入谷の鬼子母神Click!(きしもじん)に雑司ヶ谷の鬼子母神Click!ときたら、次は目黒の鬼子母神ということで、さっそく中目黒駅を降りて実相山正覚寺(目黒鬼子母神)を訪ねてきた。東横線の中目黒駅前には、めずらしくカシコネとオモダルの夫婦神が2柱そろった第六天社Click!が健在だ。江戸期から上目黒村と中目黒村の入会地にあった境内が、改正道路(山手通り)Click!の工事で消滅させられそうになったとき、南西80mほどの中目黒駅前の位置へ遷座しているとみられる。
目黒鬼子母神(正覚寺)は、中目黒駅から南東へ300mほどのところ(現・中目黒2丁目)に境内がある。同寺は1619年(元和5)に日栄が開山し、仙台藩第4代藩主の伊達綱村の母・三澤初子が開基した寺だ。もう芝居好きな方ならピンとくると思うが、入谷鬼子母神というと直近の蕎麦屋が舞台の河竹黙阿弥『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』、雑司ヶ谷鬼子母神は時代が下って村松梢風・原作の新派芝居『残菊物語』とくれば、目黒鬼子母神は歌舞伎の『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』だ。
『先代萩』は、実際に江戸期に起きたとされる仙台藩の「伊達騒動(寛文事件)」を、鎌倉時代の事件Click!ということに置き換えて書かれた芝居で、近年の時代小説ブームでは山本周五郎の『樅の木は残った』として記憶されている方も多いのではないだろうか。目黒鬼子母神には、同芝居に登場する「鶴千代」(亀千代=4代藩主綱村)の乳母でありヒロインの「政岡」(実際は母・三澤初子)の墓があることで知られている。「鶴千代」の身代わりに実子「千松」を殺されたとき、涙を見せなかった「正岡」が、陰で「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ」という口説きゼリフとともに泣くシーンはあまりにも有名だ。
実際の「正岡」こと三澤初子は、非常に美しく聡明だったようで、3代藩主・伊達綱宗の側室となったが、綱宗には正妻がいないので彼女が実質の正室だった。三澤初子は1659年(万治2)に、江戸の仙台藩屋敷で亀千代(4代藩主・伊達綱村)を産んでいる。そして、翌年に伊達綱宗が隠居をすると、わずか2歳の綱村が4代藩主となった。その後見人として、伊達宗勝が藩政を仕切ることになったのだが、政務に偏りがあったため藩士・藩民に不満がたまり、思いあまった伊達安芸が幕府(徳川家綱)へ訴える……という、ドロドロのお家騒動に発展してしまう。
詳細は、膨大な書籍や資料が出ているので参照していただきたいが、のちにフィクションが多く実際の事件展開とは乖離している『伽蘿先代萩』に代わり、河竹黙阿弥Click!が史実に合わせた『実録先代萩』を書いている。『実録先代萩』では、「正岡」は「浅岡」の名前で登場しているが、相変わらず烈婦として描かれているので、三澤初子の実像とはやはり乖離しているのだろう。
目黒鬼子母神の山門を入ると、本堂前の大きな三澤初子の銅像が目につく。1934年(昭和9)に篤志家が建立したもので、彫刻家・北村西望、建畠大夢、新田藤太郎の3者合作による。三澤初子は、もちろん江戸期の1686年(貞享3)に47歳で死去しているため、当時『先代萩』の「正岡」役が多かった6代目・尾上梅幸がモデルだ。だが、梅幸は舞台に忙しかったためか、実際にアトリエでモデルになったのは、面影が似ている弟子の尾上梅朝と伝えられている。戦時中の金属供出で溶かされなかった、東京の銅像としてはめずらしい存在だ。
三澤初子のポーズを見ると、打ちかけを着て右脚をやや前に出した彼女は殺気だっているのがわかる。左手で、帯に指した刺刀Click!(さすが=短刀)の刀袋をほどき、いまにも右手が柄にかかって抜刀しようとしている姿だ。彼女の刺刀は、江戸前期の新刀の中では最上大業物(さいじょうおおわざもの)に指定された、伊達藩藩工で初代・本郷国包の作だったかもしれない。自分の子どもを守り抜く、いかにも母親の死にものぐるいの“殺気”であり、瞬時に駆けだして相手を刺し殺しかねない怖い姿勢だ。
目黒鬼子母神をあとにしてめざしたのは、南へ直線距離で1,000mほどのところにある目黒大塚山古墳だった。中目黒のこの一帯も、上落合Click!と同様に昭和初期まで「大塚」という字名が残されている。その中で、現代まで伝えられているのが目黒大塚山古墳だ。古い調査では円墳とされているが、最新の科学的な調査技術を用いれば前方後円墳だった可能性が高い。都内では、1980年代から古墳の再発掘調査がつづいているが、従来は円墳だとされていた古墳が次々と前方後円墳であることが判明しているからだ。比較的墳丘が低く、整地化しやすい前方部を開拓して農地ないしは宅地にし、玄室のある崩しにくい後円部だけをかろうじて残したケースが多いと見られる。
目黒大塚山古墳(現・大塚山公園)に着いてみると、墳丘とおぼしきふくらみはほとんど崩されてすでに失われ、拡幅された道路と宅地、そして児童公園にされていたのでガッカリした。公園内に土留めを施された、北側へ円形にカーブをする急斜面が見られるので、おそらく墳丘(前方後円墳なら後円部)は公園北側にあるのだろう。現状では同エリアは立入禁止になっているので、古い時代に撮影された空中写真を観察してみることにする。
目黒大塚山古墳は、谷間に目黒川の支流だった谷戸前側(現・暗渠化)を見下ろす東向きの斜面に築造されている。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、やはり北側に円形らしいフォルムが見えるので、これが墳丘(後円部)だろう。また、戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した写真では、北側の円形から中央のくびれを経て南側へつづいている様子が見てとれるので、これらの写真から判断するかぎり、前方後円墳ないしは初期の帆立貝式古墳のように見える。墳長は100mほどだろうか、東京の同型古墳にしては中規模のものだ。
目黒川の両岸に展開した河岸段丘にも、数多くの古墳があったとみられるが、江戸期の農地開拓あるいは大正期末から昭和初期にはじまる宅地開発で、そのほとんどが破壊され消滅している。目黒地域ではほかに、東京ではめずらしい方墳である、碑文谷狐塚古墳が確認されている。目黒に限らず、都内各地では「狐塚」Click!とされていた古墳があちこちに多い。西池袋の「狐塚」Click!も、おそらくそのひとつだったのだろう。
目黒大塚山古墳は、前澤輝政Click!の『東国の古墳』(三一書房/1999年)でも、そのほかあまたの古墳本や資料でも、待乳山古墳Click!や御茶ノ水地下式横穴古墳群Click!、地形図で明らかな新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、まったく古墳としてカウントされていない。江戸期から古墳の伝承が残り、また戦前には実際に発掘調査が行なわれ古墳と規定されている遺跡にしても、東京では政府によって「なかったこと」に、あるいは「無視」されるケースが明治期から現代までつづいている。
おそらく、同じ関東の千葉県(南武蔵勢力圏)や群馬・栃木県(上・下毛野勢力圏)と同様に、江戸東京とその周辺エリア(南武蔵勢力圏)にある古墳のボリュームやサイズ、その築造時期などが、近畿圏を超えて上まわる(古くなる)のを非常に怖れているのだろう。文科省の「科」は、人文科学や社会科学の「科」だ。明治政府に根のある前世紀の「皇国史観」(関西史)の妄想を棄て、そろそろ21世紀の科学的な「日本史」を築きたい。
◆写真上:目黒鬼子母神(正覚寺)境内にある、6代目・尾上梅幸がモデルの「正岡」像。
◆写真中上:上は、1953年(昭和28)撮影の「正岡」像。中は、銅像正面の現状。下は、戦前に撮影された『伽蘿先代萩』で「正岡」を演じる6代目・尾上梅幸。
◆写真中下:上は、目黒鬼子母神の本堂。中は、1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図にみる中目黒村の大塚周辺と大塚山古墳の位置。下は、墳丘があったとみられる大塚山公園の北側にある立入禁止エリアの現状。
◆写真下:上は1936年(昭和11)の、中は1947年(昭和22)の空中写真にみる大塚山古墳。特に1947年(昭和22)の写真では、円墳ではなく後円部を北にした前方後円墳の形状に見える。下は、前方部とみられる位置から後円部の方角を見る。