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アナーキストで詩人の秋山清は、下落合内を何度か転居したあと(当初は西武線の近くに住んでいたらしい)、下落合4丁目1379番地に住んでいた。この地番は、目白文化村Click!のうち第一文化村の中央にあたる位置だ。ちょうど、下落合(4丁目)1328番地に建っていた神谷邸Click!の、二間道路をはさんで西隣りにあたる家だ。ときに萩原恭次郎Click!が暮らしていたり、詩誌『弾道』を発行した弾道社として小野十三郎Click!も一時住んでいたことがあったらしい。あるいは、どちらかと同居していた重なる期間もあっただろうか。
秋山清が借りていた第一文化村の住宅は、もちろん自宅ではなく借家で、もともとの所有者は北原安衛という社会局の事務官だった。邸宅の所有者が労働や福祉に関する国家公務員であり、労働争議に関する調停者あるいは労働問題研究家だったというのもどこかおかしいが、もし北原家が文化村の家をそのまま借家にして貸し出していたとすれば、秋山清や萩原恭次郎、小野十三郎たちの大家は北原安衛だったということになる。しかも、目白文化村の家に特高警察Click!が踏みこむなど、ちょっと隣り近所の住民たちには想定外の光景だったにちがいない。
『詩戦行』に関わっていたころの秋山清は、母親とともに大久保町東大久保83番地に住んでいた。戸山ヶ原にあった陸軍戸山学校Click!の、大久保通りをはさんですぐ南側あたりだ。それが、下落合に転居するきっかけとなったのは、文芸雑誌『黒色戦線』(第1次)の編集へ関わりはじめた1929年(昭和4)の秋ごろからだった。
『黒色戦線』の編集・発行所は、西武線の中井駅前から寺斉橋をわたってすぐの上落合689番地Click!にあった。この印刷所は、少し前に全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)の機関誌『戦旗』Click!の編集・発行所と、まったく同一の地番だ。つまり、この印刷所には少し前まで『戦旗』を発行していた印刷機があり、1929年(昭和4)の春以降は同じ印刷機で『黒色戦線』が発行されていたことになる。あるいは、2誌を重ねて同時に印刷していたのだろう。
西武電鉄が開通したばかりの下落合の様子を、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
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下落合に住んだのは一九二九年(昭和四)の秋からで、その頃はまだ高田馬場までの西武新宿線に近いところだった。そのはじめが『黒色戦線』の編集会議に出席した時で、以後国電の東中野駅と西武線の中井、新井薬師前駅を結ぶ地域のあちらこちらと移っての借家住居は、数えてみれば五十年以上に及ぶ。(中略) 今は東京都新宿区となっているが落合という地名は、上と下とに分れ、面白いことに下落合の方が上落合より土地が高く、国電の目白駅付近から西武電車の下落合、中井の二駅を過ぎるまで低い丘がつづき、下落合四丁目は中井駅から北に坂を登り、その当時はまだ物めずらしい土地会社が、その丘陵を拓いて住宅地としてそこを文化村と呼んだが、落合ではなく、上に目白を冠せて目白の文化村と呼んでいた。さすがに敷地をゆったりとって、建物は文化住宅の名で関東大震災の郊外に建ちはじめた安普請よりは、いくらか良く見えた。その丘のまん中付近に在った二間の小さい家を借り、以後この付近に右往左往する私の生活となった。
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当時、秋山清は東京朝日新聞社のエレベーターボーイとして働いており、無政府活動を理由に同社をクビになるまで、秋山を訪ねて尺八を提げた辻潤Click!をはじめ、さまざまな人間が東京朝日新聞社を訪ねて交流している。それまで、同新聞社の守衛たちは秋山への訪問者を黙認していたが、1929年(昭和4)9月に秋山は守衛と警官にロックアウトを喰らっている。そのまま無理やり辞表に署名・捺印させられ、会社側が「せいいっぱい」用意したと称する600円の退職金とともに放り出された。
文芸誌『黒色戦線』には、秋山や小野十三郎、萩原恭次郎をはじめ新居格、丹沢明、植田信夫、塩長五郎、森辰之介らアナーキズムの論客や、斎藤峻、金井新作、杉山市五郎らの詩人、高群逸枝Click!、上杉佐羅夫、八木秋子、正木久雄、飯田豊二といった、下落合にもゆかりのある小説家や文芸評論家が参加している。
秋山清が参画していた『詩戦行』は、1927年(昭和2)6月には終刊となったが、そのあとに参加していたのが詩誌『矛盾』であり、それと対抗するように発行されていたのが、1928年(昭和3)6月の詩誌『黒旗は進む』だった。『戦旗は進む』の執筆陣には、萩原恭次郎や小野十三郎、高群逸枝、飯田豊二、土方定一らがいて、そのメンバーの多くが翌年からスタートする『黒色戦線』へ合流していることになる。つづけて、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
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一九二九年(昭和四)の秋には所謂目白の文化村の真中というべきところに独りで住んでいた。そこが下落合四丁目一三七九番地、西武新宿線の中井駅から北へ上っていったあたりで、その年の初めから十二月いっぱい、中井駅に近い妙正寺川という川を渡るとすぐ『黒色戦線』の発行所があった。この雑誌は『戦旗』や『文芸戦線』がマルクス主義を背負って、文学の世界を揺りうごかしつつあった時期に、アナキズムの旗を立てたものとして記憶されるが、前に述べた、純正アナキズムとサンジカリズム派との対立のなかでは、一年の命しかなかった。その同人会を解散するときまって、外に出て、中井駅前の坂道を登って家にかえると暗い家かげから二人の男が出て来て、早稲田警察署に連れて行かれたが、二晩泊められただけで帰された。何を訊ねられてもはかばかしく運動の全体にわたって答えられることのなかった私の素人ぶりを認めたからだろう。
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文中、「早稲田警察署」とあるのは戸塚警察署にいる特高の誤りだが、数年後、同様に戸塚署の特高へ引っぱられた矢田津世子Click!は鞭で叩かれ、10日間にわたって留置場のコンクリート廊下の筵(むしろ)の上に正座させられ、同じ場所で寝かされつづけて身体を壊している。秋山清の「二晩」は、まだはるかにマシな時代の“待遇”だった。
秋山清が第一文化村に住んでいたときから、庭で「生活手段のために山羊を飼育」していたようだ。当初は乳を搾るための1頭だったのかもしれないが、同じ落合町の葛ヶ谷(西落合)へ転居するころには、10数頭を数える“牧場”に近いものになっていった。上高田のバッケが原Click!に住むころは、自ら「山羊牧場」と称している。ここで思い出されるのが秋山邸の西側、斜向かいの隣家にあたる下落合(4丁目)1639番地あたりに住んでいた、元マヴォで「のらくろ」Click!漫画家の田河水泡Click!が、第一文化村の“中央テニスコート”跡の空き地付近で頻繁に「羊」を目撃していることだ。
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これは、秋山清が同時期に自宅で飼っていた、ヤギ(山羊)のことを指しているのではないか。田河がヤギとヒツジの見分けがつかなかったとも思えないので、「山羊」と書くところ原稿に「羊」と書いてしまった可能性がある。秋山は、第一文化村時代からヤギを飼っていたとみられ、田河水泡が“中央テニスコート”跡の空き地で目撃しているのは、秋山が「放牧」がわりに原っぱへつないでおいたヤギではなかっただろうか。秋山清が飼っていたヤギについては、このあと多彩な物語が付随して「山羊たちをめぐる冒険」が繰り広げられるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:秋山清が借りて住んだ、下落合4丁目1379番地の閑静な第一文化村邸跡。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる秋山清邸。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる秋山邸。「二間の小さい家」と書いているが、とても小さな家には見えず、一部を借りていたか建て替えられているか、大家が庭に小さな借家を建てていた可能性がある。
◆写真中下:上は、晩年の秋山清(左)と早世した萩原恭次郎(右)。下左は、小野十三郎。下右は、1929年(昭和4)8月に発刊された『黒色戦線』8月号。
◆写真下:上は、大正期の神谷邸側から見た北原安衛邸(一時期は秋山清邸)が建設されるあたり。すでに北側に、東京美術学校教授の結城林蔵邸を建設中なのが見える。下は、1925年(大正14)夏に撮影された第一文化村の二間道路Click!で、突き当たり神谷邸の裏側やや右手に北原安衛邸(秋山清邸)は建設されている。