井荻駅の南側、井荻町下井草(のち杉並区神戸町)の隣接する区画に、仲よく家を建てて住んでいた外山卯三郎Click!と里見勝蔵Click!が、ある時期を境にピタリと交流をやめてしまっている。ケンカの原因がなんだったのか、わたしはずっと疑問に思ってきた。両邸は、文字どおりスープが冷めない距離、わずか数十メートルしか離れておらず、田上義也が設計した外山邸Click!の室内には里見の作品が壁面を飾っていた。
おそらく1930年協会Click!を解散する際、あるいは独立美術協会Click!を旗揚げする際に会の方向性をめぐる対立か、芸術思想上の齟齬が深刻化して絶交したのではないかと想像していた。なぜなら、外山卯三郎は里見と訣別したあと、1930年(昭和5)に夭折した前田寛治Click!の業績をことさら大きく取りあげ、1930年協会における中核的な存在と規定している。同時に、里見勝蔵のことを周囲がその「野心を非常に危険視」Click!していたとし、同協会をかろうじて結束させていたのは前田の手腕だとして、あたかも里見が結束を乱す元凶だったように記述している。
やはり、1930年協会から独立美術協会へと移行する前後に美術的な、あるいは表現路線上におけるなんらかの深刻な対立が、ふたりの間に生じたのだ……と、わたしはより明確に想像しはじめていた。ところが、ふたりの絶縁はそんなことではないことが、鷺宮にアトリエをかまえていた峰村リツ子の証言から明らかになった。峰村リツ子は1930年協会や二科、独立美術協会などの展覧会へ作品を出展しつづけていた、女流画家の草分け的な存在のひとりだ。特に里見勝蔵や野口彌太郎Click!、児島善三郎らから指導を受け、同じ鷺宮の近くに住む三岸節子Click!とも交流があっただろう。
峰村リツ子の証言によれば、彼女と里見勝蔵、あるいは外山卯三郎と里見勝蔵の関係がギクシャクしはじめたのは、大阪からやってきたとある美人モデルの出現からだった。大阪の金持ちの娘で、中村恒子と名のったその女性は画家志望だったようだ。峰村リツ子によれば、画家たちの間を「いつもヒラヒラヒラヒラ」歩きまわっていた中村は、峰村のモデルになったとき、ちょうど里見勝蔵とつき合っていたらしい。モデルにして描きたいと峰村が中村恒子へ告げると、ほどなく里見勝蔵から自分のアトリエにきて仕事をするなら彼女を描いてもいいとの連絡が入った。
峰村リツ子が、井荻の里見アトリエへ出かけてみると、里見勝蔵がまるで中村恒子の付き人のようなことをしているのを見て驚いた。峰村の証言を収録した、1985年(昭和60)出版の洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社)から引用してみよう。
▼
それで、この絵は井荻の里見氏のアトリエで描いたのだが、暑い盛りで、峰村さんが描いているあいだ、里見氏はずっとそばにつきっきりで、団扇で彼女を煽いでやっているのであった。とても落ち着いて描いてなんかいられない。おまけに、絵の中の彼女の顔を、里見氏が筆をとって自分流に直したりしたので、肚を立てた峰村さんは、とうとう絵を提げて帰ってきてしまった。/それでも、紅い襦袢の透けて見える黒い絽の着物を着た彼女はじつに美しかった、と、いまも峰村さんは言う。歳はだいたい峰村さんと同じくらいだったというから、昭和五年のこの絵の頃で二十くらいだろう。
▲
峰村リツ子が描く間、師匠格である里見がモデルのそばを片ときも離れず、かいがいしく面倒をみていたとすれば、彼女としては非常に困惑しただろう。中村恒子は里見勝蔵とくっつく前、共産党の福本和夫Click!の恋人だった。里見勝蔵は、おそらく前田寛治Click!とのつながりから中村恒子と知り合ったのだろう。
このような状況を迎える前後に、里見勝蔵と外山卯三郎は仲たがいをすることになる。おそらく、中村恒子にうつつをぬかす夫に呆れはて、里見夫人は近所の外山邸を訪れ、親しい外山夫妻にグチをこぼしていたのではないだろうか。非常にマジメな外山卯三郎は、里見夫人の訴えを親身になって聞いてやったのかもしれない。それが里見勝蔵から見れば(自分のことは棚にあげて)、外山卯三郎が里見夫人とことさら親密になっているように見えたものだろうか。あるいは、里見に自制するよう、外山がおせっかいな「犬も喰わない」忠告をしたのかもしれない。再び、同書から引用してみよう。
▼
このカノジョの現われる前かもしれないが、里見勝蔵が、当時の里見夫人と批評家の外山卯三郎との仲がよすぎると言って怒りだし、井荻の駅から家までの野道で喧嘩になって、里見が外山を肥溜めの中へ放り込んだ。そのあとしばらくは、外山卯三郎の家へ行くと、何となく臭かったという話がある。/里見勝蔵とは肥溜めや川のそばを歩かない方がいいのかもしれない。
▲
田上義也設計の美しい外山邸が、肥溜めの臭いで台無しになったようだけれど、どうやらこの事件が契機となって、ふたりは絶交しているようだ。里見勝蔵がのぼせあがった中村恒子は、その後、さっさと里見を見かぎって次の男のもとへ去っていった。
さて、当の中村恒子は1933年(昭和8)ごろ下落合に住んでいた。同年に改造社から出版された林芙美子『落合町山川記』(岩波文庫版)から、下落合4丁目(現・中井2丁目)の近所に住む中村恒子の様子を引用してみよう。ちなみに、林芙美子が住んでいた当時の家は、五ノ坂下にあった大きな西洋館=“お化け屋敷”Click!のほうだ。
▼
また、夏になった。もう前ほど女流のひとたちも来なくなった。城夏子さんや辻山さんがやって来る位で、男のひとたちの来客が多い。山田清三郎さんもこの辺では古い住みてだし、村山知義さんも古い一人だ。また、私の家の上の方には川口軌外氏のアトリエもあって、一、二度訪ねて来られた。素朴なひとで、長い間外国にいた人とも思えないほど、しっとりと日本風に落ちついた人である。風評で有名な中村恒子さんもうちの近くの二階部屋を借りて絵を描いているし、有望な絵描きの一人に入れていい独立の今西忠通君も、私の白い玄関に百号の入選画をかけてくれて、相変らず飯屋の払いに困っている。
▲
文中に苗字しか出てこない「辻山さん」とは、喫茶店「ワゴン」Click!裏で医院を開業していたにいた辻山義光の妻・辻山春子Click!のことだ。
「肥溜め事件」以来、外山卯三郎の文章から里見勝蔵の影が限りなく希薄になっていく。代わりに取りあげられる機会が増えたのは、とうに死去していた佐伯祐三Click!と前田寛治Click!だ。そして、戦後の1949年(昭和24)に下落合の外山邸Click!で書かれた『前田寛治研究』(建設社)では、木下兄弟の言質を引用しつつ「野心家」という言葉で、里見への敵意をむき出しにしている。戦災で邸を焼かれた井荻を離れ、下落合1146番地の実家にもどった外山卯三郎は、もはや肥溜めに放りこまれる心配がなくなったからだろうか。
◆写真上:いまでも、井荻駅の近くで見ることができる畑地。
◆写真中上:上は、井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)の外山卯三郎邸跡。下は、井荻町下井草1091番地(のち神戸町116番地)の里見勝蔵邸跡。外山邸と里見邸との間は、直線距離で50mと離れてはいない。
◆写真中下:左は、1930年(昭和5)に制作された峰村リツ子『女の肖像』。右は、1928年(昭和3)の三・一五事件Click!を報じる新聞記事に掲載された中村恒子。
◆写真下:上は、井荻界隈に残る懐かしい家並み。下は、すっかり遅くなってしまったが北海道立文学館で開催された開館20周年特別展『「さとぽろ」発見―大正昭和・札幌 芸術雑誌にかけた夢―』展(2016年1月30~3月27日)の図録(左)とリーフレット(右)を、同館学芸員の苫名直子様Clickよりお送りいただいた。札幌における外山卯三郎の青春時代を知るには、格好の資料となっている。ありがとうございました。>苫名様