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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合の町名変更に住民91.2%が反対。

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蘭塔坂.JPG
 やはり、当然というべきだろうか。下落合の西側を、「中落合」あるいは「中井」という町名に変更する動きが自治体で顕著になったとき、下落合の住民へアンケート調査が行われている。竹田助雄Click!が発行していた「落合新聞」Click!1965年(昭和40)6月9日号によれば、実に91.2%の住民が「反対」と回答している。「賛成」は、西武線・中井駅周辺のわずか3.5%にすぎなかった。また、同時に2,102名の反対署名が新宿区へ提出された。
 それでもなお、なぜ不可解な町名変更がなされてしまったのかを想像すると、乃手では明治以降に移り住んだ人々が多く、(城)下町Click!のように地名や町名に強烈な愛着やアイデンティティをもつ方が少なかったので強い反対運動が起きなかったからだろう……と、適当に想像していた。たとえば、中央区が佃島Click!の地名を「三角」か「住江」へ変えようとしたとき、激怒した佃島住民たちが中央区役所へ連日抗議に訪れ、あわや打(ぶ)ち壊し寸前の険悪な状況になった。また、神田の三崎町Click!の名称を変更しようとしたとき、やはり怒った住民たちが千代田区長宅を取り巻き、区長を出勤させずに「団交」状態へ持ちこんでいる。三崎町ケースが特異なのは、町内会が勝手に町名変更に賛成したのを住民たちが許さず、変更を阻止した点にある。のちに、町内会の責任が問われたのはいうまでもないだろう。
 それほど、住民のアイデンティティを形成する地名や町名が重要なことを、その地域や街の出身でもない無関係な人間がお手軽に変えることが、いかに“とんでもないこと”なのかを徹底的に思い知らせる必要があったからだ。下落合ケースの場合、乃手Click!の上品な住宅環境のせいか、そのような強い反対運動は起きにくかったのだろうとも想像していた。だが、前掲の「落合新聞」によれば、さまざまな反対運動が行われていた。
 ここの記事では、中落合や中井2丁目の街で、「下落合4丁目」の住所プレートを外さないお宅や、同地域に建つマンションにあえて「落合」地名と旧・下落合4丁目の地番を冠する名前をつけている事例などを、いくつかご紹介している。それほど、町名変更は現代にいたるまで、50年以上もくすぶりつづけている課題だ。このサイトをはじめて12年目になるけれど、いまだに「それほど広い地域ではないのに、ずいぶんいろいろな人たちが住んでたんですね」といわれることがある。もちろん、現在の「下落合」という住所のみを意識された誤解だ。いまの下落合エリアは、本来の下落合の3分の1ほどの面積しか残っていない。
 このサイトのスタート時にも書いたが、「下落合風景」Click!を描いた佐伯祐三Click!のアトリエが下落合にないのも、『落合山川記』を書いた林芙美子Click!の家が下落合にないのも、大正期における文化住宅街の嚆矢である目白文化村Click!が下落合にないのも、『雑記帳』Click!を発刊していた綜合工房Click!が下落合に存在しないのも、また第二文化村の「下落合教会」(下落合みどり幼稚園Click!)が下落合にないのも、不自然に感じなくなること自体がマズイことだと思う。資料に見られる1965年以前の「下落合」表記と、実際の地図とを見比べて首をかしげる人があとを絶たないのだ。
 それは、佃島が消滅して「三角〇丁目」になるのと同様に、地名や町名とともに地域にやどる歴史や物語を限りなく薄め、“否定”するのと同様だからだ。為政者や町名変更の推進者(たいがい地付きの人間でも地域の出身者でもない)は、行政の「効率化」のため、あるいは商店や企業による目先の経済効果のために、太古の昔ないしは数百年間もつづく地名や町名をやすやすと変更したがる。それによって、後世にこうむるであろう史的な、あるいは文化的な「損害」を“あとは野となれ山となれ”Click!で、まったく先読みもしなければ想像すらしないのだ。
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 さて、下落合の町名変更に関する反対運動を、その真っただ中で取材していた「落合新聞」同号から引用してみよう。ちなみに、竹田助雄自身も下落合4丁目にある自宅が、「中落合」などという得体の知れない地名になってしまうので、もちろん反対だったろう。
  
 報告義務怠る
 地元審議委員は地区の総意を按排して委員会に提出しなければならない。まして以前に六百名の署名陳情が出ているし、下落合、落合を主張した人も多い。したがって委員は、中井、中落合の新町名に決めるならば一応“むら”に帰って区域を明らかにして報告する義務があった。町名は住民全体のものなのだから、その義務を怠ったことは否定できない。また審議委員が住民感情をどの程度情勢把握していたか、という疑問も生じる。/先頃行われていたような新町名に対する賛否を問うアンケートをなぜ決定以前にしなかったか、地域住民が最も残念がっているのもこの点である。アンケートは決して時間のかかる作業ではないし、やれば大義明分(ママ)が立つというもの。
 焦った事務局/指導性に欠く
 (前略)町名を変更する時にはその町全体を対象にして総括的に話合う用意が必要であった。下落合一丁目から全部。アンケートによる九〇%以上の反対といい、二一〇二名もの反対署名といい、このような事態をまねいたことは、指導的立場にある事務当局に欠陥があったのではないか。西落合作業の遅れを取りもどすためとはいえ、いちばんむつかしい筈の下落合町名変更をいとも簡単に決めてかかっている。その事自体がすでにおかしい。また、地元審議委員の大半が住居表示に関する法律第三条、「…住民にその趣旨の周知徹底を図り、その理解と協力を得て行なうように努めなければならない。」のあることを知らずにいたことは、指導性の欠如といわねばなるまい。住居表示みたいに、七めんどくさい作業は、当局の教育如何によって左右されるのである。
  
 竹田助雄は、くだんの地元審議委員とは知己のせいか「欠陥があったのではないか」と柔らかめな表現にしているが、審議事項を地元へまったくフィードバックせず、下落合全地域の住民へ可否を問うこともせずに、そのまま唯々諾々と町名変更に従っている不勉強な担当者と事務当局そのものが、丸ごと存在意味のカケラもない欠陥組織だ。
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 その結果、どうなっただろうか? つづけて、「落合新聞」から引用してみよう。
  
 部長と課長が/ひたすら謝りに
 新宿区々民部長・渡辺八太郎氏および戸籍調査課長・荻野光忠氏は、中井、中落合反対陳情に対して、地元署名発起人代表上田篤次郎さん、北島寿子さん、渡辺栄子さんらと、下落合四丁目区第二出張所階上で、これまでの経過などを話合い、終って渡辺部長は議会で決定されたこの問題に頭をかかえ、ひたすらあやまり、「できればこのままに…」と詫びていた。
  
 「できればこのままに…」と、なし崩し的に50年がすぎたわけだけれど、まるで熾火のように、この課題は下落合西部でわだかまりとなってつづいているように見える。竹田助雄は、事務当局へも取材しているが、地元審議委員が無知で怠惰だからといわんばかりで、「その人達が責任を負うべきだ」と回答されたため、紙上でも怒りをあらわにしている。
  
 あいた口がふさがらないとはこのことだ。これが指導的立場にある事務局員ら(複数にする)の言葉かと思うとあきれかえる。反省の色は全く見えない。(中略) 当局員の名前までは勘弁しておくが、そのような不誠意で刺激的な答えしかできない態度だからこそ作業もろくにできないのだ。
  
 江戸東京の地名や町名の変更案件が、1960年代半ばに集中的に起きているのは、1962年(昭和37)に施行された「住居表示に関する法律」にもとづくからだ。東京オリンピックで来日する外国人に対し、「細々とした地名や住居表示が存在するのが、わかりにくいし恥ずかしいから」(地方行政委員会)というのが、その施行理由だったのをこちらの記事でもご紹介Click!している。だが、下落合ケースの場合は(城)下町ケースとは正反対に、せっかくまとまっていた「下落合」という地域名を細々と分割し、よりわかりにくい町名へと変更した特異な事例だ。
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 自国の歴史や文化が営々と宿る地名や町名を、外国人に対して「わかりにくいし恥ずかしい」と称して町名変更の理由としている、卑屈で自虐的で「植民地根性」的な行政担当者のアタマのほうが、よほど「日本人」として恥ずかしいと思うのだが、さて下落合ケースの町名変更では、どのような「事情」が変更理由とされたものだろうか。竹田助雄は、新宿区の事務当局の担当者とも顔見知りだったものか「名前だけは勘弁しておく」としているが、わたしは乃手人ほど優しくはないので、当時の様子や詳細が判明ししだい、さっそく具体的かつありのまま記事に書きたいと思っている。そういえば、深く考えもせずに変えてしまった町名を元にもどす、町名復活事業へじみちに取り組んでいる、石川県の城下町・金沢市のケーススタディClick!も、こちらでご紹介していた。

◆写真上:およそ90年ぶりに坂名が復活した、旧・下落合4丁目の蘭塔坂(二ノ坂)。
◆写真中上は、1962年(昭和37)に発刊された竹田助雄「落合新聞」創刊号。は、旧・下落合4丁目2189番地(現・中井2丁目)に建てられた集合住宅。
◆写真中下は、町名変更の不可解さを報じる1937年(昭和62)6月9日の「落合新聞」。竹田助雄の記事にはめずらしく、筆が怒っている。は、旧・下落合2丁目(現・中落合2丁目)の邸に残された住所プレートで、もちろん意識的に撤去されないのだろう。
◆写真下は、同様に町名変更の“没論理性”を報じる「落合新聞」。は、記事にはまったく関係ないがめずらしい角度の中谷邸Click!。北隣りの邸の建て替えで、おそらく50年ぶりぐらいにこの角度から見られる美しいスパニッシュ風の大正建築だ。


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