明治末から大正期にかけ、新聞紙上には「大久保文学倶楽部」という言葉が頻繁に登場する。のちに日本評論社を創立する茅原茂が、1910年(明治43)4月に西大久保の自宅を開放して、文学サロンをつくったのがはじまりだったとされる。たとえば、文学倶楽部へ集まったメンバーには、吉江孤雁や前田夕暮Click!、中田貞市、神崎沈鐘、桝本清、柳川春葉、鈴木悦、多田鉄雄、鈴木悦、北村季晴、天野初子などがいたという。
大久保町は、さらに北側に位置する戸塚村や落合村よりも早くから住宅街として拓けており、明治時代の新聞には同地域のニュースが頻繁に取り上げられている。もっとも、ここでいう大久保エリアとは現在の山手線・新大久保駅や中央線・大久保駅の位置ではなく、もっと東寄りの地域概念だ。両駅は大久保町の西はずれ、江戸期には鉄砲組の同心屋敷があった百人町にあって、明治期には「躑躅名所の百人町」ではあっても大久保町内の感覚は希薄だったろう。山手線の停車場ができるとき、当初は「百人町停車場」と地図にも記載されており、地元では「新大久保停車場」とは呼ばれていない。
大久保文学倶楽部の「大久保」概念とは、大久保町の西大久保と東大久保、すなわち現在の新宿6~7丁目から歌舞伎町2丁目、大久保1丁目にかけての地域で、すべて山手線の内側だ。新宿停車場にも近く、また百人町のツツジ園が東京の花見名所となっていたため、毎年4月になると遊山客でごったがえす街だった。ただし、シーズンをすぎると武蔵野Click!の面影を残す閑静な住宅地となるので、新宿の繁華街に近いこともあって文士たちに好まれたのだろう。
大久保文学倶楽部にはビリヤード台が設置され、また闘球と呼ばれたコリントゲームに似た遊戯が盛んに行われていたらしい。だが、新聞に報道されたのは、そのような内々のゲーム大会のみではなく、もっと規模の大きな運動会などの催事だった。たとえば、1911年(明治44)4月13日の読売新聞には、大久保文学倶楽部の催事が「よみうり抄」へ告知されている。
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◎大久保文学倶楽部
府下西大久保の同倶楽部にては増築落成並に創立一周年記念として十六日(日曜)新築会場にて闘球会を二十三日(日曜)にテニス会を催ふす、何れも飛入随意の由
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このようなゲーム大会やスポーツ大会、文学講演会などが頻繁に開かれていた様子が、当時の新聞記事からうかがえる。また、同倶楽部は茅原茂の自宅を増築して、より大きな“サロン”を確保したのだろう、その活動は徐々に規模が大きくなっていく。
たとえば、新聞記者(おそらく文芸部の記者)たちとの野球大会も新聞には記録されている。野球大会は、早稲田大学の運動場を借りて行われ、1911年(明治44)12月17日の午後1時から試合がスタートしている。同日の新聞には、「本日の運動」という欄が設けられ、「新聞記者対大久保文士野球 午後一時早大運動場」という告知が載せられている。翌12月18日の読売新聞から、試合の様子を引用してみよう。
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記者団勝つ
天狗を一蹴し稲門混成団に破れた記者団は昨十七日正午より大久保倶楽部の挑戦に応じて戸塚に本社の小泉氏の参列に依つて戦ふ、記者団は谷、野尻、大久保は山下(明大選手)若松(旧青山選手)のバツテリーなりしも記者方頗る振ひ結局五プラスA対零(五回ゲーム)を以て記者方の大勝に帰したり
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午後1時から試合スタートと、前日に紙上へ告知しているにもかかわらず正午からはじめてしまうおおらかさ(いい加減さ)や、自社の人間に「氏」をつけてしまうていねいさ(非常識)はさておき、「天狗」とは当時のタバコメーカーである「天狗煙草」Click!の社内野球チームだと思われ、稲門混成団とは早稲田大学野球部のOBたちがつくったチームなのだろう。5プラスA対0という試合結果が、どのような得点の上げ方なのかは不明だが、とにかく大久保文学倶楽部側はバッテリーに大学野球の助っ人を連れてきたにもかかわらず、記者団チームに敗れているようだ。
このあと、大久保文学倶楽部の常連となった人々には、斎藤弔花や岩野泡鳴、岩野清子、水野葉舟、神崎沈鐘(画家)、徳田秋声、柳川春葉、平塚断水、正宗得三郎(画家)、徳田秋江、吉江孤雁、前田夕暮、中田貞市、桝本清、鈴木悦、田中冬二らの名前が見える。
当初は文学関係者のみのクラブだったが、メンバーには大久保町界隈に在住する画家たちの名前も加わるようになっていた。そのせいだろうか、1911年(明治44)10月28~30日の3日間にわたり、大久保文学倶楽部で初の洋画展覧会が開催されている。同年10月29日付けの読売新聞から、洋画展覧会の様子を引用してみよう。
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大久保の洋画展覧会
青年画家藤田、小寺、鈴木の三氏が発起となつて昨日から三日間大久保文学倶楽部に第一回の洋画展覧会を開いた、大久保の秋景色を見晴す各室内に中澤、三宅、正宗、南諸氏以下の絵画数十点を懸け連ねてあつたが、その中で正宗氏の海は極めて小いさな物であるが、甚だ感じの好いものであつた、藤田氏の「湖畔の朝霧」は木立の中に霧の立こめた柔かさうな色合が多くの人の眼を惹いた、また同氏の「兵士」の顔付き工藤氏の「浜辺」の船の形、小寺、田崎氏の花等夫々能く出来て居た、中澤、三宅氏の水彩画 南氏の倫敦、巴里の風景画は何れも淡さりした美しかつた(ママ)
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当時、大久保界隈に住んでいた洋画家たちの名前が何人か登場しているが、「藤田」は藤田嗣治Click!、「小寺」は小寺健吉、「鈴木」は鈴木秀雄、「中澤」は中澤弘光、「三宅」は三宅克己Click!、「南」は南薫造Click!、「工藤」と「田崎」は不明だ。
大久保町界隈の住民にとっては、年に一度の大きな楽しみのひとつだった大久保百人町のツツジ園は、大正期に入ると急速な宅地化の波に押されて規模を縮小していく。臨時列車が増発され、東京じゅうから花見客を集めた広大なツツジ園だったが、1913年(大正2)4月には「日の出園」と「躑躅園」のわずか2園を残すのみとなっていた。大久保文学倶楽部でも4月の花見は行われ、洋画家たちはツツジ園の情景を描いているのだろうが、目立った作品は残されていない。
◆写真上:新宿側から眺めた、たそがれの東大久保(現・新宿6丁目)界隈。左手の緑は西光庵と西向天神で、正面の高層ビルは西巣鴨(現・東池袋3丁目)のサンシャイン60。
◆写真中上:上は、1915年(大正4)制作の三宅克己『冬の小川』。大久保町の北側に接する、戸山ヶ原Click!の情景を描いたとみられ小川は大久保から流れこむ金川(かに川)Click!の可能性が高い。下左は、大久保地域に集った作家たちを丹念に調査した茅原健『新宿・大久保文士村界隈』(日本古書通信社/2004年)。下右は、1914年(大正3)作成の「大久保町全図」に収録された大久保百人町のツツジ園界隈。左側が中央線・大久保停車場で、右側が山手線・百人町停車場(現・新大久保駅)。
◆写真中下:大久保町の南側に隣接していた繁華街の新宿通りで、1901年(明治34)に撮影された新宿通り(上)と高野果実商店(現・タカノ)の店先(下)。
◆写真下:上は、1911年(明治44)10月28~30日に開かれた大久保文学倶楽部の第1回洋画展覧会記念写真。右から左へ藤田嗣治、茅原茂、鈴木秀雄、小寺健吉。下は、1906年(明治39)ごろに発行された人着「大久保躑躅園」の記念絵はがき。
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大久保文学倶楽部と洋画展覧会。
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