下落合で「アトリエ研究会」を開催していた、阿部展也Click!のアトリエの記録がまちまちで悩ましい。人によって、書いていることがバラバラで、正確な状況が不明なのだ。敗戦の直後、抑留先のフィリピンから引き揚げてきた当初の仮住居は滝野川であり、進駐軍の将校住宅「グランドハイツ」へ絵を教えに通っていたころだ。その後に転居したのが、下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)でどうやらまちがいないようだが、彫刻家・松浦万象はアトリエを借りて仕事をしていたと書き、浅尾沸雲堂Click!の浅尾丁策(金四郎)Click!は結婚したての新居兼アトリエを建てたとしている。
しかし、同地番に阿部展也がアトリエを建てて住んでいたら、地元になんらかの伝承が残っているはずだが、そのような話をわたしは聞いたことがない。この地番へ大正期にアトリエを建てて住んでいたのは、1930年協会Click!へ出品していた笠原吉太郎Click!であり、わたしは前回の記事で笠原アトリエを借りていたのだろうかと疑問形で書いていた。しかし、笠原吉太郎の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!にうかがっても、そのような記憶はないといわれる。昌代様は結婚して下落合を離れているので、アトリエを人に貸していたとすればそのあとの時代ではないかと、わたしも山中様も想像していた。
だが、浅尾丁策の文章を読むと、ハッキリと「阿部さん自身の設計」による「瀟洒なホワイトハウス」だったとしている。また、川口軌外Click!の住居近くとも書いている。では、阿部展也がいたアトリエは、一ノ坂付近に建っていたのか?……というと、ことはそう簡単ではないのだ。なぜなら、先に書いた下落合2丁目679番地、つまり笠原吉太郎アトリエClick!の隣接地には、一ノ坂にアトリエを建てる間の仮住まいだったものだろうか、川口軌外が一時期住んでいたのを、同じく下落合(2丁目)679番地に住んでいた高良興生院Click!の高良武久Click!が証言しているからだ。
このような証言類を総合すると、下落合2丁目679番地の笠原アトリエの並びには、画家が借りて住めるようなアトリエ付き借家が建っていた……と解釈するのが、いちばん自然だろうか。この一画は戦災で焼けてはいないので、戦前の一時期に住んでいたのが川口軌外であり、戦後の一時期に住んでいたのが阿部展也だった……ということになる。でも、そう解釈はできても、浅尾丁策が書く「阿部さん自身の設計」した新築の「瀟洒なホワイトハウス」という課題がクリアできない。浅尾自身の記憶ちがいか、どこかで時系列の齟齬が生じているものだろうか。
浅尾丁策が、下落合のどこかに建っていた阿部展也アトリエを訪ねたときの様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』より引用してみよう。
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真夏の太陽がジリジリと照りつけるある日のこと、洒落た網シャツに白ズボン、小肥りのニコやかなお客さんが入ってきた。フィリピンに抑留されていた写真家であり絵も描かれていた阿部展也さんであった。引き揚げ間もない当時、滝野川に仮住居しておられ、綺麗な女性を連れておられた。フィリピン抑留中、現地の女優さんと結婚しお子さんが二人おられたが、どんな事情か、三人とも現地に残して帰国されたとのことであった。/その後、下落合の川口軌外さんの近くに新居を設け絵画一本に専念、当時の美術文化協会に籍を置き大いに活躍しておられた。その極めて明るい画面とユニークな着想が当時の美術文化展の花形となった。彼のアトリエには桂ゆきさんや杉全直さんなども時々顔を見せていた。下落合の新居は外地仕込みの阿部さん自身の設計になる瀟洒なホワイトハウスで、ここで前に連れてこられた綺麗な女性と結婚された記念にフィリピン在住の折、長時間を費やして描かれた貴重なデッサンを一点頂いて、今も大切に所蔵している。
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もし、浅尾丁策の記述が勘ちがいでなく事実だとすれば、阿部展也は川口軌外と同じように、一ノ坂の近辺に自宅兼アトリエが完成するまで、下落合2丁目679番地のアトリエ付き借家で仮住まいをし、のちに竣工した新築「ホワイトハウス」へと移っている……ということになるだろうか。だが、少なくとも1949年(昭和24)の秋まで、阿部展也のアトリエ兼住宅は下落合2丁目679番地にあったとみられ、「画家・阿部展也発見」展(2000年)の図録では同地番のアトリエで撮影された写真が掲載されているし、先の松浦万象の証言も西坂Click!上の同地番のアトリエを訪ねたときのものだ。
換言すれば、浅尾丁策が阿部展也アトリエ=「ホワイトハウス」を訪ねたのは、1949年(昭和24)の秋以降であり、それは一ノ坂上の川口軌外アトリエの近くに新居が竣工したあとということになりそうだ。そのつもりで、1960年(昭和35)に作成された「下落合住宅明細図」を参照すると、一ノ坂の途中に「阿部」家を発見することができる。下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の川口軌外アトリエから、一ノ坂を南へ70mほど下った左手、下落合4丁目1986番地に阿部邸が採取されている。この下落合4丁目1986番地という地番は、1932年(昭和7)11月から1939年(昭和14)7月まで、矢田津世子Click!が家族とともに暮らしたとみられる借家の敷地に隣接している。
ちなみに、「美術年鑑」に掲載の阿部展也の住所は、1957年(昭和32)まで下落合2丁目679番地となっていて、西坂上にいたことになっているけれど、彼が笠原吉太郎アトリエに隣接して新妻と住むアトリエ兼自宅を新築した……という伝承は地元では聞いたことがないし、川口軌外アトリエとは直線距離で600mも離れている。画家の最寄りのアトリエといえば、笠原アトリエをはじめ吉田博アトリエClick!や佐伯祐三Click!アトリエということになるだろう。「美術年鑑」の表記は、フィリピンに残してきた現地の妻および子ども2人と、下落合での新たな結婚と、なんらかの関係がある現象だろうか? また、阿部展也アトリエの近くには、美術文化協会の所属していた杉全直(すぎまたただし)のアトリエも建っていた。
さて、その阿部展也だが、落合地域では瀧口修造Click!と仲がよかったことでも知られている。阿部は浅野丁策へ、なにかの機会に西落合に住んでいた瀧口修造を紹介している。浅尾は、神田神保町にあった画材店「竹見屋」の再建プランナーとして、瀧口修造がピッタリだと思いあたった。竹見屋は、浅尾丁策が独立して店をもつ前に修行をしていた伝統のある高名な画材店であり、当時の経営者が死去したあと、画材には素人の弟があとを継いで、戦後の混乱期からなんとか再起しようと浅尾丁策に相談したのがきっかけだった。そのときの様子を、浅尾の前掲書から引用してみよう。
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幸いにも、私は阿部展也さんを通じて瀧口修造さんを識っていた。当時の瀧口さんはモダンアート評論家として名実ともに高く、お人柄も清廉潔白の方とお見受けしていたので、この方をおいて他にないと考え、早速下落合(ママ)のお宅を訪れ頼み込んでみた。原稿を書かれたり絵を描いたりのお忙しい日常の先生のことゆえ、お引き受けしていただけるかどうか危惧していたが、案に相違し大変喜ばれ、今、目をかけている若い作家が何人かいるが、その作品の発表の場がなくて困っていたところだ、しかも無料で使わせてもらえるとのこと、こんな都合の良いことはない、と話はトントン拍子にまとまり、やがて新進有望作家の展覧会が次々と開かれ、その都度新聞美術欄や美術雑誌に画評が掲載されるや、竹見屋画廊は日一日と観客の出入りが多くなり、したがって奥の画材店も繁盛するようになった。
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文中で「下落合のお宅」と書かれているが、西落合1丁目149番地(現・西落合3丁目)に建っていた瀧口修造邸、すなわち「西落合のお宅」の誤りだろう。
このとき、瀧口修造は各展覧会の初日には必ず竹見屋画廊へ詰めて、1日じゅう若い画家たちや画廊を訪れる観客と歓談していたらしい。中には、作品よりも瀧口に会いたくてやってくる訪問客もいただろう。各展覧会ごとに、浅尾丁策が用意したプランニング&顧問料を瀧口は固辞し、ついに一度も受け取ってはくれなかったようだ。
◆写真上:下落合2丁目679番地に建っていた笠原吉太郎アトリエ(道路右手)前に通う、西坂筋の尾根道=星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる笠原吉太郎アトリエとその周辺。笠原邸の南側に同じ仕様の家屋が2軒並んで建っているが、これがアトリエ付きの借家だろうか? 下は、一ノ坂に面した下落合4丁目1995番地の川口軌外アトリエ跡の現状。
◆写真中下:上は、1960年(昭和35)に作成された「下落合住宅明細図」にみる川口邸と阿部邸。下は、1961年(昭和36)撮影の空中写真にみる同所。
◆写真下:上は、阿部邸があった路地(右手)の現状。下左は、1961年(昭和36)に制作された阿部展也『四人の愉快な仲間達』。下右は、西落合にあったアトリエの瀧口修造。