日本では、海外への亡命者が他国に比べて少ないといわれるが、まわりを海に囲まれていて運輸手段が不便かつ高価だった戦前なら、なおさら国外への脱出は困難だったろう。戦前、外国と陸つづきで国境が接していた数少ない地域に、カラプト(樺太)があった。相手国は、もちろんスターリニズムの嵐が吹き荒れていた旧・ソ連Click!だ。
杉本良吉Click!は、1936年(昭和11)に演劇道場で上演された八木隆一郎『熊の唄』を演出した際、金田一京助Click!や久保寺逸彦の書籍などを通じてアイヌ文化の研究をしたことがある。登場人物にアイヌ民族の「千徳茂作」がいるため、その言語や風俗を学ぶことになったのだが、翌1937年(昭和12)の暮れ近くになると、杉本は意識的にそれらの書籍を読み返していたのかもしれない。樺太へ旅行する口実を、監視している特高Click!へ「アイヌ文化を研究するため」と説明できるからだ。
杉本良吉は5年前、地下に潜行した日本共産党からソ連へ密行し、「コミンテルンと連絡をとれ」という指令を受けていた。実際に小樽まで出かけ、密航を計画したがうまくいかなかった。だが、1933年(昭和8)の宮本賢治の検挙で同党は壊滅状態にあり、その指令にいまだ有効な意味があるのかどうかは不明だった。それでも、彼が亡命を決意するのは、愛人で女優の岡田嘉子が越境を強く奨めたからだといわれている。なぜ彼女が杉本に越境を奨めたのかは、妻・智恵子の存在を抜きには語れないようだ。
妻の杉本智恵子は、1934年(昭和9)から江古田の結核療養所Click!へ入所していた。だが、夫と岡田嘉子とが付き合いだしてすぐに療養所を退所、新井薬師の近くにあった家から母親とともに麹町区土手三番町へと転居してきた。妻が結核療養所で治療中、杉本良吉が暮らしていたのは大久保町の実家であり、岡田嘉子は赤坂に住んでいて、ふたりが密会していたのが九段坂にある野々宮アパートメントだった。ちょうどその目と鼻の先へ、杉本智恵子は家を借りたことになる。そのときの様子を、2012年に岩波書店から出版された川西政明『新・日本文壇史』第8巻から引用してみよう。
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(岡田)嘉子は戦慄した。(杉本)智恵子の執念だと思われた。嘉子と(杉本)良吉が固く肉体で結ばれ、その愛が深まっても、智恵子の執念は消せないし、良吉から智恵子の像を消し去ることもできない。/嘉子は月々十五円を良吉に渡していた。嘉子は療養中の智恵子の生活を援助しているつもりであった。(1937年)十二月二十三日、良吉は智恵子の意思を受けて、その金の受領を断った。嘉子はそれで傷ついた。/その智恵子に絶対にできないことがある。それは良吉と手に手を取って樺太の国境を越えモスクワに向かうことだ。(カッコ内引用者註)
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当初、岡田嘉子は妻の智恵子が貧しくてなにも知らない、結核に罹患した古風な大人しい女だと想像していたようだ。だが、すぐにその誤りに気がついた。杉本の妻は、インテリで精神的にタフで、赤坂にあったダンスホール「フロリダ」の賃上げをめぐり、ダンサーたちのストライキClick!を指導したこともある、岡田嘉子よりも強い女性であり、改めて杉本良吉と智恵子は似合いのカップルに見えただろう。
ここに「十二月二十三日」と書かれているのは1937年(昭和12)の日付けであり、この直後に杉本良吉は岡田嘉子から樺太行きを迫られたとみられる。杉本もたび重なる弾圧で活動が行き詰まり、なんら展望が見えないまま日本にいても未来がないと考えて、ソ連に亡命する決意を固めたのだろう。そして、2日後の12月25日、彼は知人宅をまわって秘かに別れを告げて歩いた。
このとき、杉本良吉が訪ねた先は、作品の演出で旧知の間がらだった上落合1丁目186番地の村山知義Click!・村山籌子Click!夫妻、すでに上落合1丁目481番地からすぐ南側の柏木5丁目1130番地へ転居していた中野重治Click!・原泉Click!夫妻などが判明しているが、ほかにも上落合2丁目740番地から目白町3丁目3570番地に転居したばかりの宮本百合子Click!宅、戸塚町4丁目593番地にいた窪川鶴次郎・窪川稲子(佐多稲子)Click!宅なども、まわり歩いているのかもしれない。ただし、特高の張りこみの目がうるさい人物は、避けていた可能性が高いように思うが……。
翌12月26日、杉本良吉・智恵子夫妻は新宿のデパート建設地をめぐる『彦六大いに笑ふ』の舞台千秋楽を、久しぶりに新宿第一劇場へ観に出かけている。同劇の舞台上には、「お辻」を熱演する岡田嘉子がいた。そのときの様子を、1980年(昭和55)に文藝春秋から出版された澤地久枝『昭和史のおんな』より引用してみよう。
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この日、久しぶりに肩を並べて客席に坐った夫と妻の間に、なにか冷え冷えとしたものが横たわっていた。智恵子は舞台の上の岡田嘉子の、恋の火によって内側から照し出されているような姿に穏やかな心ではいられなかったであろう。率直な観客になれるような状態ではなかった。/杉本はこの夜から恒例の年末の旅へ出ることを妻に告げていた。智恵子と夕食をいっしょにする約束だったが、結局智恵子は芝居のあと一人で家へ帰る。別れぎわに「手紙くださる」と聞くと「こんどだけは書かないけど心配しないで。十五日頃帰る積りだけど、それよりおそくなったら電報打つよ」と杉本は答えた。/この夜、嘉子のアパートでは杉本と嘉子の義妹の竹内京子の三人が千秋楽祝いといってビールを抜き、鳥鍋を囲んだ。樺太への旅立ちを前にした別れの宴でもあった。
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1938年(昭和13)1月1日、国境警備の慰問に訪れたと告げた杉本良吉と岡田嘉子は、樺太の敷香警察署で大歓迎を受けている。特に岡田の来訪は、当地の人々にはにわかに信じられなかったのだろう。1月3日午前9時30分、零下30℃で60cmの積雪の中、ふたりは馬橇に乗って国境近くの半田沢集落へ向けて出発した。国境の警察詰所で歓迎を受けたあと、再び馬橇で国境から50mの地点まで進む。午後3時をまわったところで、ふたりは橇を下りてそのまま国境へ向けて歩きだした。彼らの挙動に不審を抱いた警察関係者が声をかけたが、ふたりはそのまま走り出し国境の向こう側へと消えていった。
ひとり取り残された、杉本智恵子のダメージはとてつもなく大きかったのだろう。彼女は急速に衰弱して入院し、同年11月5日に肺結核で死亡している。葬儀には、窪川稲子(佐多稲子)Click!と宮本百合子Click!がそろって出席した。胸元には杉本良吉の写真が置かれ、花々に埋もれた杉本智恵子を見た宮本百合子が、「ああ、きれいだ」とつぶやいたのを佐多稲子は記憶している。
一方、ソ連に亡命したふたりを待っていた運命は過酷だった。スターリンの大粛清のさなか、杉本良吉は1939年(昭和14)9月27日に刑法第58条の「スパイ罪」が適用され同年10月23日に銃殺、岡田嘉子は同時に刑法第58条「スパイ罪」と第84条「不法入国」を適用され、ラーゲリ(強制収容所)で禁錮10年の実刑判決を受けている。
戦後、岡田嘉子が生存しているのを確認したのは、鉄のカーテンに風穴をこじ開けシベリア抑留者の復員交渉をスタートさせた、下落合3丁目1808番地(現・中落合1丁目)の参議院議員・高良とみClick!だった。だが、この時点ではいまだ杉本良吉は、収容先の獄舎で肺炎により死亡したことにされており、事実が明らかになるのはゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)が進んだ、杉本の死から50年後のことだった。
◆写真上:昭和初期の石垣や階段がそのまま残る、上落合の懐かしい街角。
◆写真中上:上は、舞台演出家の杉本良吉(左)と妻の杉本智恵子(右)。中は、日比谷公園で撮影された健康だったころの杉本智恵子。下は、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)の本部跡の現状。
◆写真中下:上は、杉本良吉と岡田嘉子が逢引きしていた九段坂の野々宮アパートメント。土浦亀城の設計で、1936年(昭和11)に竣工している。中は、記念写真に収まる上落合界隈ではおなじみの家族たち。右から原泉、中野重治(後方)、窪川稲子(佐多稲子)、窪川鶴次郎(子ども抱く)、そして左端の中野鈴子(重治の妹)。下は、旧・月見岡八幡社の境内だった八幡公園から上落合186番地の村山知義・籌子アトリエの方角を向く。
◆写真下:上は、杉本と岡田の失踪を伝える1938年(昭和13)1月5日発行の読売新聞。下は、昭和10年代に撮影されたとみられる樺太の港町の絵はがき。