1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!のとき、丘陵から強い北風が吹きぬける夜空を、落合と上高田の地域住民は見あげていた。トンボほどの大きさに見えるB29の大編隊が、(城)下町Click!の大空襲による大火災の照り返しを受け、銀色の機体をキラキラ光らせていた。「ミーティング・ハウス2号」作戦と呼ばれた東京大空襲には、マリアナ諸島に配備された325機のB29が投入されている。
東京大空襲は大川(隅田川)の沿岸地域と、おもに大川の東岸地域を中心に行なわれ、山手の深部地域には焼夷弾および爆弾をほとんど投下していない。したがって、空襲警報の当初は防空壕などへ退避したものの、ねらわれたのが乃手地域ではないことがわかると、防空壕から出て丘上などから(城)下町が真っ赤に燃える様子を眺めながら、「明日はわが身だ」と感じていた住民たちが数多くいた。
上高田300番地のヤギ牧場Click!を閉業し、少し離れた同じ東中野の駅近くに住んでいた秋山清Click!も、下町一帯の大火災を唖然としながら見つめていた。彼は乃手の空襲ではないとわかると、防空壕ではなく妻や子を連れて自宅の部屋へともどり、窓からその様子を眺めている。昼夜の別なく、警戒警報や空襲警報が出るので慢性の睡眠不足がつづき、少しでも空いた時間があればすぐに熟睡できるような状態だったが、秋山は窓外から空襲の様子を熱心に見ていた。上高田から本所・深川地域までゆうに15kmほどはあるが、燃える下町の大火焔で部屋の窓近くでは新聞が読めるほどだったという。秋山は、「四号くらいの活字」がハッキリ読めたと記録している。
いくつかに分かれたB29の大編隊は、(城)下町方面から東中野あるいは落合方面へと低空で侵入すると、その上空で大きく転回しながら再び燃える下町の上空へと引き返していった。そのときの様子を、1986年(昭和64)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
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そこにあの夜のB29大編隊の爆撃が来た、その夜、空の、夜半から夜明けまでの攻撃が来たのだ。二組の母子が、狭い家の部屋の中に坐っていて、本所、深川、銀座、日本橋、上野、浅草、芝、神田、麹町、と自由勝手に空を埋めんばかりの襲撃を、ただただ見ているばかりだった。巨大なトンボがギラギラ光る腹を見せて、ちょうど自分らの頭の上に来て方向転回して飛去る。五〇〇メートル、七〇〇メートル、一〇〇〇メートル、そんなそらの近くを自在に上から焼夷弾を落として行く。紙と材木で出来た家の燃えること。夜の底にうごめいて、東西南北の方角のただ一つ西の方が、いくらか暗いが、それ以外の空の広さが燃えさかる。あの夜はひどい北風で、焼けただれる条件があますところなく備わっていた。/いま私はあの暴虐な襲撃について、そんな記憶だけを持っている。
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おそらく、B29の大編隊が東中野から落合地域の上空で転回し、再び攻撃目標である(城)下町地域へともどって反復爆撃を行なう戦術は、あらかじめ図面上で綿密に練られた作戦上のフォーメーションだったのだろう。
東京大空襲は、高度わずか1,000~2,000mほどで実施された、これまでにない超低空夜間爆撃なので、地上の目標物を目視で探すのも容易だったとみられる。落合や東中野、あるいは上高田の地域に見える、地上のなにを目標にして、次々とやってくるB29の編隊は転回していたものだろう。
ひょっとすると、山手線と中央線が北へ二股に分かれて見える、特徴的な新宿駅を目印にし、その上空をすぎた時点で再び攻撃目標を探すために、大火災で赤々と照らし出された下町の方角へ向け、大きく転回していたのかもしれない。そう仮定すれば、東中野や上高田、落合地域の上空へ次々と大編隊が飛来しては、ふたたび下町方面へと飛び去っていく理由が説明できるのだ。
翌日、秋山清は勤め先である深川の木場にあった事務所へ“出勤”しようとしている。そこで、中央線がいつものように平然と運行されているのに驚く。東中野駅から四谷駅までの短い区間だったが、そこから歩いて大川の永代橋をめざして歩いている。そして、動いている電車がすべて無料であることに気がついた。すでに、料金を徴収し客を乗せて運行するという東京じゅうの交通事業が、一夜にしてすべて崩壊しているのを知った。その様子を、同書から再び引用してみよう。
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その時私ははじめて、人々が誰もかれも乗車賃を支払わないで、改札口を渡り、外に出て、それぞれの方向に動いてゆくのを見た。ちょっと不思議に思えたが、これはたしかに私の方が理解を間違えていたのである。/電車は出来るだけ運転されて、市民を運べばよく、人々は目的地に向かって、少しでも、うごいている電車を利用すればいい。/いいかえれば、ニッポン国の「国鉄」といえどもあまりな敗北と壊滅のなかに、自分らが、国民から国家として料金を徴集するすべをうしなっていたのである。ある変革に伴って必ず起こるべき現象にすぎなかったのである。起こらねばならぬ変化が、ふと指導も指揮もない街に出現したのである。
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このとき、軍隊や警察、行政の各役所は死者・行方不明者10万人以上、罹災者数百万人の壊滅的な東京市を目の前に、ただ立ちすくむだけだった。仕事がある人間は、その惨状の意味を深く考えることをやめ、ただ目先の業務をいつものように機械的にこなすだけだった。秋山清が、すでに跡形もない会社へ出勤しようとしているのも、そんな心理のあらわれだろうか。
そして、彼はハタと気がついた。秋山が夢想していた、文字どおり「無政府」状態が眼前に出現していたのだ。永代橋には、「用なき者が被災地に行くのは許さぬ」と、深川方面へ渡ろうとする人間を阻止するために、形ばかりの兵士たちが着剣姿で派遣されていたが、彼らはなにもせず、ただ呆然と焼け跡や避難民を見つめているだけだった。
1946年(昭和21)の春、秋山清は金子光晴や岡本潤、小野十三郎の4人で詩誌『コスモス』を創刊している。同誌に掲載された、秋山清が東京大空襲を回想して創作した「赤いチューリップ」の一部を引用してみよう。
私はみた。
泥にまみれた五つのシャレコウベを。
木屑のように積みあげられた
手の骨と足の骨を。
ビール瓶に
赤いチューリップをさし
せんべいとアンパンが供えてあるのを。
水道工事が掘りだした骨のまえで
十四五人の子供と
おかみさんが五六人拝んでいるのを。
木場のちいさな運河のほとり。
風もないひるどきの五月の光りのなかに
線香の煙がまっすぐ立ちのぼっていた。
現在でも、ビルの建て替え現場などの地下工事で、東京大空襲のときにやむをえず仮埋葬された、あるいは行方不明だった被害者たちが見つかっている。何度も書くが、夏になると「心霊スポット」や「怖い話」などが話題になるけれど、東京の市街地全体が膨大な犠牲者(関東大震災Click!の犠牲者も含む)の眠る「事故物件」であり、街丸ごとが「心霊スポット」であることを、決して忘れてはイケナイ。
◆写真上:下落合の斜面から見上げた初秋の空。
◆写真中上:上は、上空の編隊に合流するためだろうかゆっくりと右旋回をはじめたB29の編隊。下は、2010年(平成22)3月に撮影した下落合の空。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機によって撮影された第1次山手空襲Click!直前の落合・上戸塚・上高田・東中野地域。下は、2011年(平成23)3月10日の東京大空襲記念日に写した下落合の空。東日本大震災が起きる前日の空でもある。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)7月9日に撮影された落合・上戸塚・上高田・東中野地域。下は、2013年(平成25)3月に撮影した下落合の空。