ドロボーによる被害が多かった曾宮一念Click!だが、1920年(大正9)に借りていて被害に遭った下落合544番地Click!の界隈は、どのような風情をしていたのだろう。当時の借家周辺を描写したエッセイを見つけたので、引用してご紹介したい。
下落合544番地の借家は、中村彝Click!アトリエの西側接道から北へ120mほど歩き、清戸道(現・目白通り)をわたった左手の一画に建っていた。この借家に曾宮一念は、ほんの短期間しか住んでおらず、すぐに淀橋町柏木128番地の借家Click!へと転居しているせいか、記憶にはいくらか思いちがいや事実誤認がみられる。では、1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』より引用してみよう。
▼
大正九年、落合の地所を借りた時は畑の畝にヒメムカシヨモギが藪をなしていた。練馬街道の南が落合村、北側が長崎村、この街道で交通のもっとも多いものは野菜、ことに大根の車で、菅笠姿の少女が車を後押をして行った。秋の練馬大根のぬかみそはうまかった。家の半ばは茅葺で大きな飯屋の前には馬を繋ぐ杭があった。川柳「柳多留」の「煮売屋の柱は馬に喰われたり」を思い出す。未明に馬力車がガタガタ鳴る音で目が覚めた。長崎村は殆ど麦畑で、画布をささげて(ママ)行くと湧水の洗い場に熟麦と大根の花が映っているので描きはじめた。
▲
この記述の中で、練馬街道と書かれているのが清戸道(せいどどう)Click!、すなわち現在の目白通りのことだが、この街道の南側のみが落合村なのではなく、曾宮の住んでいた街道の北側も、住所から自明のように落合村だった。(現在でもこの境界が豊島区と新宿区の区境になっている) また、曾宮が住んでいた目白通りの北へ食いこむ下落合に接していた、さらに北側の地域は「長崎村」ではなく、高田町雑司ヶ谷旭出(現・目白3~4丁目)だ。長崎村は、さらにその北または西方向に拡がるエリアだ。
ここに書きとめられている、「長崎村」の洗い場Click!がどこにあったのかは不明だが、周囲に麦畑が拡がっているところをみると、西側の長崎村荒井にあった泉が湧く傾斜地あたりまで、画道具を持って散策しているのかもしれない。
その後、曾宮一念は1921年(大正10)の3月、下落合623番地へ自宅+アトリエClick!を建てて引っ越してくるが、ここでもまたドロボーClick!に入られている。盗まれたのは、佐伯祐三Click!から第2次渡仏前にもらった黒いニワトリ7羽Click!で、佐伯が建ててくれた庭先の鶏舎から全羽が消え失せた。
大正期から昭和初期にかけ、東京郊外の住宅街には強盗Click!やドロボーClick!による事件が頻発していたが、絵画の展覧会をねらったドロボー事件も、頻繁に起きていたようだ。同書から、ふたたび引用してみよう。
▼
もっと我々に近い、展覧会での盗難が時々起った。だれも振り向いてくれない。我々は盗まれると新聞に載るから入場者が増えると笑ったが、大先生方には恐慌であったろう。画泥棒は流行のように広がり、東京から京阪を襲い、ロートレックの盗難も紙上で知った。だいぶ前モナリザが盗まれたのは伊太利人がナポレオンの戦利品と誤解して盗んだと言われる。私の友人高橋泰雄の日展出品画が盗まれ、彼は犯人だと疑われ迷惑したそうである。
▲
展覧会で絵が盗まれても、周囲からはどこか愉快犯的な捉えられ方をしていて、大事件ではないと思われていたフシがうかがえる。おそらく警察でも、別に深刻な被害が出たとは感じていなかったのか、親身になって捜査している様子が見られない。
当時は、「たかが絵じゃない。また描けばいいじゃないか」というような感覚が、世間ではいまだ一般的だったのだろう。だが、ある程度名前が知られている画家にとってみれば、長時間かけて制作した作品を一瞬で盗まれるわけだから、納品先が決まっていたとすれば取り返しのつかない深刻な被害だったろう。
曾宮一念も、実際に作品を盗まれている。こちらでもご紹介している、1925年(大正14)に描かれ第12回二科展に出品されて、樗牛賞Click!を受賞している『冬日』Click!だ。作品は、展覧会会場で盗まれたものではなく、作品を後援者に寄贈したあと、めぐりめぐって東京の企業で盗難に遭っている。つづけて、『武蔵野挽歌』から引用してみよう。ちなみに、文中にある「私の家」は、下落合623番地へ1921年(大正10)に建てた自宅+アトリエClick!のことだ。
▼
野菜の洗場は谷さえあれば必ずあり、私の家から見下す谷にも、四角な湧水が雲を映していた。幾度か描いたこの洗場の画の一つが戦後盗まれた。金にもならぬこの画は私には落合の形見として惜しい。(中略) 私は詐欺横領ともつかぬ不払には度々あった。これは画描きなら誰も泣寝入りで終る。大正の末年の唯一残っていた「冬日」は落合の住いの記念でもあった。当時私の後援者に寄贈したのが、転じて東京の住友化学社にあったのだが何人かに持ち去られた。こんなもの盗人には金にならず何のための盗みかわからない。花盗人は窃盗に入らず、我々の旧作はさがされず、犯人も捕われない。
▲
『武蔵野挽歌』が書かれた1985年(昭和60)当時、曾宮が哀惜をこめて書く『冬日』(1925年)の盗難だが、その後、同作は無事に発見されて、現在では静岡県菊川市の常葉美術館に収蔵され、展覧会などで目にすることができる。作品の転売ルートを通じて、犯人が逮捕されたかどうかは、さだかでない。
余談だが、1962年(昭和37)に5代目・目白駅Click!が完成し、翌年には新しい跨線橋が竣工している。その跨線橋に絵画の展示スペースが設けられたのだが、さっそく展示作品を盗まれている。その詳細に関しては、機会があれば、また、別の物語で……。
◆写真上:早稲田大学図書館に収蔵されている、1923年(大正12)11月に制作された曾宮一念『風景』。下落合へ画室を新築する際に援助してくれた津田左右吉Click!へ寄贈したもので、落合地域かその周辺域を描いた一連の作品とみられる。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる曾宮一念が短期間住んでいた下落合544番地界隈。下は、目白通りに面した同地番の現状。
◆写真中下:左は、曾宮夕見様Click!の装丁による曾宮一念『武蔵野挽歌』。右は、1988年(昭和63)にアトリエで撮影された95歳の曾宮一念。
◆写真下:一時盗難で行方不明になっていた、曾宮一念『冬日』(常葉美術館蔵)。