子どものころ、夏が近づく海岸Click!へ遊びに行くと、浜辺には点々と投げ釣りをする人たちの姿が見られた。釣り人の影と竿は、東西に砂浜がつづく湘南海岸の見わたす限り、どこまでも連なっているように見えた。おそらく、小田原リールを使って初夏のキス釣りを楽しんでいたものだろう。
小学2~3年生のころ、クラスメートだった女の子の父親が釣りへ出かけ波に足もとをすくわれたのだろうか、岩場から転落して死亡するという事故があった。詳しくは憶えていないが、岩場で釣っていたところをみると、マダイかイシダイをねらい真鶴から伊豆半島あたりへ出かけて事故にあったのだろう。父親を突然亡くした彼女は、その後どうしただろうか? ふだんから、浜辺の投げ釣りか沖の舟釣りしか見ていなかったので、そんな危ない磯釣りがあるのをそのとき初めて知った。
鎌倉の七里ヶ浜から稲村ヶ崎にかけても、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線)を鎌倉へと向かう路線バス(1960年代後半)で走ると、浜釣りの竿がずっと連なっていたのをよく憶えている。キスを釣るはずが、フグばかりかかって腐っている大人たちもけっこういた。夏に浜辺を歩くと、釣り人たちに打ち棄てられカラカラにひからびた、フグの死骸が点々とつづいていたものだ。
稲村ヶ崎の釣りで思い出すのが、俳優の山村聰と森雅之がやっていたキス釣りだ。七里ヶ浜にアトリエをかまえた、森雅之の叔父にあたる有島生馬Click!邸を根城にして、孤独なひとり釣りを好む山村聰にしては、めずらしく友人と竿を並べている。TVドラマなどで見せる、ものわかりがよくて優しい父親イメージとは裏腹に、山村聰は孤独を好みかなり気むずかしい性格だったことが伝えられている。だから、この稲村ヶ崎のエピソードがことのほか印象に残っているのかもしれない。1974年(昭和49)に二見書房から出版された、山村聰『釣りひとり』から引用してみよう。
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森雅之君とは、別に、そう親しい間柄ではない。ある時期、どういうわけか急に親しくなり、暫くすると、他の俳優と同じように、仕事以外では極めて疎遠になってしまった。/ ある夏の日、彼が突如として言うのである。/「君、投げ釣りっての、知ってる?」/「知ってるよ」/「じゃ、稲村ヶ崎へおいでよ。おもしろいぜ」/森君が釣りをやるとは初耳であった。/「釣りをやるの、君が?」/「ああ、やるよ。ただし、豪快な奴をね」/毎年梅雨どきになると、大磯から小田原にかけて、海浜は、キスの投げ釣りで賑わう。これは、遠投を必要とする釣りで、そのためには、滑りのいい、木製のリールが考案されていて、小田原式と呼ばれていた。特に、回転軸にベヤリングを組みこんだ小田原式リールは、威力を発揮していたが、ブレーキもストッパーもなく、投擲には相当な熟練を要した。
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森雅之の「釣り」は、投擲で糸がパーマネント(お祭り)になると、近くの釣り具屋へ人を呼びにいって釣り竿をまかせ、自分は海でのんびり泳ぐのが常だったようだ。しまいには、投擲も面倒になったのか「投げといてくれ」と釣り具屋にゆだね、キスがかかったときだけ海から上がってリールを巻いていたらしい。この“殿様釣り”には、山村も開いた口がふさがらなかったようだ。
山村聰は、あらゆる釣りを経験したようだが、結局、最終的にはヘラブナ釣りに回帰している。そして、自身の釣り具店「ポイント」を銀座(のちに日比谷)へオープンするかたわら、ヘラブナ釣り会を起ち上げている。彼が頻繁に出かけていたのは、利根川の水郷(霞ヶ浦)一帯や牛久の竜ヶ崎あたりだったようだが、冬はヘラブナがかからないため、やむなくマブナ釣りをしていたらしい。再び、同書から引用してみよう。
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利根川を越したところで、水戸街道を右に折れ、竜ヶ崎への近道を行くと、街の手前に、道仙田というところがある。これは、旧小貝川の氾濫の名残の池で、川のような帯状をなしていて、奥のおんどまりの部分が釣場になっていた。/昔、関東では、冬場は、へらぶなが殆ど釣れなかった。へら鮒専門の釣り会でも、冬の二、三ヵ月は、オフシーズンとして、月例会を休んだ。従って、へらぶな師は、冬は釣堀に通い、せめてもの鬱憤を晴らしていた。関西では全盛の釣堀が、東京には、小池、金木など、ほんの二、三に限られていた時代のことである。/釣堀で釣れるへらぶなが、野池で釣れない筈はないと、熱烈なマニヤは、冬の野へも出かけて行った。私なども屡々出漁したが、まず、釣れたためしがなく、すぐ、真鮒釣りに転向してしまった。佐原の水郷地帯では、真鮒師ばかりが出ていた。岡からの、脈釣り、しもり釣り、船の並べ釣りなどが、冬の水郷の景物であった。
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子どものころ、わたしもいっぱし釣り竿を持っていて、近くの川や池で釣りをしていた。親には釣りの趣味がなく、友だちに教えられて釣り具屋で竿をそろえ、川や池へと出かけた。いまでは、埋め立てられて住宅地になってしまったが、いくらかゴミが棄てられ決してきれいとはいえない池で、小さなマブナをときどき釣っていた。釣りは嫌いではないが、その後、趣味として根づくことはなかった。
山村聰がクルマ(クラウンだろうか?w)で出かけた水郷へ、昭和初期に汽車を乗り継ぎ半日かけて通った釣り人がいた。なにごとにも凝って、プロはだしの腕にならないと気がすまない、構造社の彫刻家・陽咸二Click!だ。めざす獲物は、マブナとタナゴが多かったようだが、陽咸二の家ではどちらも好まれず、タナゴはかろうじて女中が食べていたらしい。東京湾が目の前に拡がる月島育ちの陽咸二は、もの心つくころから釣りに親しんでいた。1931年(昭和6)に発行された、「構造社第5回展美術展覧会出品目録並ニパンフレツト第四号」から引用してみよう。
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鮒もタナゴも僕の家の者は食べない、たゞ女中がタナゴの佃煮が好きで時々煮て居るがこの魚は大き過ぎて佃煮には工合が悪いと云て居る、一度煮ると十日位はあるので毎日釣つて来る魚は遂に貰ひ手が無くなる。/鮒はタナゴより貰ひ手が少ないので釣て来て閉口する、女房からは帰りに捨てゝ来て貰ひたいと拝まれるのだがまさか釣場に捨てる訳にも行かない、殊に尺鮒となるととても立派で人にやるさへ惜い気がする。鮒釣は足に時間を取られるのでつらい、佐原十六嶋、神崎、滑川、龍ヶ崎位まで行かないといゝ釣が出来ないのだからやり切れない。一番で出発して釣場に着くと昼飯だ、六時の汽車で帰ても家に着くと十二時と云ふ労働だから綿の様に疲れて仕舞ふ。此の位熱心に彫刻をしたらと皆も云ふし自分も思ふのだが……。
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遠出のマブナ釣りの合い間、毎年4月になると近所の川でのドジョウ釣りにもはまっている。川岸に竿を7本ほど並べ、端から順番に上げていくと、5本ぐらいの竿にドジョウがかかっていたそうだ。それを繰り返すと、短時間のうちに200~300匁(もんめ:750~1,125g)ぐらいの収穫にはなったらしい。
ドジョウは、マブナやタナゴとはちがって家族の人気は高く、釣って帰ると家では機嫌のいい顔をされたようだ。おそらく柳川か唐揚げ、天ぷらにして食べたのだろう。構造社展のパンフレットから、つづきを引用してみよう。
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此の時分にはまだ余り市中で売つて居ないので貰い手も多いし家でも歓迎して呉れる。釣としては鮒釣と同じく面白味は少ないがのんきな釣だけに野趣捨て難い所がある、タナゴ釣が禅ならこれは又俳味と云ふ様な趣がある。そして嬉しい事には釣つた魚を邪魔にされないから有難い、本年も又ドゼウを釣らう。
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わたしの印象に残る釣りといえば、近所の池で釣った先のマブナと、真鶴のマダイ、軽井沢のアユぐらいだろうか。マダイもアユも、竿はみんなその場で借りて釣ったものだ。子どものころに住んでいた家の前浜では、毎朝、地曳き漁が行われていた。曳くのを手伝うと、一網打尽にされた小サバやムロアジ、マアジなどがすぐにもらえるせいか、竿1本でジッと待ちつづける釣りとは、なんて効率が悪いのだろうと感じていたにちがいない。そう、せっかちなくせに不精な性格は、到底、釣りには向きそうもないのだ。
◆写真上:山村聰と森雅之がキス釣りを楽しんだ、引き潮の鎌倉・稲村ヶ崎。
◆写真中上:上は、鎌倉の浄明寺ヶ谷(やつ)が舞台となった成瀬巳喜男『山の音』(1954年)の山村聰(左)と原節子(右)。中は、水郷に出かけてヘラブナを釣る山村聰。下は、釣りの合い間に家族と磯遊びも楽しい大磯・照ヶ崎。
◆写真中下:上は、昔ほど釣り人がいない西湘の夕暮れ。下左は、1974年(昭和49)出版の山村聰『釣りひとり』(二見書房)。下右は、アトリエの陽咸二。
◆写真下:上は、やはり釣り人の姿が少ない平塚・袖ヶ浜海岸で、平塚新港フィッシャリーナ防波堤の先端に見えているのは茅ヶ崎沖の烏帽子岩。中は、芝生でコイ釣り遊びをする陽咸二。下は、1931年(昭和6)に開かれた構造社の第5回展会場。