画家の目は、下落合4丁目(現・中井2丁目)の裏庭に残されたバッケ(崖地)の急斜面に上り、少し望遠気味だろうか。アトリエClick!の赤い屋根(もちろんスケッチなので色はない)が手前に見え、中井駅に隣接した落合第五小学校Click!の旧・校舎や体育館が、実際の距離以上に近接して描かれている。遠景に見えているのは、上落合から西戸山、百人町、柏木などの街並みだ。
1964年(昭和39)6月23日に発行された竹田助雄の「落合新聞」Click!には、下落合4丁目2096番地に住む刑部人Click!の『下落合展望』が掲載されている。敗戦の焼け跡や荒廃が、どうやら街並みから感じられなくなり、陸軍施設Click!が林立していた東西の戸山ヶ原には、住宅不足を補うために大規模な西戸山のアパート群が建設された。中央を左右に横切る土手状の道路は、落合地域では1950年(昭和25)ごろに開通した山手通り(環六)Click!だ。1960年代に入るとクルマの交通量は激増し、画面にもトラックや乗用車が連なる様子が描かれている。
刑部人は、落合新聞へスケッチとともに「下落合展望」と題するエッセイも寄せており、自邸周辺の様子が書き留められている。
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これは私の所から見た上落合から新宿方面を望んだ風景である。目白から続いた台地の端になるこの丘からは妙正寺川を目の下に、上落合、東中野、遠くは新宿を見渡す大きな風景が見られる。私事で恐縮であるが、妻の実家がこの辺に居をかまえたのが大正十一年ということで、その時分は妙正寺川の両岸を稲田と麦畑を隔てて、落合火葬場の煙突が見えるだけだったということである。蛍が飛び小川では蜆が取れ、妻の家は庭が広かったので野兎までが出没したそうである。
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文中に出てくる「妻の実家」とは、近所に住んでいた吉武東里Click!と大熊喜邦Click!が設計した、こちらでも何度かご紹介している下落合2095番地の島津源吉邸Click!のことだ。島津邸は、やはり吉武東里Click!設計による刑部人アトリエClick!のすぐ北側の丘上に建っていた。広い庭には大きな噴水があり、その北側には東京美術学校を出た長男・島津一郎Click!のアトリエClick!が、やはり吉武東里Click!の手で刑部アトリエと同様、1931年(昭和6)ごろに設計・建設されている。戦前の島津邸の庭には、10羽前後の白い七面鳥が放し飼いにされていたと、中島香菜様Click!や刑部佑三様Click!からうかがい、戦前に撮られた庭の写真までお見せいただいた。
目白崖線下の妙正寺川沿いに拡がる、見わたす限りの田圃や麦畑の様子は、下落合800番地に住んだ鈴木良三Click!や、寺斉橋の南詰めの上落合725番地で暮らした林武Click!が描いている。また、大正末に五ノ坂上の「熊本村」にいた高群逸枝Click!も、『火の国の女の日記』へ坂下に拡がる田園風景を書きとめている。現在では、さすがに野ウサギは見られなくなったが、目白文化村Click!にはときどき放し飼いのウサギClick!が、道端をヒョコヒョコと歩いているのを見かける。
つづけて、1964年(昭和39)の刑部人『下落合展望』から引用してみよう。
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その庭も今では庭と言えない様な樹木と雑草の茂るにまかせてあるので、おなが、こじゅけい、鶯、ひよどり、四十雀、もず、などの野鳥が集まって来て、数年前までは巣を作り雛を育てたりしていた程で、昔の下落合の面影を幾分か残してる僅かの場所ではないかと思う。ここから見下す風景は環状六号線の絶えまなく走る自動車の群れと、遠く新宿のデパート、戸山ヶ原団地のアパート等々の近代建物が蜒々と山脈の如く連なり、この樹木達もその変遷の甚しさに驚いていることだろう。
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登場している小鳥たちは、おそらくエッセイが書かれた1960年代よりも数が増えて、いまでも下落合の四季を飛び交っている。
余談だが、明治神宮の杜にもどってきたオオタカが、拡張されたおとめ山公園Click!にも棲みついてくれないだろうか。下落合で確認された猛禽類は、いまのところツミClick!だけなのだが、もともと鷹狩り場だった御留山Click!に棲みついてくれれば、野ネズミやモグラ、小鳥などが多いエリアなので、おそらくエサにはそれほど不自由しないだろうし、カラスも落合地域には寄りつかなくなるにちがいない。落合地域の自然界に残るヒエラルキーの頂点にいるのが、地上ではアオダイショウClick!とタヌキClick!で、空にはカラスだけではちょっとさびしく、ここは空高くタカが舞っていてほしいものだ。
さて、画面を再び観察してみよう。遠く左手に見える建築群は、西戸山の陸軍科学研究所Click!跡に建設された戸山アパートClick!(西戸山)の一画だ。画面中央のやや左側に描かれた鉄塔は、新宿消防署の火の見櫓で、それへ重なるように描かれたもうひとつの鉄塔は、戸山アパートの水道タンクだろう。また、右手に見えている高い煙突は、明治末から小滝橋通り沿いにある豊多摩病院Click!の焼却炉だ。その煙突の向こう側に見えている大きな建物は、百人町にあった東京都衛生研究所のビル群であり、そのさらに右手に見えるビルは、現在の老人施設である柏木の「せらび新宿」だと思われる。衛生研究所の右手には、新宿駅東口のデパートがのぞいているのだろう。
刑部人『下落合展望』が掲載された、落合新聞の1964年(昭和39)6月23日号には、妙正寺川沿いの下水道工事により地下水が枯渇してしまった記事が載っている。現在の中井通り一帯の家々では、戦前と同様に井戸水を生活水に使用していたが、下水道工事の影響で地下水脈が断ち切られ、多くの家々の井戸が枯渇して“もらい水”をしなければならない事態になった。工事中は、建設会社が敷設した臨時水道で上水が供給されていたが、工事の終了とともに撤去され、再び飲み水がなくなる深刻な状況だった。
もうひとつ、妙正寺川の水が使えるため、中井駅周辺の住宅地には消火栓が設置されていなかったが、同河川の汚濁によって消火ポンプの濾過器が目詰まりを起こし、火事の際に消火活動ができなくなってしまったため、地元の町会が消火栓の設置を東京都へ陳情している。同年に行われた東京オリンピックを契機に、高度経済成長へ再び弾みがつき、いまからは想像もつかないほど急速に、川や空気が汚れていった時代だ。
『下落合展望』に見える風景も、あと5~6年ほどたった1970年前後にはスモッグで遠景が霞み、これほど鮮明には見えなかったのではないだろうか。午前10時にもかかわらず、午後3時ごろのような弱々しい陽射しが注ぐスモッグに覆われた東京の風景を、ついこの間のことのように憶えている。
◆写真上:1964年(昭和39)6月23日の落合新聞に掲載された、刑部人『下落合展望』。
◆写真中上:上は、刑部邸の北側崖地から眺めた刑部人アトリエ。(撮影:刑部佑三様) 中は、画面とほぼ同時期の1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる描画ポイントと画角。下は、連続写真の1枚で林間で制作中の刑部人。(提供:中島香菜様)
◆写真中下:上は、刑部人アトリエの採光窓から見上げた描画ポイントのある崖地。(撮影:刑部佑三様) 下は、アトリエ解体後の北側バッケ。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)の空中写真にみる小滝橋通り界隈。下は、落合新聞の同号に掲載された刑部人のエッセイ。