1944年(昭和19)になると、戦争の激化や資材不足から工事がストップしてたとはいえ、落合地域の住民は、東西南北から直線状に迫ってくる幅員の広い大道路の存在を意識していただろうか。西北と東から迫るのは十三間道路(現・新目白通り)であり、南北から落合地域を東西に分断するように迫るのは改正道路Click!(環六=山手通り)だった。これらの大道路は、まさに落合地域で落ち合うような進め方で工事が進捗していた。
この時期、北西から迫る十三間道路は、西落合の新青梅街道に到達する地点(現・地下鉄大江戸線・落合南長崎駅あたり)まで、東から迫る十三間道路は早稲田大学の北側、都電の終点であるグランド坂下Click!まで。また、北から迫る改正道路は、すでに目白文化村Click!の第一・第二文化村の東端を削っており、南から迫る改正道路は上落合を東西に分断して、西武電鉄Click!の中井駅へと迫っている。これらの大道路は、既存の道路を拡幅したものとは大きく異なり、郊外住宅地をカーブの少ない真っ直ぐな形状で貫いていた。
災害時や戦時の火除け地、すなわち防火帯としての役割りも担っていたのだろうが、道幅が十三間(約24m)あるにもかかわらず、早稲田の十三間道路沿いの家々は建物疎開Click!を命じられ、1944年(昭和19)の10月までに道路の北側から神田川までの間に建つ家々が、取り壊されはじめている。これにより、江戸川橋の交差点から早大のグランド坂下、つまり都電の終点・早稲田駅まで50~100mの防火帯36号江戸川線Click!が出現しようとしていた。
防火帯としての役割のほかに、十三間道路には戦時中から囁かれていたウワサがあった。それは、都内(1943年より東京府→東京都)の陸軍飛行場が爆撃され使用不能になったとき、これら直線状の大道路を戦闘機の代替滑走路として使用する・・・というものだ。国立公文書館の陸軍資料を調べてみても、このウワサの真偽はわからないのだが、中国大陸の幅員の広い道路建設に陸軍が深く関与している状況をみると、あながち兵站や軍事輸送のみを意識した道路建設とは思えないフシがある。国内の、しかも首都圏の大道路であれば、陸軍は工事を認可する過程でさまざまなことを仮定、あるいは構想していると思われるからだ。
昔から十三間通り(新目白通りの通称)を通ると、親父はそのたびに何度か「戦時の代替滑走路を意識して造られたんだよなぁ」と口にしていた。また、年配のタクシードライバーからも、わたしが「十三間通りから下落合の氷川社まで」と行き先を告げると、「お客さん、なんで十三間の広くて真っ直ぐな道路にしたか知ってます?」と話しかけられた。「帝都防衛のための戦闘機の滑走路でしょ?」と答えると、「そうなの、だからいい舗装がされてたんだ」・・・と、わたしがタクシーから降りるまでずっと戦時中の想い出話がつづくことになった。
都内の主な大道路が、代替滑走路の用途として使われるというウワサは、実は戦時中にとどまらない。戦後、連合軍による占領下でも、まったく同じウワサが市民の間で囁かれていた。それは、GHQが都内の主要道路を接収して、“不沈空母”としての代替滑走路にする・・・というものだった。もちろん、米ソ戦を前提とした“構想”だったのだろう。しかも、十三間道路や二十間道路をそのまま使用するのではなく、幅員を100mまで拡幅した広場に近い道路を建設するというもので、明らかにB29やB36の長距離爆撃機を意識したウワサとして流れていた。
1984年(昭和59)に出版された、中井英夫『続・黒鳥館戦後日記-西荻窪の青春-』(立風書房)の1947年(昭和22)5月1日の記述に、そのウワサが書きとめられているので引用しよう。
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東京のどこそこの道路を百米にひろげて、それは、いざといふ時の滑走路にする為だとか、七百時間以上の飛行経験者はゾクゾク徴用されてゐるとか、いやもう、米ソ戦の噂でもちきり。
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火のないところに煙は立たないというが、公式記録には残っていないものの、戦中戦後を通じて東京の大道路を滑走路目的で使用できないだろうか?・・・と考えた、陸軍関係者やGHQの関係筋がいても決しておかしくはないだろう。大きな長距離爆撃機はともかく、当時の戦闘機だったら弾薬や燃料補給の課題さえ解決できれば、十分に離発着ができたと思われるからだ。
いま、十三間通り(新目白通り)沿いでは、電柱をなくす共同溝の設置が急ピッチで進められている。電線や通信線を共同溝へ収容する大規模な工事は、おそらく下落合では1922年(大正11)より造成された目白文化村Click!以来ではないだろうか。文化村では、通信ケーブル(電話線)は収容しきれず地上に残ったけれど、十三間通りの工事はすべてのケーブルを地下へ埋設するようだ。
◆写真上:下落合の南を貫く十三間通りで、右側がケーブル類の共同溝への埋設工事現場。
◆写真中上:上は、1944年(昭和19)に北西から迫り西落合まできている十三間通り(新目白通り)。下は、同年に東側の早稲田から迫る同通り。道路北側の住宅街が同年10月現在、防火帯36号江戸川線建設のための建物疎開で、徐々に解体されているのが見える。
◆写真中下:上は、1944年(昭和19)に北側から下落合まで達していた改正道路(山手通り)の工事。下は、同年に南から上落合を分断し中井駅の手前まできていた改正道路。
◆写真下:1938年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた、改正道路(山手通り)と十三間通り(新目白通り)の建設予定計画で、現ルートとは微妙に異なっているのが面白い。特に十三間通りは、戸山ヶ原の陸軍施設への物流が意識されたものか、省線・高田馬場駅まで突き抜けている。