尾崎一雄Click!が、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の通称「なめくぢ横丁」Click!の長屋Click!から、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」に転居したのは、1934年(昭和9)9月21日だった。この日は、まさに“室戸台風”が日本に上陸していた当日で、東京では屋根瓦が飛ばされ樹木がなぎ倒されるなどの被害が続出している。
下落合4丁目2069番地は、ちょうど目白崖線の四ノ坂と五ノ坂の間、中ノ道沿いにある路地を南へ10mほど入った右手(西側)、西武線を通る電車の音が間近に聞こえる一画にあった。「もぐら横丁」という名称は、「なめくぢ横丁」のように以前からそこに住む人々が呼びならわしていた名称ではなく、周囲にはモグラがやたら多く棲息し、外から台所の土間にまで侵入してくるので、尾崎家がそう呼びはじめたものだ。
ちなみに、現在でも下落合にはモグラが多く、わたしの家の裏にもモコモコと土の盛り上がりが頻繁にできる。だから、野鳥やネズミの多さも含め、2mクラスのアオダイショウClick!が何匹も棲息できるのだろう。尾崎一雄の伝でいえば、落合地域じゅうが「もぐら横丁」になってしまいそうだ。さて、嫌がる周旋屋を急き立てて、大嵐の中、上落合から下落合へ直線距離で400mほどの引っ越しは強行された。その様子を、1952年(昭和27)に池田書店から出版された、尾崎一雄『もぐら横丁』から引用してみよう。
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十六七年前といふが、私は、上落合二丁目から下落合四丁目へ引越した日を、はつきり覚えてゐる。昭和九年九月二十一日、大風の吹いた日である。引越しの手伝ひに来てくれた光田文雄――私より十ばかり下の、同じ学校の下級生で文学青年、大東亜戦争末期に、フィリピンで戦死した――が、私共の全家財を積んだ荷車の後押しをした。私は、車を横から押してゐた。大風で、車が横倒しになりさうなのだ。私一人で間に合はなくなると、光田も横押しの方に廻つた。/この日の暴風は、東京では屋根瓦が飛び、塀や植木が倒れた程度だつたが、関西、殊に神戸を中心とする地方は、非常に厳しかつた。死者二千五百余、負傷者八千余、行方不明五百余の外に、当時の金で十億円に上る物的被害が報告された。
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尾崎夫妻が、「なめくぢ横丁」に住んでいた檀一雄Click!の家を出ることになったのは、檀の妹が絵の勉強をするために、東京へ出てきていっしょに暮らすことになったため、結果的に彼らが追い出されたからだ。尾崎一雄は、できるだけ家賃の安い物件を見つけるために、周辺の落合地域をあちこち探しまわっている。彼によれば、家賃さえ気にしなければ貸し家はいくらでも見つかったが、駆け出しの作家が借りられる家賃10円ちょっとの物件は、なかなか見つからなかったようだ。
昭和初期の落合地域は、関東大震災Click!による市街地からの人口流入が一段落し、金融恐慌やがては大恐慌の時代を迎えると、おカネをかけた西洋館を維持できなくなった住民の転出や、郊外住宅ブームに乗った市街地からの転入者を当てこみ、次々と田畑をつぶしては地主が建てた借家にも、あちこちで空き家が目立つようになっていた。
下落合4丁目2096番地に建っていた借家の様子を、同書から引用してみよう。
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檀君の妹が、画を習ふために上京して、檀君と同居生活を始めることになつた。したがつて、私共一家は、檀君の家を去らねばならない。転がり込んで丁度一年になるから、好い汐時とも考へて、私は空家捜しを始め、直ぐ見つけた。西武線中井駅から少し西へ歩いた、線路の北側の、三間の家だつた。古家だが、家賃十三円といふのはいかにも格安だから、私は見つけものをしたと思つた。その頃は、大中小さまざまの空家が、いくらでもあつた。家賃さへ気にしなければ、いつでも引越しが出来た。ただ、私共は家賃として支出し得る金額の制限を受けてゐたから、おいそれと運ばぬだけである。しかし、この十三円の家は、見つけものと思へた。
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「もぐら横丁」の借家の南側には、犬の飼育場が設置されていてシェパードが何匹か飼われていた。おそらく、当時の落合地域で流行っていた、仔犬が生まれると高値で売りさばくブリーダー稼業の家だったのだろう。上落合186番地の“おカズコねえちゃん”こと村山籌子Click!が、シェパードの仔犬が生まれると下落合2108番地に住む吉屋信子Click!へ無理やり売りつけ、嫌な顔をされた記録が残るように、当時の落合地域では洋犬の飼育ビジネスが盛んだった。そんなブリーダー業の隣家に転居した尾崎一家は、犬の吠える声にしじゅう悩まされることになる。
この「三間の家」から、路地を北へ抜け中ノ道へと出ると、ほぼ正面右寄りには陸軍元帥・武藤信義邸がそびえていた。また、中ノ道を左折(西進)すると、すぐに五ノ坂下に差しかかり、坂の向こう側には『放浪記』がヒットして上落合850番地から2年前に転居した、下落合4丁目2133番地の林芙美子・手塚緑敏邸Click!が見えた。林芙美子Click!が“お化け屋敷”Click!と呼んでいたこの大きな西洋館には、尾崎夫妻も娘を連れて何度か遊びに出かけている。
また、現在の街の様子でいうと、「もぐら横丁」の路地から中ノ道を右折(東進)すれば、新しい林芙美子・手塚緑敏邸Click!(下落合4丁目2096番地=現・林芙美子記念館)や刑部人アトリエClick!跡(同)がある四ノ坂下へと抜けた。そのまま真っすぐ進めば、ほどなく西武電鉄の中井駅で、檀一雄や太宰治Click!たちが飲んでいた寺斉橋北詰めにあるたまり場、喫茶店「ワゴン」Click!へとたどり着けた。
ある日、尾崎一雄が「ワゴン」へ立ち寄ると、背の高いきれいなママさん=萩原稲子Click!(上田稲子)から妙なことを聞かされた。「もぐら横丁」の尾崎宅の隣りに住んでいた、自称アドライター(現在のコピーライター)のS君が、あちこちで「新進作家・尾崎一雄」の名前を出しては、いかがわしい薬を売って歩いているというのだ。「ワゴン」の萩原稲子と尾崎一雄の会話を、少し長いが全文引用してみよう。
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うちの隣りのアド・ライターは、少し変つた人らしく、時々私方の縁側に掛けたり、窓からのぞき込んだりして私に話しかけた。少し風変りなその話振りには、私も対応に窮する時があつたが、それは余裕があつたらのちに書くとして、私共が来て半年後、夜逃げ同様に彼がそこを出て行つて間もなく、ある日『ワゴン』へふらりと立寄つた私は、女主人からこんなことを云はれた。/「あの変な人、あなたのお隣りのSさんて方もう居ないんですつてね」/「越しましたよ」/「そんなら云つちやはうかな」/「何をです」/「あなたのこと、いろんなこと云つてましたよ」/「へえ、いやだな」/「尾崎さんはどうもつき合ひにくくつていけない。もう少し打ち解けてくれると、僕も大いにうれしいんだけど、つて。それから、あの人も貧乏らしいが、僕は月収は二百円位あるから、もつと心安くしてくれれば、飲むのを倹約して手助けして上げてもいいんだけどつて、そんなこと云つてましたよ」/「なんだい、居るうちに云つてくれりやいいのに」/「それからね」/「まだあるのか」/「いつか、痔の薬を持つて来て、お客さんにすすめてましたよ。そのとき、これは尾崎さんにも一つ頒けて上げたが、よく効くつて喜んでたつて」/「驚いたね」/「花柳病の薬もよ」/「えッ、僕がよく効くつて喜んでたつて?……」/「それは違ふの」/この調子だと、どこへ行つてどんなことを云ひふらしてゐるか知れたものではないぞ、と思つた。
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ちなみに、尾崎一雄の『もぐら横丁』が出版された翌年、1953年(昭和28)制作の映画『もぐら横丁』(監督・清水宏)では、このいかがわしくていい加減なアドライター「S君」を、口八丁手八丁の森繁久彌Click!が演じていた。
映画『もぐら横丁』には、その舞台として下落合や戸塚町2丁目(現・高田馬場2丁目)、目白町3丁目(現・目白3丁目)などとされる街並みが登場するのだが、いずれも下落合や目白の街並みには見えない。そもそも、下落合は標高35m前後の丘が連なる坂の街なのだが、映画では平坦で空き地の多い街並みになっているので、おそらく世田谷の撮影所近くで撮られた風景ではないだろうか。
現在の「もぐら横丁」には、当時の面影はほとんどない。1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲Click!で、五ノ坂下の家々はほとんど焼かれ、いまでは戦後に建てられたきれいな住宅やマンションが並ぶエリアとなった。西武新宿線が近く、電車の音が聞こえるのはそのままだけれど、およそ「横丁」と呼べるような風情はいまや皆無だ。
◆写真上:「もぐら横丁」の路地で、突き当たりが目白崖線と中ノ道。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2069番地の尾崎一雄宅。西側には、同一規格の借家で自称アドライターの怪しい「S君」の家がある。下は、尾崎宅跡の現状で路地の右手(西側)。
◆写真中下:上左は、1952年(昭和27)に池田書店から出版された尾崎一雄『もぐら横丁』。上右は、碁を打つ尾崎一雄で手前のうしろ姿は大岡昇平Click!。下は、1953年(昭和28)に制作された『もぐら横丁』(監督・清水宏)のシーン。尾崎が佐野周二、松枝夫人が島崎雪子、馬場下町の下宿屋親父が宇野重吉、S君が森繁久彌など豪華な顔ぶれだ。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)に南から斜めフカンで撮影された「もぐら横丁」とその周辺。下左は、1929年(昭和4)ごろ「ワゴン」で撮影された萩原稲子。下右は、空襲直前の1945年(昭和20)春に撮影された「もぐら横丁」界隈。