以前、目白文化村Click!の北側に位置する第2府営住宅Click!へ入った、説教強盗Click!の伝承をご紹介したことがある。でも、警視庁の捜査記録を参照すると第2府営住宅の住所および住民名は見つからず、下落合で被害を受けた邸は3軒ということになっている。しかも、この記録は誤りだらけで、住所から住民名まで随所に誤記が見られる。
1926年(大正15)から顕著になった、妻木松吉(いわゆる説教強盗一世)による強盗事件は1929年(昭和4)2月23日の逮捕時までつづき、被害家屋は65件ということになっている。しかし、上記の第2府営住宅の被害はその中に含まれておらず、捜査記録にはまったく異なる場所が3ヶ所記載されている。これは、第2府営住宅の被害が最初から漏れているか、あるいは説教強盗二世の犯行ということだろうか。以前にこちらでご紹介した、下落合の「ルパン二世」事件Click!と同様に、説教強盗にも模倣犯が何人か出現している。
本来の説教強盗(妻木松吉)は、西は小石川南西部から雑司ヶ谷、西巣鴨(現・池袋界隈)、高田(現・目白界隈)、東は長崎(現・椎名町界隈)、下落合、野方(現・江古田界隈)、練馬、板橋などの大きめな邸宅を選んで犯行をつづけていた。犯行地域が城北部の特定地域に集中していることから、警視庁では早くから目白駅あたりを中心に犯人のアジトがあると目星をつけ、戸塚署や小石川署、中野署、高田署、練馬署、板橋署などにまたがる事件にもかかわらず、高田警察署(現・目白警察署)に特別捜査本部を設置している。
説教強盗の手口は巧妙で、押し入る前に綿密な下調べを行なっている。標的にした邸の間取り図の作成や隠れ場所、逃走経路、交番の位置など、周辺の地勢や地理、道路網、交通網、各種施設の存在などをすべて頭の中にたたきこんでいる。強盗という犯罪は、警察では通常「強力犯」という粗暴犯罪のカテゴリーに分類されるのだが、警視庁が4年あまりにわたって翻弄されたのは、説教強盗が「知能犯」的な側面を色濃く備えていたからだ。
宵のうちから、強盗目的の家屋に忍びこんでは敷地内のどこかに隠れ、深夜になり家人が寝静まるのを待ってから、ようやく隠れ場所を抜け出して家内に侵入して犯行に及んでいる。たいていの手口は、家人たちを全員縛りあげ、家族の女性を脅しては現金や貴金属を次々と出させていた。しかも、一度ぐらい出しただけでは引きあげず「まだあるだろう」と粘り、なかなか退散しないのも説教強盗の特徴だ。
そして、さんざん脅して金品を巻きあげると、最後に「物騒だから犬を飼いなさい」とか、「お宅は戸締りがなってない」とか、防犯の脆弱性とその対策を指摘して、「こんな心がけだから強盗に入られるのだ」と説教をして立ち去ったことから、いつしかマスコミから“説教強盗”と呼ばれるようになった。
説教強盗の被害がもっとも多かったのは野方町で、自供した65件の犯行のうち10件が集中している。当時の野方町は、武蔵野鉄道Click!沿いの郊外新興住宅地が形成されはじめたエリアで、家々が密集しておらず交番の数も少なく、またところどころに林や畑なども残っていて、犯行がやりやすかったのだろう。野方町の次に多いのが、長崎町(現・椎名町界隈)と西巣鴨町(現・池袋界隈)の各8件、次いで少し北寄りの練馬町と上板橋村、小石川の各5件、そして杉並町の4件、板橋町と井荻町、落合町下落合の各3件ということになっている。
しかし、下落合の地元では捜査記録に残る3件のほか、もう1件の伝承が残っているのは前述したとおりだ。この65件という数字は、警視庁が妻木松吉を逮捕したあと、検察局へ立件した起訴状の記載件数であり、実際にはもう少し多かった可能性がありそうだ。当時の説教強盗による犯行の手口と、警視庁の捜査体制について、1935年(昭和10)に中央公論社から出版された『防犯科学全集・第4巻/強力犯編』から引用してみよう。同書所収の「説教強盗始末記」の著者・中村勇は、説教強盗事件が頻発していた当時、警視庁の警部補だった人物で、この本が出版された当時も現職だったかもしれない。
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大体『説教強盗』が所謂『説教』の名によつて問題になり出したのは、昭和二年の花の散る頃からで、当時目白、板橋等の管内に於て、頻々として同一手口の強盗被害が続出していたからである。先ず窓を破つて押入り、目的を達して引上げる時には誠に鹿爪らしく、実に真面目くさつて、例の説教口調で、戸締りの不完全と、犬の飼育を注意するのである。かういふのが続けさまに七八件出て来て、その遺留品等により足取りを捜査して見ると、犯人はどうしても目白近傍、即ち高田署管内に居住する者であると認定されるのであつた。そこで目白を中心に極めて緻密な捜査網を張り、種種人的方面の探査に手を尽して見たがどうも分らぬ。大体当局で気がついた頃には、彼『説教』の犯行も非常に巧妙になつてゐたものであるから、『之は相当の前科者に違ひない』と推定されるのも已を得ない事で、さういふ方面を極力洗つて見たが、中々人的ではとれさうにもない。まごまごしてゐるうちに『説教』の被害は遂に六十件に達した。同一手口の同一犯人と目される事件が、六十件も累なるといふことは実に異例である。世間の騒ぐのも無理ではなく、人心恟々として重大な社会問題となり、当局の無為無能を糾弾する声は巷に充ち満ちて来た。遂に議会の問題となり、帝都治安の維持に関して決議案が提出されさうな形勢にまでなつて来た。
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そもそも警視庁による犯人像の想定、すなわち「相当の前科者」というプロファイリング自体が、初期捜査の段階からまちがっており、犯人・妻木松吉の日常は非常にマジメで頭がよく、職場や近所でも仕事がよくできるいい腕をした左官職人で、酒も博打もやらず家族思いで子煩悩なよき父親として、きわめて評判のいい人物だったのだ。
西巣鴨町字向原(現・サンシャインシティの南側)にあった、犯人の自宅隣りには警察官が住んでおり、隣人が説教強盗で逮捕されると驚愕しいるようなありさまだった。また、被害者のひとりの陳述により、イラストによる全身の人相書きもつくられたのだが、これがまったく犯人と似ていなかったことから、さらに捜査が混迷・混乱の度合いを増すことになった。
ここで「世間の騒ぐのも無理ではな」いと書かれている要因は、犯行が60件以上も重ねられているのに、高田警察署(現・目白警察署)に特別捜査本部を設置した警視庁が、犯人をなかなか逮捕できないことに、「世間」が単純に苛立っているからではない。
警視庁では、犯人を下落合の山手線ガードClick!と、椎名町駅近くの長崎神社Click!などで三度も捕捉しながら、やすやすと逃げられるという“ふがいなさ”に対する苛立ちからだった。新聞であからさまに報道されなくても、このような失態は世間へ口コミで急速に広まる時代だった。この三度にわたる失態については後述するとして、警視庁の記録にみる下落合の被害邸の様子を、同書から引用してみよう。
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◆同年(1927年)同月(12月)五日午前二時頃、府下落合町下落合一七三番地安藤義矯方を襲つて現金五六円を強奪した。(中略) ◆(1928年)同月(6月)二十六日午前二時半にはもとの地盤に戻つて府下落合町下落合八三六番地の学校教員島田欽一方を襲ひ、現金四十円金鎖付懐中時計一箇を強奪してゐる。(中略) ◆(1928年)同月(9月)十六日午前二時半、下落合七一二番地安藤仁三郎方に押入り現金九十円を強奪。(カッコ内引用者註)
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この記録の中で、1927年(昭和2)に起きた「下落合一七三番地」の事件から検証してみよう。まず、下落合173番地などという地番は1927年(昭和2)当時、下落合には存在していない。大正初期までは藤稲荷社Click!の南側、旧・神田上水(現・神田川)沿いに存在していた地番だが、耕地整理にともない広い敷地に工場が進出してくると同時に整理され、犯行当時は欠番となっていた地番だ。
もともと下落合173番地だった敷地は、下落合45番地に集約され、大正末には硝子活字工業社目白研究所の広い敷地の一部になっている。また、「安藤義矯」という邸名も誤りだ。正確な表記は、目白文化村の第二文化村に位置する、下落合1739番地の安東義喬邸Click!だ。
次の「下落合八三六番地」の「島田欽一」邸も住所・邸名ともに誤りで、正確には鎌倉街道の雑司ヶ谷道Click!に面した、下落合830番地の島田鈞一邸のことだ。また、「下落合七一二番地安藤仁三郎」邸も、地番および邸名ともに誤っている。正確には、第二文化村内にあたる下落合1712番地の安藤又三郎邸だ。第二文化村の安藤家は、1938年(昭和13)以降に邸を手離し、そのあとに転居してくるのが石橋湛山Click!ということになる。
もっとも、説教強盗の逮捕から5年余りしか経過していない当時の「説教強盗始末記」では、新聞記事とは異なり住所や邸名をあえてボカしている可能性も否定できないのだが……。
警視庁の現役警部補(?)らが書いた「説教強盗始末記」だが、あちこちに基本的な誤りが存在して頼りなく、どこまで信用していいのかわからない。……しかり。警察の「科学捜査」(おもに指紋照合捜査)によって説教強盗を逮捕したことを誇らしげに記述している同書だが、犯人を突きとめたのは、実は高田警察署の特別捜査本部ではない。事件を綿密に調べあげて報道をつづけ、犯人を追跡して突きとめたのは東京朝日新聞の三浦守記者だった。
<つづく>
◆写真上:下落合1739番地の第二文化村、安東義喬邸があったあたりの現状。
◆写真中上:左上は、1935年(昭和10)出版の『防犯科学全集・第4巻/強力犯編』(中央公論社)。上右は、同全集の奥付。下左は、「説教強盗始末記」が掲載された目次の一部。下右は、同全集の刊行とともに配布された月報。
◆写真中下:上は、下落合830番地の島田鈞一邸が建っていたあたりの現状。下は、下落合1712番地の第二文化村内にあった安藤又三郎邸あたりの現状。
◆写真下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる安東義喬邸(左)と島田鈞一邸(右)。下は、1938年(昭和13)制作の「火保図」にみる安藤又三郎邸。