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多くの書籍や資料では、1936年(昭和11)の秋ごろに陸軍省兵務局(局長は阿南惟幾)によって設立された謀略・防諜機関、「陸軍中野学校」の準備組織(兵務局分室)が「牛込若松町」にあったとされているが、当時の町名でも現代の町名でも場所ちがいの誤りだ。正確には、陸軍施設が林立していた山手線内側(東側)に拡がる戸山ヶ原Click!のほぼ真ん中あたり、陸軍戸山学校Click!や軍医学校Click!の北側に位置する戸山町番外地(現・戸山3丁目)に、同年の秋から翌1937年(昭和12)の春にかけて建設されている。
兵務局分室のある敷地の西側には、近衛騎兵連隊の広い馬場や、広大な射撃場Click!が拡がり、その谷間を縫うように小流れの金川(カニ川)Click!が流れていた。北西側には、少し高い位置に近衛騎兵第1連隊のレンガ造りの兵舎Click!(現・学習院女子大学)があり、北東側には防疫給水部(のち防疫・細菌研究室=石井部隊)、東側には化学兵器研究室と標本図書館、南東側には陸軍軍医学校の本部と校舎群、陸軍東京第一衛戍病院Click!(現・国立国際医療センター)、南側には箱根山Click!と陸軍戸山学校や軍楽隊の舎屋が建っており、兵務局分室はその真ん中に位置する目立たない低地に建設されていた。
2003年(平成15)に新潮社から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』(保坂正康・編)から、中野学校の前身となる兵務局分室が設立された様子を引用してみよう。
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そして十一年の秋から、牛込若松町(ママ)の陸軍軍医学校と騎兵第一連隊の境界の谷のように低い、めだたない場所に、木造二階建て二百坪の庁舎建設がはじまったのだ。(この機関員だった藤井義雄氏=当時准尉。本人の希望によりとくに仮名=によれば『陸軍省付となったのが十一年八月一日付』とあるから、その夏から設計準備がはじまって、秋から建築に着手したものと思える) これの完成が翌十二年春。『兵務局分室』の看板をあげた庁舎こそ、日本にはじめて生まれた科学外諜防衛機関であったが、これと前後して同じ場所に、もう一つできたものがある。/陸軍省医務局長・小泉親彦中将(後の厚生大臣、終戦時自決)の提案で、『細菌戦研究部隊』が設けられたのだ。
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兵務局分室が竣工した1937年(昭和12)春になると、陸軍省兵務局では正式に防衛課が発足し、防諜や謀略を専門に扱う組織体制が整うことになる。同時に、陸軍省官制が改正され、初めて「防諜」という言葉が正式に官制内へ登場している。また、陸軍中野学校の前身とともに、そのすぐ北東側に隣接した敷地には防疫給水部・細菌戦研究部隊(いわゆる石井部隊=731部隊)が設立されているのが興味深い。
兵務局分室へ勤務する機関員たちは、この谷間にあった建物には直接出入りをせず、必ず軍医学校の南にあった正門を通過し、正面の学校本部の中を通り抜け、軍医学校の患者か同校の通勤者のように見せかけている。軍医学校本部の2階渡り廊下をくぐり抜けると、本部西翼棟(本部講堂・手術演習室・射撃試験研究室・庶務室・経理室などが入っていた)に沿い北側の森へと出て、金川(カニ川)の小流れがある西へと下るダラダラ坂を左折する。(この道は舗装されて現存している) 坂の右手には、防疫給水部(防疫研究室)のコンクリート2階建ての目立たない低い建物が見え、左手には軍医学校の玉砂利Click!が詰まったコンクリート擁壁がつづいているが、坂の正面突き当たりには木造2階建てで、竣工したばかりの兵務局分室の庁舎が見えてくる。
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兵務局分室の西側に隣接して、軍医学校の講堂が建設されていたが、それが近衛騎兵連隊の馬場側から兵務局分室の建物をよけいに目立たなくさせていた。当時、軍医学校の勤務者でさえ、新たに建設された兵務局分室の建物を、伝染病患者の隔離施設として記憶している人が多いようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
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患者の出入りのはげしい軍医学校の門から出入りするのだから、患者と機関員を区別することはむずかしく、完全に世間の目をのがれる工作は成功したのである。機関員には、陸軍省から秋草俊、福本亀治の両少佐(ここでの在任中に中佐となる)、参謀本部から上田、宇都宮の両少佐、憲兵隊からも、若干の将校と竹内長蔵、藤井義雄(仮名)両准尉をはじめ、よりぬきのベテランが配属された。
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防諜活動を開始した兵務局分室では、防諜要員(スパイ)の養成機関を創設する計画を立て、1937年(昭和12)の暮れに「情報勤務要員養成所設立準備事務所」が設置され、メンバーには上記の両少佐に加え軍務局から中佐・岩畔豪雄が赴任し、「後方勤務要員養成所」が設立された。これが、のちに中野駅の北側(中野囲町)に移転して「陸軍中野学校」と呼ばれるようになる、防諜・謀略要員の秘密養成機関が生まれた当初の姿だ。
ちなみに、福本亀治少佐は兵務局分室へ配属になる前は東京憲兵隊特高課長であり、1936年(昭和11)の二二六事件Click!では関係者の取り調べに当たっている。したがって、警視庁の特高課(部)Click!とも濃いつながりがあったとみられ、軍民にわたる思想犯の取り締りには警視庁と連携する機会も多かっただろう。
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さて、「後方勤務要員養成所」の諜報員養成には、どのような人物像が望まれたのだろうか? ひと口にいうと、軍人らしい人物はすべて不合格でハネられている。「軍人勅諭や典範令で、しゃにむに軍人精神をたたきこまれた、士官学校出身の将校に、この複雑多岐な諜報勤務は勤まるはずはない」(同書)とまでいわれ、一見軍人とは対極にあるような人物が入学を許されたようだ。以下、同書からつづけて引用してみよう
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(後方勤務要員養成所の)試験には、工兵がきていなかっただけで、ほかの兵科からは全部きていた。われわれの騎兵学校出身者から五人推薦されて、うち三人は慶應ボーイ、もう一人は東大出だったが、この東大出の男は、すでに妻帯していたので試験ではねられた。
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兵務局分室では、志願者の家族関係から思想傾向、性格、趣味嗜好まで憲兵隊をつかって調べあげ、書類審査で適・不適を選抜していた。上記の帝大卒業生がハネられたように、両親の存在はともかく妻や恋人がいたり交友関係が広い人物は、書類審査の段階で除外されている。できるだけ目立たず、周囲に係累も少ない“孤独”な人間が、1938年(昭和13)1月に九段下の皆行社で実施された選抜の本試験を受けることができた。
後方勤務要員養成所の詳細については、数多く出ている「陸軍中野学校」関連の本を参照していただきたいが、当初は九段下の愛国婦人会に隣接する粗末な木造2階建ての校舎だった。軍服や短髪は禁止で全員平服であり、「天皇」と聞いて直立不動の姿勢をとろうものなら、「バカ者ッ(中略) 第一番に天皇もわれわれと同じ人間だということを知っておけ!」(同書)と怒鳴られるような教育で、天皇批判さえ許されていた。
第1期生20名のうち、ひとりは病気のために途中で脱落し、もうひとりはスパイ活動に嫌気がさして退学したため、卒業時には18名となっていた。いまだ軍人臭が濃かった第1期生に比べ、1939年(昭和14)に合格した第2期生は、大学や専門学校の文科系や理工系、医科系の卒業者などから幅広く採用され、より「一般人」化が進んだようだ。
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さて、ほぼ同時期ごろ、戸山ヶ原の兵務局分室から北東へ直線距離でわずか600m弱、牛込区馬場下町35番地に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を出た人物が歯科医院を開業していた。警視庁の特高課に勤務する父親のいるその男は、石井伯亭の愛弟子を名乗り日本水彩画会の会員でもある洋画家だった。下落合をも舞台にした帝銀事件Click!で、同事件の「犯人」として平沢貞通が逮捕される2ヶ月ほど前、この歯科医の画家は帝銀事件の重要参考人として東京検察局に逮捕された。だが、“ある筋”からの圧力で歯科医はほどなく釈放されるのだが、それはまた、ある本が出版されてからの、別の物語……。
◆写真上:兵務局分室跡の西側に残る、近衛騎兵連隊馬場との間を仕切る土塁。
◆写真中上:上は、兵務局分室跡の現状。下左は、後方勤務要員養成所の初代所長・秋草俊中佐。下右は、陸軍中野学校跡地(中野区中野4丁目)に残る記念碑。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる軍医学校正門から兵務局分室(未建設)へのコース。中は、軍医学校から兵務局分室へと向かう左側にある軍医学校のコンクリート擁壁。下は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる兵務局分室。すでに戦時体制のせいか、建物の位置も形状も正確に描かれていない。
◆写真下:上は、1944年(昭和19)の空中写真にみる兵務局分室と思われる建物。中上は、石井部隊(731部隊)の防疫給水部(防疫研究室)ビルが建っていた跡の現状。中下は、1944年(昭和19)の空中写真にみる中野囲町の陸軍中野学校(現・警察病院あたり)。下は、戦後に南側から撮影された中野学校で正面が本部校舎。