敗戦の翌年である1946年(昭和21)、空襲で焼け野原になった住宅不足を補うため、山手線の西側、上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)をはさんで下落合の真南に拡がる戸山ヶ原Click!に、すなわち敗戦までは陸軍技術本部Click!(陸軍学研究所Click!)があった敷地の北側に、6畳ひと間の小さなバラック住宅や長屋が次々と建てられた。まるでマッチ箱のような粗末な家だが、そこへ入居できたことさえ幸福な時代だった。
ある日、土ぼこりが舞う戸山ヶ原を「乞食」のような格好をし、折れた松葉杖をついて歩く夫婦者の姿があった。中央線・大久保駅から歩いてきた男の松葉杖は、下部でポッキリと折れており、折れた杖をそのまま継ぎ足し縄でグルグル巻きにして修繕していた。通りかかった元・陸軍兵士で傷痍軍人だった男は、あまりのみすぼらしさに自分が使っていた松葉杖をその男に譲ってやった。「乞食」のような男の足は、糖尿病による壊疽を起しており、歩行時の激痛をやわらげるために松葉杖が欠かせなかった。
このときから、10年ほど時代をさかのぼらせた1935年(昭和10)の春、ひとりの男が新宿駅にやってきた。帝劇オペラ部の出身だった彼は、佐々木千里が主宰する新宿ムーラン・ルージュの舞台に立つため、新宿駅の南側に建っていた赤い電飾の風車がまわる建物に入っていった。男の名は、三ヶ島一郎といった。1977年(昭和52)に出版された三ヶ島糸『奇人でけっこう』(文化出版局)から、伊馬春部のまえがきから引用してみよう。
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ムーラン・ルージュにはいって来たのが、昭和十年三月、経営者の佐々木千里は、すぐさま、左卜全なる芸名を名のらせたが、佐々木さんのセンスは的をはずれていなかった。たぐい稀なる個性にぴったりの芸名であった。左さんはあっというまにムーラン・ルージュの特異な存在となった。それには、われわれ文芸部仲間の小崎正房によるキャラクター発掘の努力が、どれほど並並ならぬものであったか計りしれないものがあるが、それが後年の映画俳優としての数々の名演技にもつながるのである。/入座当時の卜全さんについては、三ヶ島なにがしと名のる、松旭斎天華一座にいた人といった知識しか私にはなかったが、のち、女流歌人の三ヶ島葭子女子がその令姉だとわかって、私はとくべつのまなこでもって左さんに接したことを思い出すが、そもそもの芸能人としての出発は、ローシー指導するところの帝劇オペラであったこと、そしてのち、大阪で新派役者として修行時代のあったことなど、この書ではじめて教えられたところであった。
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「左卜全」という芸名は、左甚五郎の「左」に塚原卜伝の「卜」、丹下左膳の「膳」を「全」に変えた命名だという伝説があるが定かでない。確かに、三ヶ島一郎には日本刀の趣味があり、後年、木刀や剣の素振りを庭でよくしていたようだ。
新宿ムーラン・ルージュでの左卜全は、自身に合う役柄がなかなかつきにくく、また変わった性格から劇団員に誤解されることも多く、彼の生涯を通じていちばん苦しい時代だったようだ。当時の様子を、本人の証言(同書)から引用してみよう。
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僕はムーランにはいってから、随分、みんなに苛められた。それまでは地方回りとは云え、大舞台の芝居ばかりしていたのに、いきなり、池ならまだしも、小さな水溜りで、こちょこちょ泳ぐような、ちっぽけな劇場で芝居をするのでは、身も心も芸も、動きがとれなかった。僕の芝居も他人とは合わなかったし、持前の性格で、誰一人とも協調しなかったから……みんなは僕を追い出そうとかかった。(中略) その僕の個性を見極めて、僕に当てはめた脚本を次々と書き、僕の芝居を作ってくれたのが、作者の小崎正房氏だった。小崎氏は、もと大都映画の二枚目俳優だった。/小崎氏の書いたいい脚本の為に、僕は三年目になると、狭い舞台でも障りなく、大きく、自由自在に、自分の思いのままの芝居が出来るようになった。/やがて、ムーランでの僕の時代が出現した。
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『奇人でけっこう』の表示題字を書いた森繁久彌Click!は、夫人とともにボロボロの衣服で松葉杖をつき、高価な葉巻きをくゆらせながらスタジオへ現れる左卜全の性格を「左さんは、非常にケチな面と非常に無駄使いの面があるねえ」と評している。
だが、左卜全のとぼけて飄々とした姿は、演技のみならず外で他者と接するときの「虚」の姿であることを、周囲にいた多くの人たちは気づかなかった。「実」の彼は、キャパシティの広い糸夫人でさえ辟易するほどの、真摯な哲学者であり思想家・宗教家だったのだ。演技ではオバカで奇妙な老人を装い、おかしな口調やとぼけたしぐさで人を笑わせる芸が多かったが、遠くを見つめるような眼差しは呆けてはおらず光っている。彼の実像を見抜いていた人物は少なく、そのとっつきにくい性格から親しい友人ができずに、唯一の例外は帝劇時代にいっしょだった、岸田劉生Click!の実弟である岸田辰也だけだったという。このあたり、どこか喜劇俳優の渥美清Click!とか、芝居でいえば一条大蔵卿Click!のような人物像に似ているだろうか。
岸田劉生つながりだったせいか、左卜全は絵が好きだった。夫人同伴で銀座の画廊や骨董店を見てまわり、そのあとでコーヒーを飲むのが休日の恒例だったらしい。オペラ歌手や俳優にならなかったら、自分は画家になっていただろうと記者のインタビューに答えている。1966年(昭和41)に発行された、『月刊時事』1月号から引用してみよう。
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ダンスが得意でしたが、それよりもっと絵が好きでした。絵筆をもっていたら、貧乏かも知れないが、今頃はその道で名を売っていたかも知れないですね。/昼でも夜でも、自然の風景が気に入れば、何時間でも平気で見つめていられるくらいだから、眼も耳も人並み以上にいいと自負しています。/他人が何でもないものがわたしには分かるし、景色の色彩も人以上にわかる。異常に感受性が鋭い、家の系統は芸術的というより気違いじみているんでしょう。/青年時代の死ぬ以上の哲学的苦悩で、わたしの頭は今でもメチャクチャになっている。でも、やっと世帯を持ってから落ち着いていますがね。人とは次元が違うかも知れません。偉いっていうんじゃあないですよ。ろくでもないんです。
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若いころ、左卜全は中村不折Click!のモデルをつとめている。首から肩にかけての線が気に入られたらしく、戦場へ向かう若い武者が草鞋をはく仕草を描いた『黎明』のモデルだ。大正初期のことで、『黎明』は1916年(大正5)の第10回文展へ出品されている。モデル代として、彼は中村邸でマスカットをたらふくご馳走になったという。
もともと三ヶ島家は神官の出で、小手指で生まれた左卜全はすぐに麻布へと転居し、幼少時代を乃手Click!ですごしている。そのせいか、彼の根底には人間は自然から生まれ自然に帰るという、アニミズムを基盤とした神道思想が期せずして形成されていたのだろう。戸山ヶ原から庭つきの世田谷の家へ移ると、庭の手入れをする夫人(自分はなにもしないのだが)に雑草を抜いてはならぬと指示している。雑草ばかりでなく、草花にたかる害虫さえ殺すことを許さなかった。野草が好きで、ことに“都わすれ”が好みだったようだ。
毎朝、庭に咲く野花を1輪つんではそれを眺め、夫婦でゆっくり3杯の茶を飲んでから、ふたりで仕事に出かけるのが習慣だった。仕事がないときも、たいがい夫人同伴で東京じゅうを散歩していたらしい。彼が夫人にぼそりと語った、「花屋の花には人間の欲がついている、美人には人の見垢がついている」は至言だろう。左卜全の足先の壊疽は、夫人による食事療法のせいか年々痛みが薄らぎ、昭和30年代に入ると完治している。
再び、糸夫人が書いた『奇人で結構』から引用してみよう。
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夫は、穏やかな反面、また激しかった。時には仙人の如くはあっても、また一面、強い煩悩の人でもあった。王侯貴族のように気位は高くとも、ルンペン乞食のような低さの堕落もあった。(中略) 家庭では思考思索、瞑想の人だった。そんな夫に私は聞いた。/「何をそんなにお考えになってらっしゃるのですか」/「宇宙のあらゆること、小は糞をたれることから、無限の神秘まで、森羅万象……」/ああ、普通の女にこんな生活が耐えられるだろうか。/「昔、俺のことを好きだと云って、多くの女が後から後から寄ってきたよ。だが、一皮うちを見ると、どいつもこいつも向こうから去っていった。女とは現実的なもの、薄情なものだ」
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左卜全が広く知られるようになったのは、1950年(昭和25)に東宝で黒澤明Click!監督の『醜聞』に出演以降、黒澤作品には不可欠なバイプレイヤーになってからだ。
左卜全は1970年(昭和45)、Polydorへ左卜全とひまわりキティーズの『老人と子供のポルカ』Click!を吹きこみ、24万枚の大ヒットを記録している。わたしの子どもたちが、「♪ズビズバ~パパパヤ~ やめてけれやめてけれ…」と同曲を3番まで歌えるのは、わたしが風呂場で教えたせいだが、子どものころリズムにワンテンポ遅れて唄うわけのわからない、呆けたような老人の歌を聴いたとき、やはり異様に感じたものだ。だが、それは彼が装う外面=「虚」の姿であり、「実」は精神的に研ぎ澄まされた厳しい言葉を繰りだし、常に緊張感を強いられたであろう糸夫人の存在など、当時は知るよしもなかった。
1971年(昭和46)、前作の大ヒットに味をしめたPolydorは、第2弾として左卜全とひまわりキティーズの『拝啓天照さん』を録音している。渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』(1963年/松竹)を、どこかもじったようなタイトルなのだが、同曲は発売されずにお蔵入りとなった。同年5月、左卜全が癌で死去したからだ。どこかの倉庫に、いまだマザーテープが残っているとすれば、ちょっと聴いてみたい気もするのだが……。
◆写真上:1941年(昭和16)に制作された堀潔『新宿武蔵野館』で、左手の奥に描かれた赤い風車のある建物が「新宿ムーラン・ルージュ」劇場。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸山ヶ原のバラック住宅群。下は、1936年(昭和11)制作の松本竣介Click!『風景』にみる新宿ムーラン・ルージュ。下は、堀潔Click!『新宿武蔵野館』とほぼ同じ位置から眺めたムーランルージュ跡方向(上)。ムーランルージュ跡は再開発中(中・下)で、新たなビルが建設中だ。
◆写真中下:上は、新宿ムーラン・ルージュの舞台で明日待子(中央)と左卜全(右端)。中左は、1932年(昭和7)制作の木村荘八Click!『東京今昔帖』にみる新宿ムーラン・ルージュ。中右は、1977年(昭和52)に出版された三ヶ島糸『奇人でけっこう』(文化出版局)で題字は森繁久彌。下は、厳しく激しい記述が多い「左卜全日記」。
◆写真下:上左は、1916年(大正5)制作の第10回文展に出品された中村不折『黎明』のデッサンでモデルは三ヶ島一郎(左卜全)。上右は、下谷区上根岸にあった中村不折邸で正岡子規庵の斜向かいだ。中は、自宅でくつろぐ左卜全と黒澤明『七人の侍』出演中の卜全。下は、冬の高村光太郎Click!山荘で一服する左卜全と糸夫人。