ふだん“ベストセラー”とうたわれる本は、たいがい読むとガッカリして後悔するケースが多いのであまり手にしないが、昨年(2015年)の秋に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)は、子どものころから数えておそらくゆうに50回以上は訪れている街がテーマなので、ついネットで注文してしまった。
もっとも、大人になってから訪れた回数は少なく、最近では一昨年に旅行と出張で二度ほど出かけているだけで、しかも仕事では打ち合わせのみのわずか3時間ほど滞在しただけだった。したがって、この街を訪れたのは子どものころから学生時代までが圧倒的に多い。それは、建築土木畑Click!出身の親父が仏教彫刻や建築に興味があったせいだが、同時に奈良を訪れる機会も多かった。いや、むしろ彫刻では奈良のほうが圧倒的だろう。
京都の仏教彫刻には、著者が差別を受けて「京都ではない」とされる洛中以外の場所に、注目すべきいい作品が多い。著者の故郷である嵯峨(京都ではないそうだが)の、いわゆる清凉寺式の釈迦をはじめ、子ども心にも面白いと感じた宇治と日野の“定朝伝承”が残る阿弥陀如来の比較、鄙びて味わい深い大原の跪く観音・勢至など、「京都」ではない地域の仏像に興味を惹かれた憶えがある。
さて、著者が「洛中以外は京都ではない」と徹底した差別を受けてきた本書の内容は、わたしにとってはめずらしかった。そんなに根強い差別意識がいまだに残る街だとは正直、外から眺めていただけではわからなかった。「洛中=京都」であり、そのエリアが尊くて特別に貴重であるためには、「尊くなくて貴重じゃない」エリアを相対的な概念としてつくらなければならない。なにやら、尊い人々をつくるためには尊くない、卑しい人々を形成しなければならず、特別に尊い人々をつくるためには、特別に卑しい人々を設定しなければならない……という、シンプルで概念的な(政治制度的でなく)階級形成にもとづく「天皇制」論を思い出してしまった。事実、嵯峨よりも外側の人々を洛中=京都からさらに遠く離れた田舎だと、著者の地域では差別していたフシもうかがえる。
たとえば、これを江戸東京に置き換えてみると、どうだろうか? わたしは、ここの記事で江戸前期の江戸時代の市街地と、江戸後期の大江戸Click!(おえど)時代の朱引墨引の市街地とを意図的に規定して記述している。また、明治以降の東京15区エリアと、1932年(昭和7)以降の東京35区も意識的に区別して記述している。でも、それは歴史を正確に表現するうえでの境界規定上の区別であって、別に大江戸時代の市街地以外は「江戸」でも「東京」でもないなどと思って書いているわけではない。
わたしはいま、江戸期の市街地から遠く離れ、かろうじて神田上水(現・神田川)がかよう大江戸Click!期の境界規定でいえば、朱引墨引の境界線内ギリギリのところに住んでいる。1964年(昭和39)の東京オリンピックで、防災インフラの破壊Click!を含め“町殺し”Click!が徹底して行なわれた大江戸の日本橋エリアより、江戸期には「場末」(当時は「郊外」というほどの意味)と呼ばれたエリアのほうが、よほど緑が多くステキな土地柄で住みやすいからだ。ここに住んで37年になるが、日本橋にしろ神田にしろ、尾張町(銀座)にしろ、別に「落合人」を蔑んだり差別したりはしない。
ただし、親の世代以前ではオリンピックで破壊された街を離れる際、山手線の西側=日枝権現社の氏子町のさらに外側へ転居することを、「郊外へ引(し)っ越す」といっていた。山手線の西側エリアのことを、「東京郊外」だとする意識は、そのエリアを差別しているというよりも、明治期以来の東京15区+外周の郊外(武蔵野Click!)意識の名残りが、60年代まで(城)下町の地元でつづいていたのと、日本橋をこよなく愛する気持ち=郷土愛のほうが強く、その裏返しの自虐的な意識をこめた揶揄だったのだろう。『京都ぎらい』の著者が描く、洛中と洛外のような「いけず」で性悪で、陰湿で執拗な差別意識ではなかったように感じている。
ちょっと余談だけれど、著者がいう京都=洛中(著者によれば敵地w)を歩いているとき、一度だけ親父が明らかにイラついた表情を見せたことがあった。当時、創業250年を超える漬物屋(現在は300年近いだろう)で、“からし茄子”を購入しているときだった。京都の老舗へやってきた東京人ということで、創業から製品の史的工夫までをクドクドと15分ほどかけて亭主が長話したときのことだ。「たかが漬物(つけもん)で、なに大層なご託を並べてんだい」と、親父の顔には書いてあった。江戸期から営業をつづける店舗や企業が、軒なみ建ち並ぶ日本橋Click!で育った親父にしてみれば、「創業250年で、なにをもったいぶってやがる」という反感をおぼえたのだろう。
執拗でクドいのはわたしも苦手だが、確かに商売人が、たかが漬物で顧客の(しかも旅行者の)足を止めるものではない。そういう“気づき”や“気づかい”がなく、とても客商売らしくない傲慢な点、わたしもどうしようもなく野暮で洗練されていない店だと思う。著者がいう、「東京」のマスメディアにかつがれ、おだてられて勘ちがい(心得ちがい)をしている、わきまえない漬物屋のひとつだったものだろうか。
さて、本書を読んでいてゴリッとひっかかり違和感をおぼえた記述がある。もちろん、「七」の発音についてだ。同書から、当該箇所を引用してみよう。
▼
七七禁令では、「しち」もやむをえないと判断した。それ以降、私は歴史の用語もふくめ、東京へあわせるふんぎりをつけている。生涯を京都ですごした七条院も、後鳥羽天皇の母だが、「しちじょういん」でいい。七卿落ちの場合でも、みんな幕末の京都人だが、「しちきょうおち」にしておこう、と。/しかし、地名だけは、ゆずりたくない。私もふくめ、京都およびその周辺ですごす人々は、みな上七軒を「かみひちけん」とよぶ。誰も「かみしちけん」とは言わない。七条院の名を知らない人々も、地元にはおおぜいいる。しかし、上七軒は「かみひちけん」という音で、多くの人になじまれてきた。地名では譲歩をしたくないと思うゆえんである。/鎌倉の七里ヶ浜まで、「ひちりがはま」にしたいと言っているわけではない。あちらは、「しちりがはま」でかまわないと思っている。ただ、「かみしちけん」だけはかんべんしてくれと、そう言っているにすぎない。
▲
わたしは、子ども時代を湘南の海辺Click!ですごしているので、七里ヶ浜は「しちりがはま」と発音するのに抵抗感は少ないが、唱歌『鎌倉』を唄うときは「ひちりがはま」と発音する。「♪七里ヶ浜の磯伝い~」は、「♪ひちりがはまのいそづたい~」だ。同じように、7番の「♪歴史は長き七百年~」も、「♪れきしはながきひちひゃくねん~」だ。これは、親父が千代田小学校Click!で習った当時のまま唄っているのを聞き、そのまま憶えてしまったから、ついそう歌うクセがついてしまって抜けない。
千代田小学校の音楽教師は、「ひちりがはま」ではなく、「標準語」Click!を押しつけて「しちりがはま」だと訂正しなかったらしいところをみると、地付きの教師だったのだろう。江戸東京方言(とりあえず日本橋地域の方言で話を進めるが、近隣地域も同様だと思う)では、「…5、6、7、8」は、「…ごう、ろく、ひち、はち」で「しち」とは発音しない。
だから、「東京」Click!(方面から)の影響で、七条は「ひちじょう」が正しいにもかかわらず、「しちじょう」と無理やり呼ばされるようになってしまった……というようなニュアンスで書かれるのは、できればやめていただけないだろうか?
江戸東京方言でも、本来的にいえば七五三は「ひちごさん」だし、七軒町は「ひちけんちょう」、五七五七七は「ごうひちごうひちひち」、「七三分け」は「ひちさんわけ」が正しい。親の世代からこっち、学校で教える「標準語」の影響からか、七を「ひち」と呼ばなくなってしまった言葉には、七福神や七面鳥、七五調Click!などがあるけれど、質屋は「しちや」ではなく「ひちや」が正しいというように、いまだ明治期の教部省(のち文部省)がこしらえた得体の知れない「標準語」と対立している江戸東京方言は、発音に限らず言葉のイントネーションも含め、著者の故郷「京都」と同様に数が知れないほど多いのだ。
著者は、朝日新聞社の出版局が「七七禁令」の項目を、「ハ行」ではなく「サ行」の項目に加えたことを批判している。再び、同書から引用してみよう。
▼
ただ、当時の私は七七を「ひちひち」としてしか読まなかった。五十音順となる索引づくりにさいしても、最初はこれをハ行のならびにおいている。非常時、七七禁令、ヒトラーという順番で。/私のこしらえたこの索引案に、しかし東京の編集部は、強い拒絶反応をしめした。どうして、七七禁令を、非常時とヒトラーの間に、はさむのか。これは「しちしちきんれい」であり、とうぜんサ行のところに記載されるべきである。けっこうえらそうに、そう要求してきたのである。/七七を「ひちひち」とよびならわしてきた私は、もちろんあらがった。「しちしち」などという日本語は、ありえない。これは、あくまでももとどおりに、ハ行へならべられるべきである。はじめのうちは、東京の編集部にもそう言いかえした。
▲
「しちしち」などという「日本語」が「ありえない」かどうかは、日本語のすべての方言を押さえていないので知らないけれど、少なくともこの地域の(城)下町方言に立脚すれば、著者の地域と同様に江戸東京地方でもありえない。
でも、「標準語」では「しちしちきんれい」と読むのだから、「標準語」を意識的に社是あるいは表現規範として導入しているマスメディア(企業)なら、いたしかたないのだろう。編集部の担当者が江戸東京の出身者であれば、もう少していねいな対応をしてくれたのかもしれない。いわく、「わたしも、できればハ行に入れたいのですが、社の表現規定で“七”はサ行に入れなければならないんです」……と。
おそらく、江戸東京方言に疎かったらしい「えらそう」な編集担当者は、1920年代以降に東京へやってきた方(この年代の方の子どもが小学校へ上がるころから、授業における「標準語」の徹底化が実施されているようだ)の子孫か、あるいは戦後のより徹底した「標準語」教育を学校で受けてから(または、東京弁=「標準語」だという根本的な錯誤に気づかないまま)、東京地方へこられた方だろう。つまり、わたしとしては「東京」の新聞社ないしは出版社だから、そのせいで“七”がサ行に入れられるのではないことを、著者に了解してほしいのだ。
朝日新聞社が、古くは薩長政府の教部省(のち文部省)ないしは戦後の文部省(のち文部科学省)が推進する「標準語」にことさら忠実なだけで、同じ社内規定をもつ新聞社や出版社であれば、札幌だろうが大阪だろうが、福岡だろうが「七七禁令」はなんの疑問も抱かれず、サ行の索引に入れられてしまうだろう。当の文部省(文科省)があるのは「東京」なのだから、どこか江戸東京言葉らしきものを押しつけられているという印象(イメージ)が、ひょっとして著者にはあるのかもしれないが、江戸東京方言もまた「標準語」の被害者でありつづけている点に、深く留意していただければと思う。
著者が洛中とのこだわりで書く、洛外・嵯峨を起源とする「南朝」は56年つづいたが、13年間しかなかった豊臣政権を例外とすれば、薩長の大日本帝国は未曽有の犠牲者を生みながら、わずか77年(ひちじゅうひちねんw)で破産・滅亡した。日本史上では総じて短命な国家(室町期以前の「こっけ」概念含む)であり政治体制だが、その過程で「標準語」を推進してきたのは江戸東京地方でもなければ、地付きの江戸東京人でもない。
なるほど、地域言語の尊重に不熱心で地名(音)の保存にも無頓着な、著者が怒りをこめて書く「霞が関の役人」は、現在でも江戸東京地方にいるのだけれど、できれば苦情やお怒り、批判、非難、罵詈雑言のいくばくかは江戸東京の方角ではなく、その基盤となる怪しげな「標準語」なるものをこしらえた出身者たちが顕彰されている山口県と鹿児島県の方角へ、ほんの少しばかり向けていただければ、ありがたいのだが……。
◆写真上:江戸東京のカナメ、日本橋をくぐって真下から橋底をのぞく。2011年(平成23)に補修を完了した箇所や、石材を洗浄した跡が見えている。
◆写真中上:上左は、2015年(平成27)に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)。上右は、京都の町家(町屋)路地裏。中は、本書にも登場する徳川幕府が再興に全力で取り組んだ華頂山・知恩院。下は、御池大橋から眺めた鴨川の流れ。
◆写真中下:上は、大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)の橋底を真下から。中は、江戸東京の大動脈だった大川(隅田川)。下は、千代田城を本丸側から眺めた朝靄の富士見櫓。
◆写真下:上は、雪が降りしきるひっそりとした東山・八坂ノ塔。中は、松原橋から川上を眺めた鴨川右岸。下は、木屋町あたりにつづく町家※建築。
※いわずもがなだが、江戸東京では「まちや」は多くの場合「町家」と書いて、関西地域や「京都」をおだてる『家庭画報』あるいは『婦人画報』wなどで見うけられる「町屋」とは書かない。