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大正期からの神高橋はなぜ斜め?

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神高橋1.JPG

 学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが、現在では当時の橋桁が丸ごと存在せず、南詰めの位置が下流へ10mほどズレてしまった橋がある。高田馬場駅のすぐ北東側、山手線や西武新宿線の神田川鉄橋Click!と並んで架かる神高橋Click!だ。
 早稲田通りを明治通り方面から、山手線・高田馬場駅前の広場に差しかかり神田川をわたろうとすると、1990年代まで東映の映画館が入っていた稲門ビルの角を右折して北上しなければならない。ほどなく、100mほどで神高橋をわたることになるのだが、昔はこの橋を利用すると距離的にちょっと損した気分になった。西側の下落合へと抜けるには、橋をわたるとほんの少し東側へ逆もどりすることになるからだ。つまり、神高橋は西から東へ向けて、神田川の上へ斜(はす)に架かっていた。
 高田馬場駅から北上したクルマも人も、そのまま直進すると神田川の護岸コンクリート壁に衝突してしまうことになる。神高橋をわたるためには橋の手前、南詰めにあった小さな児童遊園(現・戸塚地域センター)の前で西へ左折し、すぐにハンドルを右に大きく切って神高橋へ侵入しなければならなかった。歩行者は、橋上に歩道がなかったため、急に背後から橋上へ侵入してくるクルマに注意しなければならず、夜間は街灯もなかったのでクルマと橋桁の間に挟まれないよう注意しなければならなかった。
 また、橋桁自体も人がわたるような風情に造られておらず、まるで電車の鉄橋のような、太い鉄骨とそれをとめる大きな鋲がむき出しのままの仕様だった。しかも、橋全体が濃い緑色に塗られており、ますます鉄道の鉄橋を思わせる趣きだった。橋をわたり終えると、角に自転車屋さんのある道路へと出て、そのまま十三間通りClick!(新目白通り)へと抜けられるのだが、ふり返ると神高橋が斜めに架かっているため、東へ10mほどあともどりしたようで、なんとなく損をした感じを受けるのだ。
 神高橋が、なぜ斜めに架けられていたのか、昔の地図や地籍図をたどれるだけたどって調べてみた。1885年(明治18)に日本鉄道によって品川・赤羽線Click!(現・山手線の一部)が敷設されると、神田上水を渡河する鉄橋が架橋されている。もちろん、当時の神田上水(1966年より神田川)は直線状に整流化されておらず、あちこちで大きく蛇行を繰り返す、江戸期からの川筋のままだった。1935年(昭和10)ごろからスタートした、旧・神田上水の蛇行を修正する整流化工事を実施する際、この山手線が通過する明治期のレンガ造りの鉄橋がひとつの“基準”となっている。つまり、旧・神田上水を直線化するために鉄橋を別の場所へ移動するわけにはいかないので、この鉄橋下を流れる川筋が、計画当初から工事後も変わらぬ川筋として想定されていたわけだ。
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地籍図1915.jpg
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神高橋1918.jpg

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神高橋1922.jpg

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神高橋1922修.jpg

 もうひとつ、1927年(昭和2)に開業した西武電鉄Click!も、翌1928年(昭和3)の省線・高田馬場駅への乗り入れ工事Click!の際は、山手線の鉄橋に近接してすぐ東側の旧・神田上水上へ鉄橋を架けている。このふたつの鉄橋位置を“基準”として、川筋の直線化・整流化工事の図面が引かれていることになる。だから、必然的に当時は西武線鉄橋の10mほど東側に、斜めに架けられていた神高橋もまた、架橋当時からその位置を変えていなかったことになる。昭和初期に整流化工事を終えた、現在の神田川をわたる橋で、橋名は同一でも当初から同じ位置に架かり、場所を移動していない橋の数はそう多くはない。
 なぜ、長々と山手線や西武線の鉄橋について触れたかというと、わたしが学生時代に目にしていた神高橋は、架橋当初から変わらず同じ位置へ斜めに架けられていたのであり、ある時期になんらかの事情で斜めになったのではない……ということなのだ。その要因は、大正期の道路事情によるものだが、もっと古い時代までたどるなら、すなわち山手線が走りはじめた明治期ぐらいまで時代をさかのぼると、戸塚村側(現・高田馬場2丁目)と高田村側(現・高田3丁目)に拡がっていた田畑の間をぬう畦道あるいは用水路の跡が、川を挟み南北で食いちがっていた……という点にまで帰着する。
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神高橋1947.jpg

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神高橋1974.jpg
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江戸東京重ね地図2001.jpg

 1915年(大正4)に作成された戸塚村地籍図を見ると、すでに田畑はつぶされて空き地(草原)となっており、一帯は「鉄道用地」あるいは「軌道用地」となっている。おそらく、鉄道省の敷地だが、旧・畦道だったと思われる戸塚村25番地の道路の先に、いまだ神高橋は架かっていない。また、同時期の高田村側、つまり川の北側は水田のままであり、耕地整理はなされていなかった。つづいて、3年後の1918年(大正7)の1/10,000地形図を見ると、神高橋あたりに臨時で設営されたとみられる仮橋のような記号が見えている。これは、実際にプレ神高橋の仮橋があったのか、あるいは神高橋の架橋工事がスタートしており、なんらかの構造物があるのを示す記号かは不明だが、高田町側を見ると水田が拡がるだけで、いまだ道路は敷設されていない。
 さらに4年後、1922年(大正11)の1/3,000地形図には、すでに後世の神高橋と同じ位置へ斜めに架橋されているのがわかる。つまり、神高橋が建設されたのは、1918年(大正6)から数年の間にかけてということになる。この時期になると、北側の高田村の水田も耕地整理が終わって埋め立てられ、もともと畦道だったと思われる道筋が拡幅され、市街用の道路へと敷設し直されているのがわかる。しかし、この北側から川へ向けて南下する道路と、南の早稲田通りから川へ向けて北上する道路とは、10m余にわたりズレていたのが歴然としている。そのズレを修正するために、早稲田通りから北上する道路の先を、東側へ向けてやや折り曲げ、さらに神高橋を斜めに架けざるをえなかった……という経緯だ。
 大正の架橋時から戦後まで、早稲田通りから北上する神高橋と道路はそのままだったが、1960年代後半にはじまる高田馬場駅前の再開発で、旧来の北上する道路は途中でふさがれ、道幅の広い新たな道路が東側へ敷設されたため、その道路筋から眺めた神高橋がおかしな位置になってしまった。つまり、新しい道路をまっすぐに北上すると、神田川の護岸壁に衝突してしまうので、道路の先を旧道とは逆に、今度は西側へ向けて屈曲させざるをえなくなったのだ。こうして、わたしが学生時代から経験した、なんとなく東へ逆もどりして損をした気分になる神高橋の時代がはじまった。
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気まぐれ天使「神高橋」.jpg

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気まぐれ天使「高田馬場」.jpg

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神高橋2.JPG

 現在の神高橋は、2000年前後に行われた架け替え工事で直線化され、80年間もつづいた斜めの神高橋は取り払われた。十三間通りへと抜ける高田側の道路も拡幅され、旧・神高橋の南詰めにあった児童遊園は廃止されて戸塚地域センターとなった。神高橋はわたりやすくなったのだが、「ヘンテコリンな橋だな」と思いながらわたっていた学生時代の神高橋が、妙に懐かしい。

◆写真上:橋の南詰めが10mほど東寄りになり、直線化された神高橋の現状。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)の戸塚村地籍図にみる戸塚村向原25番地界隈。上右は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる同位置。神高橋の位置に、仮橋あるいは工事中のような記号が描かれている。は、1922年(大正11)の1/3,000地形図に描かれた神高橋。高田村側から南下する道路と繋げるため、戸塚側の道路を東に折り曲げ神高橋を斜めに架けた様子がよくわかる。は、昭和初期に作成された同1/3,000地形図の修正図。すでに西武線が敷設され、2本の鉄橋と神高橋の位置関係がよくわかる。
◆写真中下は、敗戦直後の1947年(昭和22)に撮影された神高橋。下左は、わたしが初めて下落合を散策したときにわたった1974年(昭和49)撮影の空中写真にみる神高橋。下右は、2001年(平成13)に制作された「江戸東京重ね地図」(エーピーピーカンパニー)の神高橋。すでに橋の架け替え工事がスタートしており、神高橋の下流側(東側)に直線状の細い仮橋が架けられているのがわかる。
◆写真下は、1976年(昭和51)に撮影された神高橋。は、高田側から戸塚側の高田馬場駅方面を眺めたもので、早稲田通りから北上する道路は神田川護岸壁にぶつかり直進できなかった。は、神高橋の真下から眺めた高塚橋。


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