東京藝大の門前に店をかまえる浅尾佛雲堂Click!の浅尾丁策Click!は、数多くの画家たちとのつき合いが長く、自身でも国内外の作家を問わず作品のコレクションをつづけている。その中に、1929年(昭和4)ごろに描かれた松下春雄Click!の風景作品があった。時期的にみて、この風景画は松下春雄が下落合1385番地の借家Click!に住んでいたころの作品で、描かれているのは「下落合風景」の可能性が高い。
浅尾丁策は、松下春雄の遺作展で入手した『太海風景』を所有していたが、友人に貸したまま行方不明になっていた。新たに松下の風景画を手に入れた経緯を、1980年(昭和55)8月13日に書かれた彼の日記から引用してみよう。
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松下春雄さんは鬼頭鍋三郎さんの同郷の名古屋出身と聞いていた。同じく同郷の太田三郎先生の紹介で色々と仕事を貰うようになった。岡田三郎助先生に師事し毎年春は春台美術展に、そして秋は帝展に出品されていた。帝展特選は鬼頭さんより少し早く受賞していたように記憶している。江古田の水道タンクのすぐ傍に隣り合ってアトリエを作り互いに将来を競っていたが、当時、白血病の奇病に侵され夭折された。没後遺作展の時、太海風景(〇号二枚つづき)を買い求めたが、その後友人に貸したまま行方不明になって甚だ残念に思っていた。何年ぶりかで、モチーフは異なれど、彼の作品にめぐり会えた喜び、即刻買い求めコレクションに収納した、(ママ)この作品の額縁も当時私の製作にかかったものであった。
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江古田の水道タンクは、野方配水塔Click!のことであり、松下春雄と鬼頭鍋三郎Click!のアトリエClick!が建っていたのは、西落合1丁目306番地(のち303番地)だ。
さっそく、画面を観察してみよう。画家の視点は、斜面のやや高い位置から住宅街を見下ろしており、光線は背後のやや左上から射しているように見える。昭和の最初期にしては、家々の屋根が重なるように並んでいるので、市街地化が比較的早く進んだエリアだろう。遠景の右手には、ほとんど傾斜角45度ほどもありそうなバッケ(崖地)が見え、その上部にも住宅のようなフォルムが見えている。その住宅が描かれたところが丘上か、または斜面にひな壇状の敷地を設けた丘の中腹なのかは、右端が切れているのでわからない。また、左手の遠景には西洋館の切妻か、ないしは家の向こう側に繁る樹木かが不明な、三角に突出した曖昧なかたちの表現が見える。手前の家々は、当時の勤め人が住んでいそうな一般的な戸建て住宅で、特に凝った建物の意匠はしていない。
遠景右手に見える急斜面が、目白崖線につづく丘の斜面だとすれば、この風景は丘の麓に拡がる住宅街ということになる。しかも、丘が右手から突き出しているので、松下春雄は目白崖線の麓のどこかから、西側を向いて描いていることになる。太陽の光やモチーフの影も、その方向感覚と矛盾しない。すなわち、画面の右手が北側で、左手が南側ということになる。
だが、昭和の最初期に崖線が見える丘のすぐ下で、このように住宅が密集しているエリアとなると、そう多くはない。下落合の西部よりは、東部の可能性が高いだろう。1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、下落合西部の丘下にこのような住宅が建ち並び、北側から急斜面の崖地が張りだして見える場所は存在していない。むしろ、江戸期から拓けて家屋が建っていた、下落合の東部にある雑司ヶ谷道Click!沿いの小字・本村あたりが、もっとも適合する地域に思える。
わたしは当初、右手から張りだしている崖地を、西坂Click!が通う徳川邸Click!の丘だと考えた。松下春雄は、何度も西坂の徳川邸を訪ねて、庭のバラ園Click!や旧・徳川邸の母家を描いているからだ。だが、聖母坂Click!が造成される前のそのあたり一帯は、ところどころに湧水池が散在する湿地帯で、このような住宅街は形成されていない。しかも、西坂の丘のすぐ東側には、久七坂の通う丘が大きく張りだすように迫っており、このような開けた空間はない。
当の松下春雄が描いた『徳川別邸内』Click!(1926年)には、徳川邸の南庭の東寄りに造園されたバラ園ごしに、まるでベルギーワッフルのようなコンクリートの擁壁が築かれた、久七坂が通う丘の崖地が大きく南へせり出している様子が見てとれる。1930年(昭和5)の1/10,000地形図(1929年修正図)を参照すると、現在の聖母坂の下にあたる低い位置には、いまだ人家もまばらで住宅の建ち並ぶような風情は存在しない。だが、もう少し東へ視線を移すと、このような崖地が西側に突き出して見え、比較的人家が多いエリアに下落合氷川社Click!の手前、すなわち七曲坂Click!の下がある。
七曲坂は、非常にうまく開拓された坂道だと思う。鎌倉時代に、丘下を通る鎌倉街道(雑司ヶ谷道)から北側へ向けて拓かれたと伝えられているが、確かに相州鎌倉の周囲に造成された街道の切り通しと、とてもよく似ている。東側を大倉山(権兵衛山)Click!に、西側をタヌキの森Click!(下落合東部では最高点の標高36.5m)に挟まれた、急斜面のバッケClick!(崖地)を切り拓いている。そのまま坂道を敷設すると、とんでもない急角度のバッケ坂になってしまうため、坂の上部から中ほどにかけて深く掘削して切り通しにし、しかもいくつかのカーブをつけることで傾斜角を抑えている。
そして、坂の下部は街道筋へ抜けるまで、上は厚く下は薄く盛り土をして土手を築き(おそらく切り通しの掘削で出た土砂を盛っているのだろう)、その土手の上に坂道をつけて坂上からの傾斜角を緩め、丘下の街道筋へと繋げている。つまり、坂の下部をタテに切りとると、盛り土をした土手部分に三角形の断面ができることになる。
こうして、坂道の傾斜角をできるだけ緩和し人馬、ときに幕府の騎馬軍団がたやすく通れるようにした切り通し状の坂道は、まさに「鎌倉方式」とも呼べる土木手法だ。ただし、現在は斜めだった坂下の土手部分が切りとられ、坂道を支える垂直のコンクリート擁壁ができ、坂道のギリギリまで住宅敷地が確保されて家が建っている。ちなみに、七曲坂の下には鎌倉時代の1307年(徳治2)の記銘が入った板碑(薬王院収蔵)が見つかっており、このエリアに鎌倉時代から集落のあったことがうかがわれる。
さて、画面の風景にもどろう。松下春雄は、七曲坂の最下部から西側の土手へと少し下り、西南西を向いてスケッチしはじめているのではないか。手前の家々は建設されたばかりで、大正期までは“「”型をした大きな農家・高田家が建っていた敷地だ。1899年(明治32)10月の下旬、近くのダイコン畑で捕獲されたニホンジカを、この家の高田九兵衛が引きとって飼っていたエピソードはこちらでもご紹介Click!した。当時、高田九兵衛は“鹿男”として近隣では有名だったろう。おそらく昭和に入って高田家が広い庭に借家を建てたか、あるいは土地会社に敷地を売却したかで、住宅が建てられたのだろう。
遠景右手から半島状に張りだしている崖地は、1967年(昭和42)に宅地開発で大きく崩されることになる、下落合横穴古墳群Click!が発見された薬王院西側の急斜面だ。西坂・徳川邸の崖地は、その陰に隠れて見えない。高い木々が生えていないように見えるが、この時期にもなんらかの造成工事が進行中だったのかもしれない。すなわち、崖の上に描かれている住宅らしいフォルムは、位置的に見て池田邸Click!の可能性が高い。だとすれば、この位置は丘の頂上ではなく、丘上から1段下がったひな壇状の敷地ということになる。そして、丘の頂上から池田邸を見下ろすように描いたのが、佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!(1926年10月1日/見下シ?)ということになる。
諏訪谷から薬王院の墓地(旧墓地Click!)、そして久七坂にかけては1926~1927年(大正15~昭和2)の佐伯祐三の散歩コースClick!であり、4年前の描画ポイントだらけなのを知ってか知らずか、松下は薬王院沿いのいずれかの坂から斜面を下り、崖下の雑司ヶ谷道へと抜けた。薬王院の門前から東へ少し歩くと、ほどなく下落合氷川社の杜がこんもり繁る七曲坂の真下に出た。当時は、氷川社のすぐ南側に下落合駅Click!があったので、松下は西武線に乗って省線の高田馬場駅まで出るつもりだったのかもしれない。
松下春雄は、七曲坂の坂下に築かれたなだらかな土手に腰をかけ、いま歩いてきた西の方角をしばらく眺めたあと、おもむろにスケッチブックを開いた。初夏の強い光が新築住宅の屋根瓦やスレートに反射し、気の早いトンボが彼の目の前を横ぎっていく。
◆写真上:1929年(昭和4)ごろに描かれた、浅尾家所蔵の松下春雄『下落合風景』(仮)。
◆写真中上:上左は、鎌倉時代の年紀が入った板碑。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる七曲坂の下部で、このころまでいまだ坂道の土手がつづいていたとみられる。中は、七曲坂の現状。下は、1955年(昭和30)8月に撮影された七曲坂。
◆写真中下:上は、突き出た右手の丘が宅地造成のために崩される様子。1966年(昭和41)1月16日の撮影で、下落合横穴古墳群の発見で工事がストップした直後の様子と思われる。(撮影:竹田助雄) 中は、現在も土手の痕跡がハッキリ残る坂下の道。下は、松下春雄『下落合風景』(仮)の描画ポイントの現状。ここにも土手跡が残っており、松下春雄は土手の上部に腰を下ろしてスケッチをしたのだろう。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイントと画角。中は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。シカを飼っていた高田家の大きな家が、いまだに描かれたままになっている。下は、1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景』。丘上から1段下に建つ、池田邸の屋根を見下したところ。