以前、長崎町荒井1801番地の草土社Click!仲間である河野通勢Click!を訪ねたが留守で、行き先として教えられた長崎バス通りClick!にある映画館「洛西館」Click!(のち目白松竹館Click!)を訪ねても館内に河野の姿は見あたらず、カンシャクを起こす寸前で目白通りを目白駅まで引き上げてきた、岸田劉生Click!のエピソードを書いたことがある。このあと、日本橋にあった滞在先の友人宅へ帰るのだが、カギがかかっていて締め出され2階の窓伝いに滞在していた部屋へともどり、ついにはキレて怒り狂ったらしい様子が記録されている。劉生が関東大震災Click!の避難先である京都から、二度めに東京へともどった1924年(大正13)8月15日のことだ。
そのほぼ同時期に、河野通勢Click!が描いた『長崎村の風景』の画像を、ある方からお送りいただいたのでご紹介したい。1924年(大正13)は関東大震災が起きた翌年であり、東京15区の市街地に住んでいた人々が、より安全な郊外の郡域へと“民族大移動”をはじめた年でもある。以前から「生活改善運動」Click!の概念とともに、目白文化村Click!や洗足田園都市Click!などをはじめとする郊外住宅ブームは顕在化していたが、大震災をきっかけに郊外への爆発的な人口流入に拍車がかかった。1924年(大正13)は長崎村の最後の年度であり、翌1925年(大正14)には町制が施行されて長崎町となっている。
大正末から昭和初期にかけ、落合地域や長崎地域には持ち家や借家を問わず次々と住宅が建てられ、一大建築ブームが起きている。そんな建設ラッシュや工事中の街角を写した画面が、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!であり河野通勢の『長崎村の風景』ということになる。画面の裏には、「東京長崎村之風景也/小生関東大震災に会いしはこの所にて左手の門のある処には劇作家松居松翁氏が住み居られなり」と記載されている。つまり、左端に白く門柱の描かれた家が松居松翁邸だ。住所でいうと、長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)ということになる。
松居松翁Click!についても、かなり前に「光波のデスバッチ」とともに、最晩年の下落合(2丁目)617番地の住まいをご紹介したことがあった。それ以前、松翁は下落合を転々としている。以下、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌編纂委員会)から、松居松翁の人物紹介を引用してみよう。ちなみに、『落合町誌』は名前の「眞玄(まさはる)」を「玄眞」と逆さまにまちがえる、失礼な大ミスをおかしている。
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劇作家 松翁 松居玄眞(ママ) 下落合
劇作家としての松居松翁氏の名は余にも有名で馴染深ゐが、物理の方術を以て人類救済に尽してゐることは知る人ぞ知る、一度氏によりて「隻手療法」が発表されるや、世を挙げて其起死回生的効験に驚異し、都下新聞は国民保健の大運動を捲き起すに至つてゐる、この療法の科学的根拠は光波のデスバツチで、それが動物の身体に応用される時、体内の血行を盛んならしめ、あらゆる疾患を一掃するもので、決して精神的とか霊的とかいふものでなく、この現象は医学者としても看過すべき出ないと思ふ、兎に角医者に見放された病者、内科は勿論切傷、火傷等にも全く医薬療法の及ばない威効を奏する実例が多いから一度翁の門を叩いて見るも決して無駄ではあるまい。
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「光波のデスバッチ」は自身の病気には効かなかったものか、松居松翁は『落合町誌』が出版された翌年、63歳で下落合に没している。また、同様にあらゆる病気をはねつけ、あるいは治癒し、心身の鍛錬とバランスをとる「静坐法」の岡田虎二郎Click!は、47歳になると同じく下落合で急死している。
松居松翁が、現在の新宿区エリアへとやってきたのは古く、1907年(明治40)の夏ごろだ。最初は、大久保村東大久保(上ヶ地)16番地に建つ観音庵境内にあった建物に住んでいる。当時、作家たちの間にも郊外ブームがあったらしく、同じく小説家で劇作家の岡本綺堂Click!も大久保百人町へ転居してきている。いわゆる「大久保文士村」Click!が形成されたころだ。松翁が東大久保に住んだのは、1915年(大正4)暮れまでの8年間で、翌1916年(大正5)1月から下落合436番地へと転居してきた。近衛町Click!が開発される以前、近衛旧邸Click!の北側に舟橋了助Click!が敷地内へ開発した、東へのびる借家群の1軒に住んでいる。ちょうど、目白中学校Click!の校庭に南接するあたりだ。住宅を設計したのは、夏目利政Click!だったかもしれない。
下落合436番地に住んだのは1920年(大正9)までの4年間で、翌1921年(大正10)にはよほど下落合が気に入ったのか、同じ町内の下落合604番地へ引っ越した。ちょうど曾宮一念Click!が下落合623番地にアトリエClick!を建てたのと同時期であり、転居先の松居邸はごく近くにあった。曾宮アトリエの道をはさんだ東隣り、佐伯祐三の制作メモClick!にある「浅川ヘイ」Click!の浅川邸も下落合604番地だ。松居松翁は、1923年(大正12)まで2年間にわたり同地番に居住している。そして、翌1924年(大正13)には下落合735番地へと転居した。この住所は、教育紙芝居で有名な高橋五山Click!邸と同一地番であり、下落合604番地の旧居から、南へわずか130mほどしか離れていない。
さて、ここで落合町下落合735番地と長崎村荒井1721番地の住まいが、同じ年の記録で重複することになる。おそらく、下落合735番地は長崎の新居が竣工するまで、あるいはもう少し条件のいい家が探せるまでの仮住まいであり、家が完成してから(見つかってから)長崎村荒井1721番地へ引っ越していると思われるのだ。1/10,000地形図で確認すると、1924年(大正13)現在の修正図では、長崎村荒井1721番地界隈には住宅がほとんど採取されていないが、2年後の1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」では住宅が急増しており、同地番には松居真玄(松翁)邸も採取されている。
ちなみに事情明細図で、長崎村荒井1721番地に建つ松居邸の西隣りに「牧野」とあるのは、下落合(2丁目)604番地へ引っ越してくる前の牧野虎雄Click!アトリエだ。ふたりは隣人同士なので、おそらく親しかったのだろう。下落合604番地は、松居松翁が少し前に住んでいた地番であり、少しして牧野虎雄が転居する先の地番と同一な点に注意したい。松居が牧野虎雄へ、下落合604番地界隈の借家を地主を通じて紹介したのかもしれない。また、松居自身も1932年(昭和7)になると下落合(2丁目)617番地へともどってくるが、牧野虎雄アトリエClick!のすぐ北側に位置している点にも深く留意したい。
長崎村荒井1721番地の界隈は、南側へ東西に横たわる下落合の丘陵域から見て北向き斜面の麓にあたり、現在でも丘上を貫通する目白通りから北へ向けて、なだらかな坂道が下っている。河野通勢は坂道ないしは路地状の道の中途、長崎村荒井1862番地あたりにイーゼルをすえ、2階家ほどの視点から北東を向いて写生しているのがわかる。現在の風情でいうと、目白の森公園(手前の広い赤土の地面がその一部)の西側に通う坂道(左端の松居邸の門前から画家の手前に向かう道筋)の途中から、建設中あるいは完成間もない住宅群を描いていることになる。
では、「長崎町事情明細図」を参照しながら、それぞれ家々の住民を特定してみよう。デフォルメされている可能性があるので実景とは必ずしも一致しないかもしれないが、左端の門柱が長崎村荒井1721番地の松居邸だとすると、広い原っぱを横(東西)に走り主婦が立ち話をしている道路沿いの手前、右端に見えている宅地の石垣は鮭延邸(1877番地)、道をはさんで向こう側の平屋が大原邸(1719番地)、その北側が河合邸(1718番地)、位置的に見て河合邸の右横には相原邸(1717番地)が見えていなければならないが、どうやら1925年(大正14)ごろは未建設だったようだ。右側の、壁面が卵色に塗られた三角屋根の西洋館が前田邸(1716番地)、そのさらに北東奥に見えている大きな屋根(右端で画面が切れる)が千秋邸(1715番地)だろう。
また、大原邸の上に見えている横にやたら細長い屋根は山口銀行寄宿舎(1712番地)、河合邸の左手に描かれた家々はおそらく建設中あるいは竣工したばかりの家々(借家群?)で、「長崎町事情明細図」でも住民名が採取されていない。中央に描かれた建設中、あるいは竣工したばかりの家々の左手には、1926年(大正15)になると銭湯「倉田湯」(1732番地)が開業するあたりだ。左手の奥に見えている、西洋館と思われるバーミリオンの大屋根は、武蔵野鉄道の線路にほど近い栗林邸(1725番地)だろうか。
松居松翁は、長崎村(町)荒井1721番地には1924年(大正13)から1931年(昭和6)まで、足かけ7年ほど住んでいたようだ。そのあと、彼は再び目白通りを南に越え、1932年(昭和7)から下落合へともどっている。松翁が転居したのは下落合(2丁目)617番地で、この家が彼の終の棲家となった。銭湯「福の湯」Click!の裏にあたる下落合617番地は、下落合630番地に住んでいた森田亀之助Click!邸の東並びにある家だ。売れっ子だった松居松翁のことだから、1938年(昭和13)作成の「火保図」に収録されている、「四恩学寮/矢吹」と書かれた大きな邸宅が旧・松居邸ではないだろうか。
◆写真上:長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)にあった、松居松翁邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1924年(大正13)ごろに制作された河野通勢『長崎村の風景』。中は、1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる長崎村荒井1721番地あたり。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地番界隈。
◆写真中下:上は、河野通勢がイーゼルをすえたとみられる北向き斜面(坂道)あたり。右側には、目白の森公園の西門がある。中左は、松居松翁のポートレート。中右は、1926年(大正15)に春陽堂から出版された『松翁戯曲集』第1巻。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる松居松翁の終の棲家となった下落合617番地の住宅。
◆写真下:上は、河野通勢『長崎村の風景』に当時の邸名を想定して加えたものと、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる松居松翁邸界隈。中は、Google Earthの空中写真から描画ポイントと画角を想定する。下は、河野通勢が『長崎村の風景』で手前に入れて描いた赤土斜面の現状。