洋画家の三上知治Click!が、下落合(2丁目)753番地(のち741番地)にあった満谷国四郎アトリエClick!の西隣りへアトリエを建設したのは、フランスへわたる以前の1921年(大正10)ごろのことだと思われる。渡仏中は、下落合752番地(のち753番地)に建っていた三上邸は、一時的に北島という人物が借りていたようで、1925年(大正14)の「出前地図」Click!で名前を確認することができる。太平洋画研究所のつながりから、満谷国四郎が三上を近くへ呼び寄せたものだろう。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、満谷国四郎Click!と三上知治がともに掲載されているけれど、満谷が人物紹介までされているのに対し、三上は「洋画家 三上知治 下落合七五三」と、住民の一覧に名前を載せているにすぎない。これは、12歳年上の師匠格にあたる満谷に対して遠慮したものだろうか。もうひとり、三上の太平洋画研究所を通じての師に近い先輩として、下落合(2丁目)667番地にアトリエをかまえていた吉田博Click!がいる。
戦後の1964年(昭和39)5月20日に発行された竹田助雄Click!の「落合新聞」Click!には、三上知治の描いたスケッチとともにエッセイが掲載されている。この記事のとき、三上知治は下落合に住みはじめてから、ちょうど40年と少しが経過していたはずだ。このあと、1974年(昭和49)に87歳で死去するまでの50年余を下落合ですごしており、画家の中では下落合(1丁目)540番地の大久保作次郎Click!(1973年歿)や、下落合(2丁目)661番地の佐伯米子Click!(1972年歿)に匹敵する、長い下落合暮らしだった。
落合新聞の同号から、「下落合の住居」と題された三上の文章を引用してみよう。
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下落合に住着いてから四十余年になる。関東大震災の前に此処に家を建てたが、其頃の落合村は鄙びた趣があって狸が出るという噂があった位、鬱葱たる森があって却って風雅な処であった。/目白大通りは早暁から汚穢車が轣轆(れきろく)として列を成し、頗る異観であった。今の自動車混雑を思へば今昔の感が深い。道は砂礫を上へ上へと布(ふ)くので中央が高くなって蒲鉾型になり、道端を歩く時は躰が斜めになって甚だ歩きにくい。其後今の道路に改装されたが、其道普請工事が又頗るノロノロ工事で一年余もかかり、人通りも寡くなって店は商売が無く、夜逃げをした商人もあるという噂もあった位だ。
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「噂」ではなく、都心となった21世紀の今日でもタヌキClick!は出るのだけれど、「鬱葱たる森」は旧・下落合の東部Click!にしか、もはや残されていない。
三上知治のエッセイとともに掲載されたのが、高所から鳥瞰した下落合の風景だ。(冒頭写真) この絵が掲載された当時、下落合はいまだ江戸期と同様に目白学園西端までの広さClick!があり、東は山手線沿いの近衛町Click!から、中央の目白文化村Click!、そして西のアビラ村(芸術村)Click!を含む、東京の市街地でも屈指の町域だったろう。画面の右手遠方には、井上哲学堂Click!の森と荒玉水道Click!の野方配水塔Click!が見え、手前には大きな西洋館がポツンと描かれている。
三上知治によれば、敗戦直後に国際聖母病院Click!の屋上から西を向いて描いているとのことなので、手前の西洋館は第三文化村の吉田博アトリエClick!だ。太平洋画研究所の大先輩ということで、吉田アトリエを入れて描いたものだろう。描画ポイントは、吉田アトリエの南壁面が斜めに見える、“L”字型をしたフィンデル本館の屋上南端あたりだ。空襲の焼け跡があちこちに拡がる情景なのだろう、バラックのような小さな家々の屋根が描かれている。この角度から見える風景は、第三文化村から第二府営住宅Click!、そして画面の中央から左寄りが第一文化村界隈ということになる。
再び、三上知治のエッセイ「下落合の住居」から引用してみよう。
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茲は池袋と新宿の中間で空気も良く、住宅街としては尤も好適である。住宅街の樹々の美しさは都会と自然との佳き聯絡(れんらく)であり憩である。早く電信柱が無くなって不体裁な広告版が消えて無くなる時代が来ればよいと思う。/四月廿八日記/(示現会委員)
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なんだか、大正期に下落合の土地を売る箱根土地Click!や、東京土地住宅Click!の広告コピーのような表現だけれど、よほど下落合が気に入っていたのだろう。
道路沿いの共同溝化による電柱の撤去は、いまようやく新目白通りや聖母坂、目白通りなどの大通り沿いで進んでいるものの、住宅街の中まではいまだ進捗していない。電線(電力線)は共同溝へ埋設することができても、技術的な進化が非常に速く、メンテナンスが頻繁に発生する通信キャリアのデジタルケーブルの扱いが、今後の大きな課題だろうか。現状はまだ1Gbps回線が主流だが、少し前までデータセンター仕様だった10Gbpsのケーブルが、家庭までとどく時代がすぐそこまで迫っている。
三上知治はイヌ好きとして知られており、昭和初期にはイヌをモチーフにした作品を数多く残している。いちばん好きなのがシェパードだったらしいが、下落合のアトリエでも何匹か飼っていたのだろう。だが、戦争でイヌを飼うどころではなくなり、人間が口にする食べ物も満足に入手できなくなったとき、三上はイヌたちをどうしたのだろうか?
◆写真上:敗戦直後に国際聖母病院から描かれた、三上知治『下落合風景』(仮)。
◆写真中上:上左は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』に掲載された三上知治。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる三上知治邸。同図は、ときどき地番もまちがえて採取している。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる三上知治の描画ポイント。
◆写真中下:上は、1945年(昭和)8月29日(米国時間28日)に米軍の抑留者救援機から撮影された国際聖母病院。下は、2006年撮影の懐かしい第三文化村の街角。
◆写真下:上は、落合新聞1964年(昭和39)5月20日号に掲載された三上知治のエッセイ「下落合の住居」。下は、1934年(昭和9)に渡辺仁の設計で建設された下落合667番地(第三文化村)の吉田博アトリエ。(提供:吉田隆志様Click!)