年)の秋に放映された「開運・なんでも鑑定団」で、同様のスケッチが出品Click!されていた。その中で、美術の鑑定家が「下落合風景」だと断定していたのだが、その根拠が「現在下落合には佐伯祐三の記念館があり、下落合で描いたスケッチやデッサンが何点か展示されている。依頼品のような風景のスケッチもある」(同番組サイトの記述ママ)とされているのだが、わたしは明らかにまちがいだと思う。

◆写真上:佐伯祐三が描いた帆掛け舟が通う田園地帯だが、「下落合風景」ではない。
◆写真中上は、1877年(明治10)に撮影された安治川河口。貨物船が数多く係留され、すでに大きく拓けている様子がわかる。は、遠景に大きな川が流れ手前にも川が流れる同時期で同地域とみられる一連のスケッチ。
◆写真中下は、佐伯と同時代の1927年(昭和2)6月に撮影された「アサヒグラフ」掲載の安治川河口。佐伯が描いた『滞船』が、数多く停泊している様子がわかる。は、他のスケッチと同時期に描かれたとみられる農夫。
◆写真下は、やはり同時期の同じ地域の農婦を描いたと思われるスケッチ。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる淀川と周辺の河川(運河)。もちろん、大正当時に比べ川幅は大きく拡幅され流域全体が整備されているだろう。


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