山手に住んでいると、わたしの出自では不可解に感じる発音がある。以前、鬼子母神(きしもじん)の読み方Click!について書いたが、これもそのような事例のひとつだろうか。雑司ヶ谷鬼子母神は、住民の入れ替わりが激しかった戦後から、どうやら「きしぼじん」と訛った呼ばれ方(標準語?Click!)をするようになったことが町史などからうかがえる。もうひとつ、乃手で「新道」は「しんみち」と発音されるようなのだ。
たとえば、「四谷新道」通りのことを「よつやしんみち」と発音しているのを聞いて、「あれっ?」と思ったのが最初だったろうか。神楽坂の「芸者新道」は「げいしゃしんみち」と紹介されることが多いようだ。この通り名を「げいしゃじんみち」と、おそらく本来の呼び方で発音していたのは、TVに出ていた台東区出身のタレントひとりだけだった。ちなみに、芸者新道に「げいしゃしんどう」とルビをふっている出版物を見たけれど、これは論外とさせていただきたい。神楽坂の新道を、自動車専用道路の「横浜新道(よこはましんどう)」と一緒にしないでほしい。
新道(じんみち)の起源は、江戸期にまでさかのぼる。表通りと表通りの間、つまり表店(おもてだな)が並ぶうしろ側に形成された裏店(うらだな)が、軒を連ねて向かい合う間を通る筋が、「板新道(いたじんみち)」あるいは「石新道(いしじんみち)」と呼ばれている。これは、裏店の真ん中を下水溝が流れており、その溝(どぶ)を板や石材で覆って人が往来できるようにしたから名づけられたのだろう。
時代が下るにつれ、新道(じんみち)という呼称は“ひとり歩き”をはじめ、別に下水溝などない広い通りと通りの間を抜ける路地や道路も、そう呼ばれるようになっていく。新道と同時に普及したのが、「横丁」という呼称だったのだろう。明治期に入ると、このような路地や細道は「〇〇新道」あるいは「〇〇横丁」と呼ばれることが多くなっていったようだ。ちなみに、「芸者新道(げいしゃじんみち)」ないしは「芸妓新道(げいしゃじんみち)」は、ともに日本橋と柳橋が発祥地だ。
木村荘八Click!は、日本橋の吉川町や米沢町、元柳町、博労町(のち馬喰町)、横山町、通油町Click!、あるいは柳橋Click!などあちこちにあった新道について、1953年(昭和28)年に東峰書房から出版された『東京今昔帖』で、次のように記述している。
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永井さんの文中にある「横山町辺のとある路地の中」といふのは、浅草橋から見て西へ、馬喰町の四丁目から一丁目へかけての片側と、横山町の三丁目から一丁目迄、それから少し通油町へかけて、この町家の中をまつすぐに貫いてゐる路地を指すものに相違ないが、これはやがて南北竪筋のみどり川へぶつかり、これに架る油橋で止まる。それまで相当細長い道中を、板じんみち、石じんみち、と一丁目毎に区切つて呼んでゐる。(中略) しかもこのドブの蓋の上の狭い通路をはさんで両側から、家々が背を向けやうどころか、対々に堂々と正面向きで相向つてゐる賑はしさが、この細長い【しんみち】の尽きぬ面白さであつた。(【 】の原文は傍点)
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上掲の文章の中で、【 】をつけた「しんみち」には傍点がふられており、地図や看板などにしるされていた表記であり、実際には「じんみち」と発音されていたのがおわかりだろうか。昔の表記は、「にほんはし(日本橋)」や「やなきはし(柳橋)」、「かくらさか(神楽坂)」、「こひなた(小日向)」のように、濁音をあえてふらない例が多い。「にほんはし」は「にほんばし」と発音し、「やなきはし」は「やなぎばし」、「かくらさか」は「かぐらざか」、「こひなた」は「こびなた」と発音するのは、地元では自明の“お約束”だったからだ。したがって、「しんみち」と表記されてはいても、「じんみち」と呼ぶのが江戸東京地方の方言的な習わしということになる。
ちょっと余談になるけれど、「すみたかわ(隅田川)」というように川に関する固有名詞に濁音がふられないのは、川が濁るのを嫌ったからだ……というような、まことしやかな説明を聞くけれど、おそらく後世に取ってつけられたあと追いの付会だろう。川に限らず、江戸期から明治期にかけての仮名表記は、別に河川に関する名称のみならず、各地の地名などにも濁音がふられない例が多い。川名や橋名に濁音表記がないのは、他の地名と同様に江戸期からつづく当時の表記に関する“慣習”であり、別に「川」関係の名称に限ったことではない。
さて、木村荘八の文章にも登場している永井荷風Click!が、明治末から大正期にかけて下町のあちこちに存在した、新道(じんみち)に関する印象をつづった文章がある。1915年(大正4)に籾山書店から出版された永井荷風『日和下駄』から引用してみよう。
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路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で涼む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞は買わずとも世間の噂は金棒引きの女房によつて仔細に伝へられ、喘息持の隠居が咳嗽は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種云ひがたき生活の悲哀の中に自ら又深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡て此の世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは又この世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返など云ふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地は又渾然たる芸術的調和の世界と云はねばならぬ。
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この文中の「路地」を、「じんみち」と読み換えていただくと、およそ江戸期から荷風の時代までつづいていた、新道生活や風俗などをうかがい知ることができる。
おそらく先の「四谷新道」と神楽坂の「芸者新道」は、名称がつけられた当時は「よつやじんみち」あるいは日本橋や柳橋と同様に「げいしゃじんみち」と呼ばれていたのだろう。それが、時代をへるにしたがって(おそらく戦後?)、住民の入れ替わりが激しくなるとともに、いつの間にか「しんみち」と呼ばれるようになってしまったのではなかろうか。だから、いまだに新道と書いて「じんみち」と呼ぶケースが多い、東京の(城)下町から見ると不自然さを感じるようになり、鬼子母神(きしもじん)と同様に齟齬感や違和感をおぼえるようになってしまった、そんな気がするのだ。
余談だけれど、木村荘八の『東京今昔帖』を読んでいて、明治末ごろ薬研堀Click!に接した日本橋米沢町Click!界隈に、5代目・中村芝翫(のちの5代目・中村歌右衛門)が住んでいたのを初めて知った。芝居好きの親父は、おそらく地元が同じだったせいか、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎Click!とはハガキのやり取りをしていたが、5代目・芝翫(歌右衛門)について話してくれたことは一度もない。木村荘八は、芝翫の家を「隠宅」と書いており、公の自邸とはまた別のプライベートな妾宅あるいは“隠れ家”的なもので、親父がもの心つくころには、とうにたたまれてしまっていた可能性がある。
もうひとつ、余談ついでに大川(隅田川)の「水練場(いすいれんば)」Click!が、明治末ごろまでは薬研堀の南側、つまり右岸の日本橋側にあったことも初めて知った事実だ。おそらく大正期には、対岸の本所側へ移されているとみられ、本所側で泳ぎを習い育った親父は知ってか知らずか、これも生前には話してくれていない。
◆写真上:新小川町方面から眺めた、神楽坂の通う丘の夕暮れ。
◆写真中上:上は、神楽坂の芸者新道。下は、山手なので「新道」とは呼びづらいが小さな商店がお互いに向かい合っていた「下落合新道」もどき。
◆写真中下:同じく山手なので「新道」よりは「横町」のほうがふさわしいかもしれない、「上落合新道」(上)と「池袋新道」(下)もどき。
◆写真下:上左は、昭和20年代に撮影された湯島天神から眺めた天神下の街並み。左手には不忍池が拡がり、あちこちに「新道」が通っていそうだ。上右は、「新道」と呼ぶにはあまりに狭い湯島天神下の路地。下は、木村荘八が描く東日本橋(旧・西両国=両国橋西詰め)界隈の概略図。薬研堀の下に、「スイレンバ」の記載が見える。