少し前に、佐伯米子Click!の実家である池田家から新たに発見された、5歳の佐伯弥智子Click!を写した『ひるね』(1928年)についてご紹介Click!した。作者である陽咸二の資料を読んでいると、池田象牙店Click!で江戸細工物の伝統である牙彫師をめざしながら、途中で彫刻家に転向した経歴ともあいまって、非常に特異で面白い人物だったのがわかる。そのおかしさや「変人」ぶりは、佐伯祐三Click!と肩を並べるほどだ。
陽咸二の作品も、きわめてオリジナリティがあふれ特徴的だ。西洋の彫刻技法を十分に吸収しつつも、その作品には江戸の細工物ならではのユーモラスな感触がついてまわる。思わず「なんだこれは?」と、笑ってしまう作品も少なくない。彼は彫刻のほか植物学、義太夫、講談、民謡、踊り、舞踊演出、人形づくり、活け花、釣り、狩猟、ゲーム、マジック……となんにでも凝り、好奇心のかたまりのような性格をしていた。その多くが、専門家はだしだったという証言も残っている。
その中で、おそらく彫刻よりも実入りが多かったのではないかと思われる仕事に、「南京豆芸術」がある。陽咸二はときどき大金を手にしているが、南京豆細工の作品が売れに売れたからだろう。最初にきっかけをつくったのは、陽咸二自身ではなく連れ合いの秋子夫人だ。妊娠中の悪阻(つわり)で食べるものに困ったとき、南京豆(ピーナッツのことだが、わたしの親の世代では南京豆)なら口に入ると買って帰ったのが、膨大な南京豆芸術のはじまりだった。陽咸二自身は、南京豆が大キライだったようだが、その殻がついた多種多様な形状の面白さに取りつかれてしまった。以来、南京豆を殻ごと活かして細工する大量の作品を生みだしている。
ためしに展覧会に出品したところ、人気が人気を呼びアッという間に売約済みになったという記録が残っている。作品ひとつにつき2円の値札をつけたが、創っても創っても間に合わないほどの人気だったらしい。実際に、彫刻に費やす時間よりも、南京豆細工に費やす時間のほうが多かったという証言さえ残っている。その人気に火がついたのは、東京駅前に建つ丸ビルの丸菱で展覧会を開催したときがきっかけらしい。
その人気ぶりは陽咸二の死後、東京朝日新聞が特集「南京豆芸術」の連載を13日間もつづけたことからもうかがわれる。まずは、秋子夫人の証言を聞いてみよう。1937年(昭和12)3月14日発行の東京朝日新聞より、「愛すべきこの小品/南京豆の芸術」から。
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実は陽は南京豆をたべる事が大嫌ひでした。それなのに南京豆を細工するやうにかつた同機は私が長男を妊娠致しまして、悪阻でたべるものがない時毎日南京豆を買つて来て紅茶でたべてゐるのを見て、南京豆を手に取つて「これはなかなか面白い形のものがある」と申して変態なものを取りあげ鋏を持つて来て御覧といふやうな事から、金魚や、鷲などが出来るやうになり以後、買つて来た南京豆を、一応陽が調べて細工物になりさうなのを選び取つて残りを私がいたゞいてゐたのでしたが、十袋づつ買つてもなかなか細工に使ふやうな変形ののものはすくなく、せいぜい六七個位しかなかつたやうでした。南京豆だけでなく、どんな塵、アクタのやうなものにも何か興味を見出すのが陽の性格でした。
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いかにも凝り性の、陽咸二らしいエピソードだ。南京豆を10袋も買って、その中から作品に使える「変態」のものがわずか6~7個では、非常に効率の悪い素材選びだ。いまのピーナッツのように、当時の包装は透明なビニール袋になど入ってはいないから、買ってから中身を確かめることになる。
しかも、陽咸二自身は南京豆を食べないので、家族や女中が余った豆を“処理”することになる。きっと陽咸二が死去するまで、家内では南京豆を毎日食べつづけ、脂質の摂りすぎになっていたのではないか。彼も南京豆を食べていれば、リノール酸やビタミン類の摂取で、もう少し長生きできていたのかもしれない。
東京朝日新聞に、南京豆芸術の特集が連載されるようになったのは、陽咸二が1935年(昭和10)9月15日に満37歳で死去してから2年目に、南京豆細工の作り方を記した「手記」が新たに発見されたからだ。そして、アトリエに残されていた南京豆芸術は、1937年(昭和12)5月に上野の府立美術館で開催された、陽咸二遺作展にも出品されている。遺作展をプロデュースしたのは、彫刻家集団「構造社」の創立者・斎藤素厳だった。その様子を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
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彫刻よりも楽し/故人の風格を偲ぶ素厳氏
『…一昨年の九月陽君が臨終の時若し私の遺作展を開いてくれるなら是非、この南京豆細工も出品して貰ひたいといふ切なる遺言があつた。それに彼は、生前表芸である彫刻をやるのがとても苦しく南京豆細工や折紙などの制作をやつてゐる時間が最も幸福であると告白してゐたし事実短かつた彼の生涯では、彫刻の創作に費した時間よりもこの余技の方に費した努力の方が多い位だから芸術家たる彼の半面を知る上にも興味が多からうと思つて、発表することになつたのである……』 この南京豆細工は、頗る芸術味豊かなもので、斎藤氏は散逸するのを恐れ、陽氏の遺児達が成長するまで大切に、自邸に保管しておくといふことである。従つて、これは誰にでも真似の出来るものではないが、絵心のある人なら、ある程度までヒントを得られると思ひ斎藤氏の解説を附して本欄に連載することにしたが、この写真撮影中偶然にも陽氏の遺稿の中から、南京豆芸術に関する手記が発見されたので斎藤氏も大いに喜び、これも本紙に発表することにした(後略)
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よほど南京豆芸術には思い入れがあったものか、陽咸二は遺作展に南京豆芸術を並べてくれと「構造社」の斎藤素厳へ遺言している。
このとき、新たに発見され東京朝日新聞にもその一部が掲載された、陽咸二の南京豆芸術に関する「手記」を読むと、あらかじめかたちを持っているものを工夫して、別のものにつくり変えるむずかしさや醍醐味が細かく記されている。その無理無茶のあるところが、南京豆芸術の愉快で楽しいところで、「落語にサゲがあるやうに、この玩具にも落ちと云つたやうな軽いユーモアが欲しいのです」と書いている。(城)下町Click!育ちの江戸東京人らしいユーモアのセンスであり、洒落のめし感覚だ。
発見された陽咸二の「手記」から、南京豆芸術の妙味について引用してみよう。
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(前略)既に何等かの形を持つて居る物を工夫して玩具に造り上げようと云ふのですから、最初から非常な無理があります、その無理の有る所が此細工の最も愉快な所で、見る人にとつても作る者に取つても興味の中心でつまりヤマなのです、(中略)ですから必ずしも廃物利用で無くても応用の妙があればいいのですが廃物を利用した方がなほ面白い訳です。余り加工をしたため、何を材料に利用したか見当が付かないで、説明しなければ解らないと云ふよりも一目見て成程と解るやうに作る方が気が利いて居ます。洒落の説明はしない方がいいのと同じです、尤も特に加工もしないのに余り上手にピツタリと利用が出来た時は洒落に成らない場合も有りますが、こゝまで来れば洒落も何もありません。所で之は材料の持味を生かして使ふ所に趣味があるとしたなら、やたらに加工を加へて複雑にするの事は面白くない訳です。
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陽咸二は、一度なにかに凝りだすと“本業”そっちのけで長い間のめりこんでしまう、まるで佐伯祐三の性格にそっくり、いやそれ以上の凝り性で変人なのだ。では、次回は昭和初期に人気が沸騰した、南京豆の精密・精緻な細工作品のいくつかをご紹介しよう。
<つづく>
◆写真上:陽咸二は大キライで食べなかった、南京豆芸術の素材・殻つきピーナッツ。
◆写真中上:どこか、興福寺のユーモラスな天燈鬼と龍燈鬼をイメージさせる陽咸二制作の『風神』(上)と『雷神』(下)。こんな風神雷神は、かつて見たことがない。
◆写真中下:上は、1937年(昭和12)3月14日発行の東京朝日新聞に掲載された陽咸二の特集「南京豆芸術」のスタート記事で、以降13回にわたって連載された。下左は、構造社展で撮影された陽咸二。下右は、南京豆を買いつづけた秋子夫人。
◆写真下:1937年(昭和12)3月16日発行の東京朝日新聞に掲載された、陽咸二の「手記」に挿入されていた南京豆細工の道具と作り方イラスト。