明治期から大正末までの地形図を時代順に重ねてみていると、すでに現在はなくなってしまった気になる地形表現がある。下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!の西側に描かれた、正円状の“ニキビ”のような突起もそのひとつだ。地番でいうと、下落合622番地と同625番地の敷地にまたがるような位置だろうか。直径が20~25mほどの、ほぼ正円形をした塚状の突起地形だ。
この塚状の突起は、陸軍参謀本部の陸地測量部が作成した1/10,000地形図の最初期、1909年(明治42)版のものからすでに採取されているのがわかる。1909年(明治42)の当時、北側にある清戸道Click!(目白通り)沿いの「椎名町」Click!には、江戸期から拓けた街道沿いの家並みが見られるが、諏訪谷Click!の丘上にあった塚状突起の周囲には家が見えず、一面の田畑が広がっている。
そして、同地形図によれば、この凸地の上には広葉樹の記号が挿入されているので、塚全体がこんもりと樹木に覆われていたようだ。つまり、南に谷戸(諏訪谷)が口を開けた、青柳ヶ原Click!と同じ標高である等高線32.5m上の平地へ開墾された田畑の真ん中に、まるで海上に浮かぶ島のような塚状の突起がポツンと存在していたということになる。これは、いったいなんだろうか? 曾宮一念Click!が、1921年(大正10)にアトリエClick!を建設したとき、この塚はいまだ西側に残っていたはずだ。1925年(大正14)の1/10,000地形図にも、同塚は採取されている。昭和に入ると、蕗谷虹児Click!アトリエやその南の谷口邸が建設される一帯だ。
さらに、もうひとつ思い当たることがある。諏訪谷北側の尾根筋に通う東西道は、まっすぐに東へと向かうのではなく、この塚を避けるように斜めに拓かれていることだ。1925年(大正14)の地図では、いまだ斜めの道路表現になっているが、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、斜めだった道路が途中で直角状の鍵型に折れ曲がり、明らかに宅地の造成が行われている様子が見てとれる。
この風情は、絵画の画面にも記録されている。1926年(大正15)の夏に描かれた二科賞を受賞Click!する直前の佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!は、曾宮アトリエの前へ斜めにつづいていた廃止される直前の路上から、換言すればすでに宅地として整地されたらしい道路痕が残る敷地の上から、諏訪谷の大六天Click!の方角を向いてスケッチしている。そして、セメントの塀沿いに新たに拓かれた道路(現在の道筋)が、右手につづいているのが見てとれる。このとき、佐伯がイーゼルを立てた左手背後には、崩されつつある塚の残滓がいまだにあったのだろうか?
また、1921年(大正10)ごろから諏訪谷の湧水が形成した洗い場Click!(池)上の、「化け物屋敷」に住んでいた鈴木誠Click!も、この塚を毎日眺めて生活していたはずだ。この「化け物屋敷」とは、近くの農家が建てた古い借家か、農家の納屋のような建物だったのだろうか。当時の様子を1968年(昭和43)に発行された「絵」11月号(日動画廊出版部)に所収の、鈴木誠「下落合の佐伯祐三」から引用してみよう。
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(佐伯祐三に)翌日学校で会った時、ヴィオリンはぬらさなかった、と例のケロリとした口調で言っていたのが、私には一番古い記憶のようだ。私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曾宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
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残念ながら日常的で見馴れた、「そこにある風景の一部」となっていたであろう塚状の突起のことを、鈴木誠は特に記録していない。ちょっと余談だが、上掲の鈴木誠の証言からも、1921年(大正10)4月にアトリエが完成し転居してきた曾宮一念のあとに、佐伯祐三が「画室を新築」して引っ越してきているのは明らかであり、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)の夏以降のことだろう。
各種地図などから推定すると、諏訪谷北側の丘上にあった塚状の突起は、1925年(大正14)ぐらいまでは残っていたのかもしれないが、その後、周辺の耕地整理とともに諏訪谷の急速な宅地化Click!が進められ、新たな道路整備や宅地開発とともに、1925年(大正15)ごろには消滅していた……と推定することができる。ちなみに、1925年(大正14)の1/10,000地形図では、塚の西側の一画を崩したものだろうか、明治期とは異なり灌漑用水とみられる小さな池が造られている様子が採取されている。
さて、まったく同じような“ニキビ”状の突起表現を、同じ落合地域の1/10,000地形図で見つけることができる。上落合607番地の字大塚Click!の浅間社境内にあった「落合富士」Click!、すなわち大塚浅間塚古墳Click!だ。上落合の谷間一帯を見下ろす、やはり丘上の見晴らしのいい場所に築かれている。塚の直径が20~30mほどあった同古墳は、円墳だったか小型の前方後円墳だったかは、いまとなっては不明だ。1980年代後半からつづく関東各地で実施された古墳の再調査で、従来は円墳とされていた古墳が、前方部が崩されて田畑や道路にされてしまった前方後円墳(割り塚)であることが軒並み確認されている。したがって、戦時中だった1943年(昭和18)ごろに山手通りの建設で、満足な調査も行われず崩されてしまった大塚浅間塚古墳も、現代の科学的な調査が実施されれば円墳ではなかった可能性がある。
下落合625番地あたりの諏訪谷の丘上に採取された塚状の突起も、はたして周囲を開墾によって削られ、結果的に小型化してしまった古墳なのだろうか。谷間を見下ろす丘上のほかの場所に、同じような塚状の突起が見られるかどうか、1/10,000地形図を仔細に観察すると、ほぼ同じサイズの塚をあと2ヶ所、下落合エリアで発見することができる。そこには、近くにある湧水源の谷間(谷戸)を見下ろす丘上という、共通の埋葬儀礼的な、あるいは宗教上の“法則”のようなものが透けて見えてくるようだ。
そのひとつは、諏訪谷のすぐ西隣りに口を開けている不動谷Click!(西ノ谷Click!)の丘上、下落合1436番地から1437番地あたりで発見することができる。谷戸を東側に見下ろす地点は、のちに小川医院Click!が建設される敷地で、斜向かいには笠原吉太郎Click!のアトリエClick!が建てられている。諏訪谷の塚に比べると、やや小ぶりな20m弱ほどの印象だろうか。そしてもうひとつは、箱根土地Click!が目白文化村Click!を開発する以前、「不動園」Click!と名づけた前谷戸を北に望む位置、すなわち後年には第一文化村内となる下落合1321番地に、やはり塚状で正円の突起が確認できる。塚の規模20~25mと、諏訪谷のものとほぼ同じぐらいのサイズをしている。
はたして、これらの塚が室町期からつづく百八塚Click!の伝承に直結する古墳なのかどうか、すべてが大正末ぐらいまでに崩されているので不明だ。また、これらの塚は当初より、これほど規模が小さいものだったのか、それとも玄室部分だけを残して周囲の墳丘をすべて崩してしまったあとの残滓なのかもわからない。視野を関東地方の全域に広げれば、おもに江戸期の開拓で被葬者が眠る玄室のみを残し(羨道や玄室に用いられた房州石Click!など、大きな石材を処分するのが面倒だったせいもあるだろう)、前方部や後円部を崩して田畑にしてしまった事例は決して少なくないからだ。結果的に「小塚」となったそれらの残滓は、明治以降に宅地や道路建設などであっさりと消滅している。
下落合の伝承によれば、明治期のことだろうか自性院Click!の西側から古墳の羨道や玄室が見つかったといういわれを聞いている。やはり、葛ヶ谷の谷戸で湧いた小川が流れ、江戸期には千川分水(落合分水Click!)が開通する谷間を見下ろすよなロケーションだ。同じような塚状の正円突起は1925年(大正14)現在、安藤対馬守屋敷跡の北側にも採取されている。池袋の丸池へと注ぐ小川を見下ろすような位置に描かれているのは、もちろん本来は小規模な墳丘が連なっていたとみられる「狐塚」Click!の残滓だ。
◆写真上:正円状の塚があった、諏訪谷北側の丘上にあたる下落合622~625番地界隈。
◆写真中上:上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる諏訪谷の塚。中は、1925年(大正14)作成の同図にみる諏訪谷の塚で、一部を崩して池が造られているのがわかる。下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同塚の位置で、宅地開発のために道筋が変更されている最中の様子。
◆写真中下:上左は、1968年(昭和43)に日動画廊出発部から発行された「絵」11月号。上右は、旧・中村彝Click!アトリエで制作する鈴木誠。(提供:鈴木照子様) 中は、1925年(大正14)の1/10,000地形図に描かれた大塚浅間塚古墳(落合富士)と、同じく昭和初期に撮影された大塚浅間塚古墳(落合富士)。下は、1925年作成の同図にみられる不動谷(西ノ谷)西側の丘上に採取された正円状の塚。
◆写真下:上は、1921年(大正10)作成の同図に採取された前谷戸を見下ろす正円状の塚。中は、諏訪谷北側の下落合622・625番地に大正末まであったとみられる塚の想定図。下は、1947年(昭和22)の焼け跡空中写真に描き入れた塚の想定位置と旧道筋。