落合第一小学校で撮影された1枚の写真を、かなり以前にご紹介Click!していた。(冒頭写真) それは、会議室か教室に集まった人々が、イスに立てかけられた1枚の絵に見入っているシーンだ。1977年(昭和52)に刊行された国友温太『新宿回り舞台―歴史余話―』に掲載されていた写真だが、解説には1966年(昭和41)3月6日に落合第一小学校の会議室で、佐伯米子Click!を招いて佐伯祐三Click!の1作、『下落合風景(テニス)』Click!(50号)を鑑賞しているシーンだと書かれていた。
この写真について、詳細な情報が判明したので改めて記録しておきたい。まず、上掲の『新宿回り舞台』に記載されたタイムスタンプが、誤りである可能性の高いことだ。当時、落合第一小学校Click!の岩本祝校長が主催した「下落合風景を囲んで」の集いは、1966年(昭和41)3月7日の午後に、同校会議室で開かれているとみられる。そして、同書掲載の写真には、岩本校長の姿はとらえられていない。左端は、岩本校長に招かれた佐伯米子Click!だが、校長はその陰になって頭の一部しか見えていない。立って発言しているのは、下落合3丁目1736番地にあった熊倉医院Click!の院長・熊倉進であり、その右横に座っているのは歴史作家の中窪愛之進だ。
なぜ、このシーンの詳細が判明したのかといえば、同日に「落合新聞」Click!の竹田助雄Click!もまた、落合第一小学校で開かれた「下落合風景を囲んで」に参加しており、同年に発行された落合新聞4月19日号に記事が掲載されているからだ。また、竹田助雄が撮影したこの集いのバリエーション写真も、同号の紙面に掲載されている。そして、そこには冒頭の写真とは異なり5人の人物が写っており、佐伯米子の陰になって見えなかった落合第一小学校の岩本祝校長もとらえられている。このとき、岩本校長は定年退職まで、あと20日あまりを残すだけとなっていた。
第19代校長だった岩本祝は、ことのほか文化的な活動や催しが好きだったらしく、落合地域でもっとも古い小学校である同校の沿革が、まったく記録されていないことを惜しみ、長期間かけて『落合第一小学校沿革誌』をまとめている。岩本校長が退職した当時、同校は創立74周年を迎えていた。現在(2016年)、創立124周年を迎える同校は1892年(明治25)7月7日、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にあった宇田川徳左衛門の旧邸で授業をスタートしたのがはじまりで、初代校長には葛ヶ谷Click!(西落合)で私塾を経営していた牧頼元が就任している。当時の全校生徒は、わずか30人にすぎなかった。
その後、1898年(明治31)に現在地となる下落合1309番地(現・中落合2丁目)へ、校舎を新築して移転している。この新校舎は、1903年(明治36)9月23日の台風によって全壊したが、教員の機転で生徒たちを早退させていたため、死傷者を出さずにすんだ。この台風については、淀橋小学校へ通っていた小島善太郎Click!の記事Click!でも過去に少し触れている。淀橋小学校でも校舎が全壊し、在校していた生徒や教員たちの多くが死傷している。そのほか、『落合第一小学校沿革誌』には関東大震災Click!の際の被害や学童疎開Click!、山手空襲Click!のときの様子などが記録されており、過去に出版されているとすれば、入手して一度は読んでみたい資料だ。
さて、「下落合風景を囲んで」のシーンにもどろう。佐伯祐三アトリエClick!の隣りに住み、同校の教師だった青柳辰代Click!によって寄贈された『下落合風景(テニス)』は、校長室に架けられたまま戦後を迎えた。そして、落合第一小学校が創立70周年を迎えた1962年(昭和37)11月16日に、記念行事の一環として同校で一般公開されている。この直後、1963年(昭和38)4月に岩本校長が就任すると、制作メモClick!によれば1926年(大正15)10月11日の制作時から戦後まで、一度もクリーニングされたことがなくクラックなどの傷みが激しかった画面へ、おそらく初めて修復の手が加えられている。以下、1966年(昭和41) 4月19日発行の落合新聞から引用してみよう。
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佐伯祐三画伯の油絵と南原先生の「自主創造」
ほかに沿革誌には、昭和二年頃の作と思われる佐伯祐三画伯描く「下落合風景」(五十号)と、昭和二十六年に頂戴した南原繁元東大学長筆「自主創造」の書のあることを両氏の略歴と共に記載。「下落合風景」は同校七十周年記念(昭和三十七年十一月十六日)事業のとき父兄一般に公開されたことがある。この絵は戦災などで汚れていたため、岩本校長が元芸大講師竹内健氏に依頼して修復なされた。
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わたしが1980年代に、初めて間近で目にした『下落合風景(テニス)』はあちこちにクラックが走り、厚塗りの一部の絵の具が剥落していたのを憶えている。したがって、1963年(昭和38)ごろに行われた最初の修復は、ほんの短期間で一時的な間に合わせのものだった可能性が高い。小学校の予算では、あまりコストをかけられなかったせいもあるのだろう。
佐伯の全画集でいうと、1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』には、一度も修復されず制作時からそのまま伝えられてきた、あちこちにクラックが走り絵の具の剥落が見られる画面写真が掲載されている。この写真が、1963年(昭和38)以前に撮影された修復前の画面の様子だろう。つづいて、1979年(昭和54)に朝日新聞社から出版された『佐伯祐三全画集』の収録画面は、岩本校長が第1次修復を終えたあとの画面で、現在の画面とはかなり異なっている。
わたしが1980年代に観た画面は、その応急処置的な第1次修復の画面が再び傷みだし、佐伯独特の厚塗りと下塗りが影響してか、クラックや絵の具の剥落が止まらなくなった時期のものと思われる。そして、新宿歴史博物館で保管されるようになってから、ようやく本格的な第2次修復が行われたという経緯なのだろう。ちなみに、文中に登場している南原繁Click!の書「自主創造」は、残念ながら一度も見たことがない。
同記事に添えられた写真には、冒頭写真の3人ではなく5人の人物がとらえられている。左端に立って、おそらく寄贈された『下落合風景(テニス)』の想い出を語っているのは、落合第一小学校の第7代校長の佐口安治、佐伯米子の斜めうしろに座るのが定年退職が間近な第19代校長の岩本祝だ。このとき、佐伯米子は「この絵、覚えていますわ」と答えたきり、あまり発言はしなかったようだ。当然、「佐伯画伯は、どこのテニスコートを描かれたのか?」という質問も出たのだろうが、足の悪い彼女が佐伯の制作に同行することはなく、また落合新聞にも具体的な描画ポイントClick!が紹介されていないので、目白文化村Click!のあたりぐらいで話が終わっているのだろう。
注目したいのは、写真にとらえられている『下落合風景(テニス)』の額だ。現在、同作はまるでフランスのルイ王朝時代を思わせる、金きらきんの派手な額に入れられているけれど、同画面には、いや佐伯の「下落合シリーズ」Click!の画面には、しぶくて落ち着いた木製額が似合うと思う。写真にとらえられている額は、おそらく青柳辰代Click!のセンスであつらえられたのだろう、寄贈当時のままの姿だと思われる。
◆写真上:1966年(昭和38)3月7日の午後に、落合第一小学校の会議室で開かれた「下落合風景を囲んで」の様子で左から佐伯米子、熊倉進、中窪愛之進。
◆写真中上:上は、1966年(昭和38)4月19日の落合新聞に掲載された岩本校長の退職と『落合第一小学校沿革誌』の記事。中は、1908年(明治41)3月に撮影された落合尋常高等小学校の卒業写真。背後の建物は、1903年(明治36)9月の台風で全壊した校舎を再建したもの。下は、落合新聞の同号に掲載された「下落合風景を囲んで」写真。左から第7代校長・佐口安治、佐伯米子、第19代校長・岩本祝、熊倉進、中窪愛之進の順。
◆写真中下:上は、1960年代に撮影された落合第一小学校の校舎。中は、1963(昭和38)ごろに行われた岩本校長による第1次修復後に撮影されたとみられる画面。大きなクラックの補修と、とりあえず絵の具の剥落を抑える処理のみが行われたとみられる。下は、新宿歴史博物館に収蔵された現在の画面。
◆写真下:佐伯の厚塗りと独特な下塗りのせいで、画面の随所にクラックや剥落が生じて抑えるのがむずかしい。『下落合風景(テニス)』の空(上)と雲(中)と地面(下)。