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昔のアルバムを眺めていると、どうしても気になる写真がある。うちに伝わるアルバムは、たった1冊しか現存していない。明治期から大正期の写真を収めたアルバムは、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!で焼失し、それから新たに撮られた写真を収録した戦前のアルバムは、1945年(大正20)3月10日の東京大空襲Click!で焼失している。唯一助かったのは、親父が学生時代に下宿していた諏訪町Click!へ大空襲の直前に持ち出した、自身の子ども時代が多く写るアルバムClick!1冊だけだ。
親父のアルバムをめくっていると、神田明神Click!の祭礼がらみの写真が数多く目につく。中でも、神田祭へ参加したときの稚児姿(冒頭写真)や、日本橋の町内神輿が繰り出すときに撮影した祭りの写真など、旧・神田区とならび旧・日本橋区内の町々に神田明神が浸透していた様子がうかがえる。いずれも、日本橋人形町Click!あるいは東日本橋(西両国Click!)の写真館で撮影したもので、1929年(昭和4)9月のタイムスタンプが入っている。現在、神田祭は5月に行われているけれど、もちろん当時は9月の中旬だった。
いつだったか、神田のご出身である斎藤昭様Click!にお話をうかがったとき、戦前はなにかというと日本橋側と尾張町(銀座)側は、京橋から八重洲あたりを境に「競い合い」ときに「ニラミ合っていた」という逸話をうかがったが、これはもちろん神田明神(おもに江戸市街東側の町々)と山王権現(おもに江戸市街西側の町々)の氏子町あるいは氏子連中(れんじゅ)のちがいによる、見えない“境界線”が存在したからだ。
八重洲界隈が、ちょうどそれぞれ膨大な氏子町や氏子連の境目(フロント)にあたる。といっても、そこは祭り好きな土地柄だから、日本橋側でも徳川家の産土神である山王権現の祭礼に参加する町内はあったし、その逆もまたしかりなのだが、おおよその地域分けをすると神田・日本橋から東側は神田明神の氏子、京橋・尾張町(銀座)から西側は山王権現の氏子となって、大江戸Click!に繰り広げられた天下祭りClick!の覇を競っていた。だけど、そうやってときに競い合い、ときには手をつないでこの400年以上にわたり、両地域は大きく発展してきたのだろう。
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戦前には、祭りの時期が近づくと祭礼装束を着て写真館で記念撮影をし、それぞれの氏子町内の神輿を繰り出しては神田明神あるいは山王権現の祭礼へ参加していた。もっとも江戸期とは異なり、明治末ごろから東京市電の電線が道路の上空をふさぐようになると、二大天下祭りの見どころである豪勢な山車の練り歩きは見られなくなり、徐々に神輿が主体の祭礼へと転換していくことになるのだが……。東日本橋からは、神田川をさかのぼって神輿舟Click!が神田明神をめざす。でも、戦後に都電やトロリーバスが廃止され、電線や通信線が共同溝に収容されて電柱が少なくなった現在、少なくとも神田明神では再び山車=練り物行列の気運が高まりつつある。
1929年(昭和4)の稚児写真を見ると、色彩は不明ながらいまよりもデザインが少しおとなしめだろうか。現在は、圧倒的に氏子町や氏子連の女子が多い神田明神祭の華やかな稚児姿だが、戦前は男の子の参加もふつうに多かったにちがいない。確かに、女の子のほうが着栄えがするし華やかでカワイイのだが、江戸東京総鎮守の天下祭りが、文字どおり「女子天下祭り」になってしまわないことを祈るばかりだ。w まあ、それも江戸東京地方らしく、平和で美しくていいのだけれど。
さて、わたしの連れ合いの家には関東大震災にも遭わず、山手の住宅で空襲被害にも遭わずに焼け残ったアルバムが伝えられている。もっとも古い写真は、あちこちの街角に写真館Click!が開業しはじめたころ、日露戦争のさなかに撮影された1905年(明治38)のタイムスタンプが押されているものだ。そのアルバムをめくっていると、ひときわ目を惹く女性がいる。彼女はわたしの連れ合いの祖母であり、旧姓・宮武シカノの娘にあたる女性だ。宮武シカノの名前は、以前こちらのサイトでも何度か登場Click!している。
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宮武外骨Click!の愛妹であるシカノは、結婚をすると男女ふたりの子どもを産んでいる。そのひとりが、シカノによく似ているといわれている、わたしの目を惹いた女性、すなわち義祖母の三井テルということになる。アルバムに残っているのは結婚後の丸髷姿で、いずれも写真館で撮影されたものが多いが、おそらく30歳前後のころだろう。テルは子どもを病気で亡くしたあと、弟・三井新の娘を養女に迎えているが、それが連れ合いの母親、つまりわたしの義母ということになる。1941年(昭和16)の春、東京帝大の法学部地下に開設されていた明治新聞雑誌文庫Click!に宮武外骨を訪ねたのは、このテルと義母のふたり連れClick!だった。
明治期の多彩なメディア資料を、日本全国にわたり東奔西走して蒐集・研究し資料棚に収めていた宮武外骨が、多忙なさなかにわざわざ時間をつくって、姪のテルとその娘を喜んで迎えた理由が、写真を見てなんとなくわかったような気がした。テルは、とても明治女性とは思えないアカ抜けた容姿や上背をしており、まるで現代女性のようなバタ臭い雰囲気さえ漂わせている。きっと外骨は、テルとその娘に会うのを楽しみにしていたにちがいない。だが、テルは外骨が死去したわずか5年後の1960年(昭和35)に逝き、1918年(大正7)生まれの義母もこの11月に97歳で鬼籍に入った。
連れ合いの家に伝わるアルバムから、シカノの愛娘である三井テルの写真を高精細スキャニングさせてもらい、大きなサイズに伸ばして、わたしの部屋へポスター代わりに貼ってみた。きっと、連れ合いの親戚からはヘンな目で見られているにちがいない。w
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髪を下ろしてロングヘア―にし、現代風のややきつめなアイラインのメイクをしてコスチュームを変えれば、おきゃんで気の強そうな、どことなく黒木メイサ風になるんじゃないだろうか?……そんなことを考えつつ、義祖母の写真をニヤニヤしながら眺めている。こういうのを、「親バカ」ならぬ「孫バカ」……とでもいうのだろうか。
◆写真上:1929年(昭和4)9月に両国の写真館で撮られた、神田祭の稚児姿をした親父。
◆写真中上:上左は、戦災をかろうじてまぬがれ唯一残る戦前のアルバム。上右は、上記と同日に撮影された神田祭の稚児姿。下左は、同じく1929年(昭和4)9月の神田祭時のもの。下右は、人形町の写真館で撮影された1930年(昭和5)ごろの親父。
◆写真中下:上左は、1905年(明治38)の写真からスタートする連れ合いの家の古いアルバム。絞り染めを使い、ていねいに函押しまでした写真帖は手作りだ。上右は、1907年(明治40)2月に撮影された三井テル。下は、1913年(大正2)に撮影された同女。
◆写真下:1914年(大正3)1月に撮影された、少し近視になったころの義祖母。