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西北の曇天に黒い旗がはためくを見た。

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中原中也旧居跡.JPG

 いまから11年ほど前の記事に、若山牧水の下落合散歩Click!について書いたことがある。穴八幡Click!のごく近く、カニ川(金川)Click!沿いの馬場下町41番地の「清致館」に、北原白秋Click!とともに下宿して早稲田大学に通っていたころだ。1905年(明治38)のそのころから約20年後、同じ下戸塚エリアにふたりの詩人が転居してきた。
 ふたりとも、おそらく早稲田通りをそのまま西へ歩いて、落合地域へ出かけたかもしれない。なぜなら、落合地域はダダイズムに感化されたダダイストたちClick!の交差点になっていたからだ。詩人のひとりは、穴八幡の裏、スコットホールClick!も近い「吉春館」に住んでいた高橋新吉Click!。もうひとりは、こちらで何度もご紹介している戸塚町の源兵衛字バッケ下Click!の西側エリアに住んだ、戸塚町源兵衛195番地の中原中也だ。
 落合地域の東隣りにあたる戸塚町源兵衛195番地という地番は、以前にご紹介済みの江戸川乱歩Click!が経営していた下宿「緑館」Click!に隣接する敷地だ。ただし、乱歩と中原中也の居住時期には3年ほどの開きがある。中原中也が住んでいたのは、同住所の林邸敷地に建てられた下宿か借家だった。関東大震災Click!で関西に避難していた松竹蒲田撮影所の女優・長谷川泰子をともない、1925年(大正14)3月に17歳で東京へとやってきている。東京へ着いた当初は、早稲田鶴巻町の「早成館」へ一時的に滞在してるので、当初から下戸塚(現・早稲田)界隈の下宿か借家を物色するつもりだったのだろう。
 長谷川泰子と中原中也は、京都・河原町の喫茶店で知り合っている。彼女が中也の詩(ダダイズムが顕著な詩作だったろう)を褒めたら、「おれの詩をわかるのは、君だけだ」とすぐに恋愛関係に発展した。一時期、中原中也とは緊密に交流していた大岡昇平Click!が、1974年(昭和49)に角川書店から出版した『中原中也』より引用してみよう。
  
 中原の生涯で成功した恋愛は、私の知る限りこれ一つである。あとは横浜の淫売と馴染むか、渋谷駅附近の食堂の女給に断わられる程度のものである。中原もその頃は若く、意気軒昂たるものがあったのである。(中略) 中原の服装は間もなくボヘミヤンネクタイに、ビロードの吊鐘マント、髪を肩まで延ばすことになるのであるが、これは多分富永太郎の影響だったろう。
  
 戸塚町源兵衛195番地の林家は、住宅地化してからの戸塚町の有力者だったものか、同番地に大きめな家を建てていたようだ。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)を参照すると、源兵衛33番地の土地委員で町内副会長をつとめた林家が紹介されているが、昭和に入って195番地から転居後の林家を紹介したものか、あるいは195番地の林家とは姻戚関係だった可能性がありそうだ。
 戸塚町源兵衛の林家は、もともと旧・神田上水沿いに多い染色・染抜業をなりわいとしており、大正期に下落合の田島橋Click!北詰め、下落合69番地に建設された三越染物工場Click!の仕事を請け負っている。『戸塚町誌』から、源兵衛33番地の林定次郎の紹介文を引用してみよう。
  
 (前略)大正六年三越染色部落合工場の設立と共に居を本町に構へ、同工場の下店たる外、一流業界の依嘱に因る、染抜業に従事して精彩ある家礎を成してゐる氏資性温厚にして達識、夙に町自治の開発に経策を実現して功あり、現に宮本会副会長、土木委員、第一小学校野球後援会幹事兼会計等に歴任す、家庭に夫人ミツ子及び嗣子定一君早稲田実業在学中がある。
  
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戸塚町全図1925.jpg

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戸塚町全図1929.jpg

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大日本職業別明細図1925.jpg

 当時、ふたりが住んだ源兵衛195番地の周囲には、早大の学生をターゲットにした下宿屋Click!が多かっただろう。彼のいた林家の下宿に接する、のちに江戸川乱歩が経営した源兵衛179番地の「緑館」もそのうちの1棟だ。中也自身も、立命館中学を3年で退学すると、早大受験のためにここへ下宿している。だが、早大の受験資格は中学4年修了が規定だったため、替え玉受験までたくらむが成功せずに終わった。
 1925年(大正14)の当時、中原中也と長谷川泰子が同棲していた下宿の周囲には、明治末から拓けた郊外住宅地が拡がっていた。ちょうど同年に作成された「大日本職業明細図」を参照すると、下宿から南側の早稲田通りへと抜ける道沿いの右手には高築医院が開業し、通りを早大方向へたどると芳文堂書店や荒井商店、花形屋道具店が、高田馬場駅へとたどれば熊谷薬店やマル屋菓子店、キタ屋文具店などが並んでいる。また、下宿のすぐ西側には天理教高田宣教所があり、さらに北側の源兵衛192番地には男爵・松平斎光の大きな邸宅が建っていた。
 中原中也は、京都で知り合った富永太郎を追いかけてきたようなもので、東京には知り合いがほとんどなかった。彼は人脈を拡げるためか、あるいは詩人として立つ道を探るためにか、頻繁に下宿を空けるようになる。その間、同棲していた2歳年上の長谷川泰子は将来の相談にものってもらえず、終始ほったらかしにされていたようだ。彼女には、2歳年下の周囲から「ダダさん」と呼ばれて嬉しがり、いまだ童顔の面影を残す「アプレ少年」然とした中也が頼りなく、しだいに現状を「なんとかしなきゃ」という切迫した想いにとらわれていったのだろう。
 1925年(大正14)4月に、中原中也は富永太郎を通じて小林秀雄と知り合うが、同年の暮れ近くに長谷川泰子は小林のもとへ逃げていくことになる。このときの稚拙で子どもじみた彼女との同棲生活を、中也は生涯にわたり後悔することになった。恋人を盗られても絶交できない、杉並区天沼での小林秀雄と泰子の同棲生活を横目でにらみながら、1927年(昭和2)の日記にこう書いている。1968(昭和43)年に角川書店から出版された、大岡昇平・他編『中原中也全集』4巻(日記・書簡)から引用してみよう。
  
 一月十七日(月曜)/孤獨以外に、好い藝術を生む境遇はありはしない。/交際の上手な、この澱粉過剰な藝術家さん。
 一月十八日(火曜)/私は、光を慕ふ。/併し、光の中では子供らしくも極端なエゴイストになる。(女よ、私は嫌か?)
  
 「イヤよ!」という幻の声が、中也の耳に聞こえるのを承知で書き残したものだろうか。以後、中原中也は1937年(昭和12)に30歳で生涯を終えるまで、大岡昇平のいい方を借りれば「口惜しき人」としてすごすことになった。同全集の3巻(評論・小説)所収の、中原中也『我が生活』から引用してみよう。
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緑館.jpg

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江戸川乱歩「緑館」跡.JPG

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高橋医院.jpg
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戸塚キネマ.jpg

  
 私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来たのと確信する。つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。(中略) 然るに、私は女に逃げられるや、その後一日一日と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜しくなるのだつた。(中略) とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。
  
 中原中也は、死ぬまでに18回の引っ越しをしたとされているが、どこに住んでも彼の頭上に拡がる空は、ときおり薄陽が射しそうな気配があるにしても、たいがいはどんよりとした「曇天」模様になってしまった。「夜、うつくしい魂は涕いて、/――かの女こそ正当(あたりき)なのに――/夜、うつくしい魂は涕いて、/もう死んだつていいよう……といふのであつた。」(彌生書房版・中原中也詩集/1964年)。でも、彼女に逃げられたからこそ中也の詩才に火が点き、いまに残る作品群を残せたともいえるのだ。
 中原中也は、小林秀雄と長谷川泰子の暮らしを追いかけまわし、転居を繰り返していたフシさえ見える。その様子を、2007年(平成19)にNHK出版から刊行された、歌人・福島泰樹『中原中也 帝都慕情』から引用してみよう。
  
 小林と泰子はどうしたのであろうか。泰子は、語っている。「中原はその後も、天沼の家に時々やって来ました。たいていは昼間に来ましたから、小林は学校へ行っていて留守なんです。そんなとき、私は中原になぐられたこともありました」。勝手場で暴れ、突き飛ばされて窓ガラスに首を突っ込んだこともあるという。そのためもあったのだろう。すでに中原と居る頃から、その徴候があらわれていた潔癖症(神経症)は昂じ、泰子はついに家事も出来ない(複雑な神経錯綜)状態に陥る。/結果、小林は馬橋の家に戻り、泰子は(小林の)母に面倒をみてもらうことになる。小林佐規子と改名したのも(世界救世教を知ったのも)母の薦めである。その後、転地療養(中原の来襲から泰子を護る)のため、鎌倉、逗子に二人は移り住んでいる。小林は、鎌倉、逗子から大学に通うこととなるのだ。
  
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中原中也プロフィール.jpg

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長谷川泰子「ゆきてかへらぬ」1974.jpg
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長谷川泰子.jpg

 ところで、1983年(昭和58)に思潮社から『中也断唱』を刊行した福島泰樹は、その後、中原中也の生誕地や暮らした土地を次々と訪ね歩いている。大学を出たばかりのころ、1982年(昭和57)に砂子屋書房でプレスされた、わたしには馴染み深いLP『曇天』(アテネレコード)では、すでに同作の一部が歌われている。このレコードが発売されたころ、わたしは聖母坂にいたのだが、彼もまた下落合のどこかに住んでいたようだ。
  雪が降るロシアの田舎の別荘にはた下落合のわがあばら屋に
                    福島泰樹(『中也断唱』「雪の賦」より)

◆写真上:中也と泰子が初めて住んだ、戸塚町源兵衛195番地林邸跡の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「戸塚町全図」にみる源兵衛195番地界隈。は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町全図」にみる同番地あたり。は、1925年(大正14)に作成された「大日本職業別明細図」にみる中原中也と長谷川泰子の下宿周辺の店舗。ふたりは、実際にこれらの店々で買い物をしていたのだろう。
◆写真中下は、戸塚町源兵衛195番地に隣接する179番地に建っていた江戸川乱歩経営の下宿「緑館」。乱歩は既存の建物を入手して下宿屋を営業しているので、中原中也と長谷川泰子は早稲田通りへ出る際にこの建物を目にしていただろう。は、「緑館」跡の現状。は、高田馬場駅のすぐ西側に建っていた高橋医院()と戸塚キネマ()。ちょうど1925年(大正14)に撮影された広告写真で、中原中也は落合地域へと出かける道すがら戸塚キネマ(のち戸塚東宝映画劇場Click!)には立ち寄っていたかもしれない。
◆写真下は、中原中也が街角のフォトボックスで撮った証明書用写真ではなくw、死後に修正・美化されつづけたプロフィール各種。大岡昇平Click!によれば1925年(大正14)ごろ、つまり長谷川泰子と同棲していたころに銀座の写真館「有賀」で撮影されたもの。大岡によれば、特に目と瞳が大きめに修正されて実物とは「あんまり違っているので」(『中原中也』新潮社/1985年)驚いたようだ。は、1974年(昭和49)に角川書店から出版された長谷川泰子『ゆきてかへらぬ』()と、女学校卒業アルバムの長谷川泰子()。


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